和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

大坂では『おっしょはん』。

2020-12-05 | 本棚並べ
「難波大阪」の3冊本は
和綴本を仕舞っておくような丁寧な函入。
昭和50年発行で、その際の定価が2万円。
うん。その金額で購入していたとしたら、
おそれおおくて、ページをひらくのさえ、
ためらわれるだろう、りっぱな装幀です。

はい。古本値で購入できたので、
いまでも十分きれいな本ですが、
お気楽くにページをひらきます。

今日は、難波大阪の「歴史と文化」の巻
をひらく。パッとひらくと寺子屋とある。
うん。興味深いので引用してみることに。


「寺子屋・寺屋というのは京坂の言葉で、
江戸では手習い師匠とか書道指南とかいっていた。

そこで教える人のことを師匠、お師匠さん、お師匠様といった。
大坂では『おっしょはん』と呼んだ。

子供の方は弟子、弟子子(でしこ)と江戸ではいった。
江戸で300軒ぐらい、それに内職的なものを入れるともっといた。
浪人者、儒学者、神主、僧侶らがやり、一軒に一人の師匠がいた。

師匠の机は教え机で、唐机(からづくえ)であり、
弟子の机は稽古机で、天神机であった。

武士の師匠は脇差しを差し、木刀、タンポ槍、
弓の折れ矢を置いて弟子を戒めた。

弟子のなかには番頭という級長格の者がいて、
弟子入りして間のないものを教えた。
7歳ぐらいで寺子屋の場合は寺入り、
手習い師匠では弟子入りをした。
2月の初午に入るのが普通であったが、
それ以外いつでも入れた。束脩として
一朱または二朱を持って行くことになっていた。

道具は机、硯箱、白紙の折手本、草子一冊で、
手本は師匠が書いてくれた。
そこでは普通行書を習い、
楷書や草書は別に書家について学んだ。

朝の五つから八つまでやり、
月謝は200文位だが、月謝を取らないで、
五節句に200文か300文、あるいは一朱をとる者もいた。

夏には畳銭、冬には炭銭を納め、
盆や暮には砂糖袋と200文ぐらいをそえて出した。

『いろは』『一二三』『江戸方角』『竜田詣』『庭訓往来』
などを教材にし、最後に『商売往来』を学ぶ。

毎月25日は天神様で稽古を休み、秋には天神様に参った。
町の手習い師匠でも、普通の弟子が帰った後の
八ッ過ぎには四書、五経ぐらいは教えた。

大坂では『商売往来』や証文、店請状などで、幾分の商業教育もした。
また幕府は高札文などを教材として
寺子屋の師匠に下付し、風教維持の一手段とした。
また、大阪では、算盤屋という和算を教える塾が一般化していた。」
(p321~322)

はい。まだつづくのですが、ここまで、
私は、じゅうぶんに満腹感があります。




コメント (6)
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