和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「枕草子」を読む楽しみ。

2020-12-06 | 本棚並べ
島内裕子校訂・訳「枕草子」上下(ちくま学芸文庫)。
この下巻の島内裕子さんの解説は、平成29年2月15日と
日付があります。
はい。ここからこの箇所を引用。

「『枕草子』を読むということは、
散文を書く行為がもたらす自由の実体を、
しかとこの目で見届けることであった、
そこにこの作品を読む楽しみもある。
頁を繰るごとに眼前に広がる景色は、
新鮮な空気に満ち、花の香りや草の匂い、
雨の湿り気、風の強弱までも、さまざまに描き分けている。

夜空には月が照り、星々が輝く。
地上には、人間の生活がある。
宮廷の日々、天皇・中宮・殿上人・女房たち・・、
と文字だけ列ねれば、摂関政治や受領階級などという言葉が
現代人の頭を掠める。けれども、それらの言葉によって
『枕草子』が書かれているわけではなく、そもそもが、
当時の社会機構を後世の人々に伝える目的があったわけではない。

清少納言は自分が書きたいことを、自分の言葉で、
散文として書き綴った。このことが何より大切である。

宮廷のしきたりや、身分とそれにともなう職掌や、
宮廷人たちの衣裳の素材や色彩が、次から次へと
『枕草子』から溢れ出てくる。文章の意味を考えて
いるうちに、いつの間にか新しい場面に移り変わり、
現代と変わらぬ人情の機微や季節の順行が書かれていれば、
『そう、その通り』と頷くうちに、また宮廷生活の一齣に
変わっている。その間断することのない場面転換の中で、
読者の方でもいつの間にか、『枕草子』の緩急自在な文体と
内容に、自分の心を乗せる術を身に付けて読み進めることが
できるようになる。

 ・・・・・・・・・・・

『枕草子』は、『今、この瞬間』を生きている人間の多様性と、
精神の自由なあり方を、生気に満ちた表現で綴ってゆく。
それは、何よりもまず清少納言自身が、この現実世界に
倦んでいないからであって、たとえ退屈で鬱屈する時が
あったとしても、本を読んだり美味しい物を食べたり、
真っ白な綺麗な紙の束を貰ったりすれば、
物憂さも晴れようというものである。
 ・・・・・・」(p502~504)

はい。ここに、最新の枕草子の解説があるのでした。

きょうは日曜日。12月の最初の日曜日は
この地区では海岸掃除ということで、
砂浜のゴミをあつめて、海岸のところどころで、
燃やしました。快晴で、風もなく、サーファーがおり、
砂浜には、川から流れてきた竹や木などが、
打ち上げられているのでした。それをところどころに
集めては燃やします。午後になってから
その燃え残りに砂をかけてまわって、終了。
各家から一人でるのですが、私は若い方です。

オイ。『枕草子』という、海原へは、いつ漕ぎだすんだい。
と、今日の海も心配してくれているようでした(笑)。

コメント
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