谷沢永一編「なにわ町人学者伝」(潮出版社・昭和58年)の
最後に、肥田氏による「大阪の名著発掘」が掲載されていて、
10冊の本が紹介されておりました。その最後に
猪飼九兵衛著「方言と大阪」(1948年)が取りあげられており、
気になっておりました。まずはその紹介文から引用することに、
「著者は大鉄百貨店(現・近鉄百貨店アベノ店)の
専務取締役という純然たる経済人であったが、
自分の知っている大阪弁をどうしてもまとめておきたい
熱意からこの書物を完成した。幸いなことに、
著者の生家は元禄時代以来十数代も続いた大阪の旧家であり、
そうした背景の重みがこの書の内容に独特の厚味を添える。
そして、肩ひじはらぬあたたかい記述が、さらにこの書物を
一層親しみふかくする。
・・・・・・・
昭和23年はまだ戦後の物の不自由な時代であった。
この本の装幀は芹沢圭介の手染の表紙、山内金三郎の挿画、
本文は謄写版の二色刷という、当時としては手づくりの
精一杯の贅沢な雅装に仕立ててある。
ただし、三百部限定出版であったため、この名著も
広く知られずにいるのである。」(p173)
はい。この紹介文が気になっておりました。
ネットの「日本の古本屋」さんで検索すると、
5500円+送料370円=5870円が一番安かったので、
注文しました。それが届いておりました。
和紙に染められた芹沢圭介による題字と著者名と表紙絵。
このカバーはとりはずして額に入れておきたくなります。
本のサイズは19㎝+13.5㎝に、厚さが1.8㎝。
文字は、昔のガリ版刷りといった手書き感です。
うん。「まへがき」は方言まじりで書かれております。
そのはじまりを引用。
「わたしが東京のさる処に勤めてました頃、
明治も末に近い38年 そこは九分通り地下(ぢげ)の人達で、
使ふてなさる言葉は江戸っ子、大阪ものは私一人、
まことに心淋しふして居ましたが、日が経つほどに
仕事にも馴れて来(き)、馴染も出来(でけ)
やっと落付いて其日が送れるやうになってくると、
ぼつぼつ性来(しょうらい)の地金(ぢがね)が出て
話し声が大(おほ)きふなりだしました。
ある日、蓆を三千枚ばかり買ふため電話で何気(なにげ)なく
『お店におまへんか』と聞合せますと、私の席に近い人達が
ペンの手を止めて何(なん)やら皆私の顔を見てなさる様な
風(ふう)でしたが、こっちは別に気にもせず
『・・・にまかりまへんか』『まけときなはれ』と云ふと
ワッと一座から哄笑が揚がりました、ハッと気がついた大阪弁、
しかし地声は大きいのやし、云ふたもんは云ふてしもたもんやし、
先方は大阪弁でもよくわかり、こちらの云ひ値にまけて呉れて話は済み、
受話機をガチャリと架けて頭をかきかきちゃがまると
又一ときの曝笑でした。それから私は『おまへんか』といふ
ニックネームを頂戴する事となりました。・・・・・」
はい。芹沢圭介の和紙染め表紙絵を、これは美術品として購入。
ということで、5870円は、すこし高い程度だと自分に言いきかせ、
せっかく購入したのですから、もう少し引用をつづけます。
「・・・尚東京は一流と三流のお人が案外多く、
又大阪は二流どころが可成り沢山あり、
中産階級=問屋=町人を中心とする處柄でしたから、
北船場などの純大阪町人のうち(家庭)の言葉が
ほんまの大阪弁で相当に品(ひん)のよい情のあるものでして、
船場は船場、はしばしははしぼし、いろまちはいろまちと
狭まかった大阪でもそれぞれはっきりして居りましたなりに
各其昔を伝へて来て居ましたが、大正も年を重ねますると、
今日までのはしばしが局部的に一つの中央をつくり出して参り、
左様の新興各区のお人達にはむかし大阪の方言は案外縁の薄い
ものでして、てまへどもの様に・・・・・・」
さて「まへがき」の最後も引用して、しめくくります。
「・・御恥しきことながら、まとまった大阪方言の書物も
あまり見掛けませぬことでもあり、止むに止まれぬ昔こひしの
心からですで、同好辱知の御人達も居られませうから、
足らぬところは補ふてくだされ違ふているところは改めて下されて
しかるべきものの出来る踏台にもなりますようなれば、
私として此上のよろこびは御座りやへん
昭和22年冬 」
そうそう、最後には
そろばんの挿画のわきに
「方言と大阪 三百部限定 実費頒布
第百十三号也 」とありました。
三百部中の百十三番を古本で購入。
この「百十三」の文字は赤字で記入されておりました。
はい。この本の5870円が高いか安いかは、
きっと意見の分かれるところでしょうが、
購入でき私はよかったと思っております。
それから、和紙の表紙は、取りはずして、
額装して身近に掛けておくことにします。