和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

鬼の戯画化と翻弄と。

2020-12-29 | 本棚並べ
昨日、注文してあった古本の文庫が届く。
福永光司の「荘子 内篇」(中国古典選12・朝日文庫・昭和53年)。

さっそく福永氏による、はじまりにある内篇解説をひらく。
解説の終りには、文庫版「荘子」の刊行にあたってとあり、
こう書かれておりました。

「この文庫版『荘子』6冊のうち、
第1冊の『内篇荘子』は今から20数年前、昭和20年代の後半、
わたくしが戦地から復員して大阪の北野高等学校に教諭として
勤務していたころ執筆された。
 ・・・・・
とくに『内篇荘子』は・・高校生を主とする若い人々に
『荘子』の思想のあらましを理解してもらうために執筆
されたものであり、アカデミックな注釈書・研究書として
の配慮がほとんど加えられていないので・・・・」

うん。こういうのを読みたかったんだ(笑)。
さて、『内篇解説』のはじまりを引用しておくことにします。

「荘子は中国民族の生んだ鬼才である。
鬼才の『鬼』とは、人間ばなれしている、世の常と異なっている、
まともでないという意味であるが、荘子は中国の歴史が育てた
最も偉大なまともでない思想家なのである。
だから『荘子』のなかには、
『論語』に見られるような篤実温厚な人生の智恵や、
『孟子』に見られるようなひたむきな理想主義の教説は
ほとんど見られない。『論語』や『孟子』が、そのままで、
倫理の教科書となりうる性格をもつのに対して、
『荘子』は必ずしも、そうではないのである。」

はい。とりあえず、ここには、福永光司氏の解説の
1ページ目の全文を引用しておくことにします。
つづけます。

「孔子や孟子はまともな世界に住んでいる。
まともな世界とは、常識的な思考が肯定する世界、
世俗的な価値が権威をもつ世界である。
荘子はこの常識的な思考と世俗的な価値とを哄笑する。

だから彼の手にかかれば、孔子の謹厳さもたちまち
独りよがりのおっちょこちょいとなり、
絶世の美人も忽ちグロテスクなしゃれこうべとなる。
当代の聖賢も彼の前では翻弄され、古今の歴史も彼の前では戯画化され、
宇宙の真理も彼の前では糞尿化される
( 荘子の知北遊篇に「道は尿溺(しにょう)に在り」—――
  真理は糞小便のなかにあるという言葉がある  )。

彼はその翻弄と戯画化と糞尿化のなかで、
人生と宇宙の一切を声高らかに哄笑するのである。
荘子は痛快な諧謔の哲学者であり、天成の大ユーモリストである。」

はい。これが福永光司氏が
戦後すぐの高校生に向かって語りはじめる
『荘子内篇』のはじまりの言葉なのでした。




コメント (2)
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