山崎正和著「室町記」の第五章にある
「茶と花(一)(二)」を読むと、生け花への、見方がかわります。
ということで、取り出したのは
吉村華泉『龍生派の生花と立華』(講談社・1982)。
私の妻の亡くなった母が、この派を学んでいて、
当然のようにこの本が本棚にありました。
はじめてひらきます。
最初に「龍生派の生花と立華」という4頁の文があり、
そこを引用してみます。
「・・・・野山に咲く季節の花々をとってきて、
その美しさをすこしでも長く保存させるために、
花瓶やありあわせの器に水をいれ、それに挿して
屋内の飾りとする、また、花の美しさを歌に詠じ、
その花を髪に飾るということなど、われわれの祖先は
感覚的に自然を生活のなかにとけこませる術にたくみ
だったといえるのです。
こうした風土のところに、中国から仏教が渡来してくると、
生活のなかの素朴な飾りとしての花々は、宗教的な儀式としての
『供華(くげ)』という形式のなかに、別の用途を見出すことに
なったのです。
この『供華』には、花盤(けばん)に花を短く盛る方法、
花弁を一枚ずつにして器に盛り、これを手で散らす散花(さんげ)の方法、
そして花瓶に花を立てて供える方法などがありましたが、このなかで
最後の方法が、のちに『立花(たてばな)』という、
いけばなの最初の様式に連繋していくことになるのです。
『供華』は仏にたてまつる花として、純粋に宗教的、
儀式的な意味をもったものでしたが、年月を経るにつれて、
それらの意味あいはあいまいになり、むしろ人々の鑑賞に供する
『座敷飾り』としての傾向が強くなります。
三代将軍足利義満が好んで催した『七夕御法楽供養の花会』などは、
そのような事実をうらがきしています。
そうした傾向はさらにすすんで、室町中期には
花そのものの美しさを観賞するだけでなしに、
そこに立てられた花、つまり、いけばなの作品が
問題にされるようになります。そこでは、明らかに、
自然の花の美しさを愛でるというよりも、
その花を挿し、立て、いけるといった、人間の行為のほうに
興味の中心が移ってきたことを示しているのです。
ここに、いわゆる『立花(たてばな)』の様式が確立するのですが、
これを育てたのが、八代将軍義政の同朋衆や禁裏の雑掌たちであり、
応仁の乱以後はそれが京都頂法寺の僧侶たちにうけ継がれていく
ことになるのです。
当時の『立花』は、自然描写的なものが多く、素朴なものだった
ようですが、安土桃山時代になると、時代の好みを反映して、
豪華雄大な規模のものが立てられるようになり、この時代の末に、
名人池坊専好が、ひきつづき江戸時代初期には二代池坊専好が
輩出するにおよんで、立花は『立華(りっか)』としての
様式を確立し、その最盛期を迎えることになるのです。
立華様式が確立した頃、村田珠光、千利休といった人々に
よって、簡素な精神を旨とする『侘茶』がはじめられ、
同時に茶席の花として『茶花』が創成されました。
これはいわゆる抛入花(なげいればな)といわれるもので、
花器も花材もすべて簡素なものを用いました。
一方、立華様式は次第に定形化し、自由な創意を失い、
形式的な技法の形骸を伝承するだけのものになっていくのです。
このような立華のあり方に疑問をもち、また反発していく立場から、
さきの『抛入花』が注目されはじめ、やがてそれは変革していく
時代感覚のなかで、新しい様式のいけばなとして考えられるように
なるのですが、これが『生花(せいか)』とよばれる、
より庶民的ないけばなだったのです。
立華様式にくらべて形式ばらず、手軽にいけれる点、
時代の好みに合致した点など、人々の興味はこの新しい
いけばな様式に強く集まって急速な流行をみせることになり、
生花は立華に代わって江戸時代を代表するいけばな様式へ
と発展していったのです。・・・・」
はい。はじまりの箇所だけを引用してみました。
へ~。65歳を過ぎると、こういうことへも興味がもてる。