写真集とか画集とか詩集とかは、値段が高いけど、
それが古本ならば、リーズナブルな価格帯になる。
ということで、安いとついつい買ってしまいます(笑)。
そうして買ってあった詩集に、高田敏子著「月曜日の詩集」がありました。
河出書房新社から昭和37年に出ておりました。
手にした古本は、同じ月に再版されたものでした。
新聞の毎週月曜日の夕刊に掲載されてきたので、
詩集の題名もそのままつけられたようです。
あとがきに
「詩をもっと親しみやすくするために写真を配することになり、
詩を書く仲間の一人である菊池貞三さんにカメラのご協力をお願いした」
とあります。この詩集では2~3ページおきに写真が載っていて、
掲載時の雰囲気が分かるような気がしてきます。
定価は280円。とあるので最初から手にしやすい価格だったようです。
最後の著者略歴を引用。
「1916年、東京日本橋に生まれる。
旧制跡見高女卒業後結婚、ハルピン、北京、台湾などに移り住んだ。
娘、娘、息子と三人の母親。・・・・」
あとがきに、新聞に掲載された写真について語られております。
「写真をいく日もながめながら、私は過ぎてきた生活のひとつ
ひとつを思いだしていった。そして私を、いつも生きる岸辺に
つなぎとめてくれる何かを探していった。」
この古い詩集を手にして、詩と写真とを交互にみながら、
楽しめるのですが、「あとがき」のまえには、新聞の家庭部次長さんの
文があり、何か珍しいことのように読みました。
その新聞社の方の文の最後には、新聞に掲載された詩に
対するファンレターが寄せられて反響があったことが語られています。
そして最後には、ファンレターの一人の方の文を引用されておりました。
「私は、月曜日の『週間奥さまメモ』を、何よりも楽しみに拝見しています。
まっさきに、高田敏子さんの詩を読ませていただきますが、いつも心に
あたたかくしみて、自分の思ったり感じたりしていることを、そのまま、
高田さんが美しい詩にあらわして下さるような気がいたします。
また、メモのなかには、必ずといっていいように、私が明日しましょうと
考えていることや、二、三日まえにすませたことなどがのせられています。
そのたびに子どもたちに、ホラ、またおかあさんと同じ考えが書いてあったわ、
とか、ねえ、きのうおかあさんがしたことが出てるでしょう、などと話しかけずに
はいられません。子どもたちも、このごろは、この詩やメモ、きっと、
おかあさんくらいの年の人が書いてるのかもしれないわね、
などとあいづちをうってくれます・・・・・」
「おかあさんくらいの年の人」といえば、
詩集の著者略歴は、1916年生まれとなっておりましたが
高田敏子全詩集(花神社)の自編年譜で確認すると、
1914年(大正3)生まれとなっておりました。
はい。しっかり2歳、齢を若くしているのはご愛嬌か、
編集者の指示か?
自編年譜を繰っていると興味尽きないのですが、
関東大震災の箇所を引用しておきます。
1923年(大正12) 関東大震災。本所方面に上った火の手が
隅田川を越えて、女子供が先ず先に逃げた。祖母、母、姉、私、弟。
道は避難の人で埋まり、押され押されて歩き続けた。
新橋の浜離宮の茂みの下で少し休み、火の粉の下をくぐって
路線道にのぼり、大井町の知人宅まで逃れた。
途中、傾いた電車の中で仮眠。
同年9月10日ごろ、伯母の実家の神奈川県小田中(現在川崎市)の
農家にあずけられ、その土地の小学校に入学。二カ月ほどで、
焼け跡のバラック建ての家に帰る。
東華小学校に。机、椅子もなく、むしろを敷いての授業。
はい。ついつい引用が長くなるので、
ここまでにいたします。