和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

ODAを削減し。

2011-04-15 | 短文紹介
昨日は風邪をひく。7・8度ぐらいでしょうか。
歯茎がはれていたので、それもあるのかもしれないなあ。
今日は歯医者へ。明日様子で膿をとりましょう、とのこと。

谷沢永一氏の対談で、こんな箇所がありました。
「阪神大震災でわかった日本人の苦い側面」対談者会田雄次。

谷沢】 それから、どこかの記者が河野外務大臣に、『ODAを削減して、国内向けに急遽カネを動かすべきじゃないか』といったら、即座に河野さんは『そんなことはできません』と答えましたね。
会田】 あの人も呆れるほどダメな人ですなあ。ただでさえODAは多すぎる。外務官僚などが大きな顔をするために、国民の血税を無駄遣いしすぎているのだから、それを減らすのに絶好のチャンスだった。『これは半減せざるをえない。こんなときですから、ご了承願います』と、宣言すべきだった。
谷沢】 『日本に緊急事態が生じましたので、急遽、方針を変更いたします。復興の暁にはまた何とかします。非常事態のあいだは臨時措置をお認め願いたい』といえるチャンスだった。
会田】 それをまるでやらなかった。自分を長とする外務官僚の権限維持のためにね。結局、村山首相も河野外務大臣も政治家ではないんです。
谷沢】 今回、日本には、役所はあるが、政府はない、ということがよくわかりました。これは最大の教訓だったと思います。 (p17~18「人間万事塞翁が馬」谷沢永一対談集・潮出版社)


ところで、会田さんはODAを半減せざるをえない、といっていたわけですが、
産経新聞4月14日の2面に、こんな箇所。


「平成23年度1次補正予算案の財源をめぐる政府・与党の内紛も表面化した。民主党外務部門会議は13日、復興財源捻出のために政府開発援助(ODA)削減に反対し、党幹部に再考を促すことで一致した。・・・松本(松本剛明外相)氏も・・『削減の意見が出ていることは痛恨の極みだ。23年度ODA予算は私の前の前の外相が概算要求を提出した』と当てこすった。

この記事の上には、こんな箇所もありました。

「13日の衆院外務委員会では、東電による低濃度放射能汚染水の海への放出について、外務省が各国の在京大使館への通知をすべて終えたのが『放出後』だったことが明らかになった。・・・・この問題を委員会で指摘した自民党の小野寺五典衆院議員は『第二次世界大戦で米国への宣戦布告電文を外務省が翻訳して渡す前に真珠湾攻撃が始まったことを思いだす』と批判。松本剛明外相は事実を認めて釈明したが、こうしたちぐはぐな対応が韓国首相の『日本は無能』発言を招いた。」



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優先順位。

2011-04-14 | 短文紹介
4月13日(水曜日)は、出先でお昼。
11時15分ごろに、中華料理屋へ入って、注文はレバニラ定食。
まだ、お客はいなくって、ゆったりと店のテレビの前に陣取っておりました。
食べながら、テレビのワイド番組をみていると、その日の日経新聞の記事を紹介しております。気になったので、帰りに駅で日経を買いました。
晩は、池上彰の番組を見ておりました。
「池上彰が伝えたい。東日本大震災の今。震災から一か月・・今の被災地を池上彰が取材現場感じたものとは」(テレビ朝日)
そういえば12日も池上彰氏の番組を見ていたのでした。
13日の池上氏の番組は、被災地へおもむき、自然体での人との接触と語らいを写し出しており、たいへんに参考になりました。ボランティアが全国から自発的に来ていること、それをさりげなく紹介していることに、身近で突き動かされるような感情がわいてくるのでした。最後の池上氏の〆の言葉も、普段の生活にもどってゆき、ふだんの生活をしっかりとしてゆくことが、応援になってゆくのだというようなことを語っており、ちょっとはきりした言葉を思い出せないのですが、ビデオに録画しておけばよかったと思ったりしたのでした。

一方の日経新聞は読み返せます。
編集委員坂本英二氏の署名記事は「首相の決意が伝わらない」。
震災一カ月にあわせた菅直人首相の記者会見をとりあげておりました。

「被災地の復興に全力を挙げる姿勢を強調することに重点があった。・・しかし具体的に関しては『津波被害を受けないよう高台に住む』『自然に優しいエコの街』という以前に言及したアイデアを繰り返すだけだった。新たに付け加えた『弱い人に優しい社会』という言葉も抽象的、情緒的な印象をぬぐえない。」

「首相は復興計画づくりに向けて『地域の要望を尊重する』『全国民の英知を結集する』『未来志向の復興を目指す』との3つの原則を掲げた。これでは何も言っていないに等しい。『野党にも青写真をつくる段階から参加してほしい』と呼びかけたが、政府・与党がまず方向性を示さなければ議論は深まらない。・・・・野党は震災直後から予算の大胆な組み替えを求めてきたのに、いまだに明確な方針が定まらないのは政府・与党の怠慢である。」

そして、最後にこう書き込んでおりました。

「危機に際して政治の役割は、突き詰めれば国家目標を明示し、政策の優先順位をどうするかだ。そうした決断は最終的に首相が責任を持って下さなければならない。
自民党など野党との協力のあり方も『何をなすか』という目的意識が問われる。今の首相の言葉からは、困難な状況をどう打開していくのかという決意が少しも伝わってこない。」
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会議をしている。

2011-04-13 | 短文紹介
産経新聞4月13日。
櫻井よしこ氏の「菅首相に申す」で

「たしかに首相は大災害派生以降19もの新たな会議を作った。・・・西岡武夫参院議長は菅首相の対処を見て、図らずも、『いつまで会議をしているのか』と問うた。・・」


話題をかえます。八木秀次氏の「大新聞の『震災報道』」(週刊ポスト4・15号)に
「3月16日に流された天皇陛下のビデオメッセージの扱いについても、各紙の性格の違いを際立たせた。朝日以外は一面で報じましたが、意外にも日経は『苦難の日々 分かち合う』(3月17日付朝刊)の見出しで、お言葉の全文を一面に掲載していた。産経でも全文は三面に移していたので、これには驚きました。」(p48)

新聞は、すべて読んでいないので、こういう情報は助かります。
ちなみに、文芸春秋5月号は侍従長川島裕氏の「天皇皇后両陛下の祈り 厄災からの一週間」は、両陛下のご様子を記すまえに、「文中において、(天皇陛下の)お言葉の一部分だけを引用することは避けたいと思ったので、『文芸春秋』側に、この号に於いて、お言葉の全文を掲載することをお願いした。」とあり、その全文を、まず引用して、侍従長の文は始まっておりました。

歴史通5月号には佐々淳行氏による「天皇 最高の危機管理機構」と題して、ご自身の経験を通じての、その胸のうちを披瀝されており読み甲斐があります。

古くなりますが、丸谷才一氏の「ゴシップ的日本語論」にある箇所を思い浮かべます。

「部員がみんな集って、真ん中に池島(信平)さんがいて、会議がはじまる。端から一人ひとりに、『何かいいプランはないか。思いついたことはないか』と訊ねる。Aは・・てなことを言う。それに対して、『みんな、意見はどうだ』と池島さんが聞いて、みんながいろいろ言う。それを『うん、うん』と言って聞いているんだそうです。・・・」

それをB君から・・・PQRSと、Sが意見を言うまで、池島さんが全部聞き終わると、「そうか。わかった」と言って、「じゃあ、今日はこれで」と会議を終える。

「翌日、池島さんは出社しない。家でごろりと横になって、考えたんでしょう。・・その翌日、つまり、編集会議から考えて翌々日ですね。社に現れる。と、採用する提案をした編集部員だけを局長室に呼ぶ・・・そういう調子で、池島さんに呼びこまれて命令をくだされた人間の情報を全部集めると、来月号の姿かたちがおぼろげにわかってくる。・・・この池島式編集会議の方式、ぼくは、これはかなり意味のある会議の仕方じゃないかと思うんですね。・・・・・編集長が全責任を負う性格のものでありますから、編集会議の場で多数決で決めたって意味がないわけです。ですから編集長が一日じっくり考えて全部自分の責任でやるという・・・いはゆる会議ってものと編集長主義的な決断を重んじる性格との総合として意味があるやり方じゃないかと、ぼくは思いました。
それで、さっきの『天皇陛下大いに笑ふ』の話にもどります。」

こうして、このあとに文芸春秋にどうして『天皇陛下大いに笑ふ』が掲載されることになったかを語るってゆくのでした。
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やめろコール。

2011-04-12 | 地震
菅首相の震災からの一連の行動については、
あるいは、みなさんの方がよく御存知なのかもしれない。
それについては、ここでは、触れないことにして、

谷沢永一対談集「人間万事塞翁が馬」(潮出版社)の
会田雄次氏との対談「阪神大震災でわかった日本人の苦い側面」から
 
谷沢】 私が不満でたまらないのは、『村山首相やめろコール』が、国民のあいだでまったく起こらないことです。日本人には為政者に怒るという神経がない。古い言葉でいうお上なんです。・・・・力のあるリーダーシップがなくても、うまくいくと信じきっています。(p27)

 また、こうも語られておりました。

谷沢】 こんなことをいうと語弊があるけれども、今回の震災は小規模すぎた。被災者には非常に申しわけないんですが、しかし、日本の覚醒のために、あえていわせていただきたい。思いのほかうまく復興したりすれば、政治家たちを安心させ、のさばらせること必定です。その意味で、私は国難待望論です。日本は国難があるときがいちばん生き生きしている。日本の歴史は国難史です。・・・(p25)

この諌める言葉を、国民に発する谷沢永一氏のことを思います。
ところで、
この国難待望論は、いったいどこから発想されたのか?
なんて、思ったわけです。
谷沢永一著「紙つぶて 自作自注最終版」(文藝春秋)は、
いままでの「紙つぶて」のコラムを右ページに置き。
その左ページには、自注として新しく書き込みをしてある不思議な一冊。
その左ページに、こんな箇所がありました。

「山崎正和は対談集『沈黙を誰が聞く』(PHP研究所)において次の如く語る。
【 私は大体、日本人の精神のバネはいつでも天災と、それに対する復興のエネルギーにあると思っているんです。つまり日本人は社会観なり宗教観なりの形ではっきりしたものを主張しているわけではありませんから、ある文化の平衡というか、ホメオスタシスといいますか、生理的なバランスみたいなものが精神の内容であって、キリスト教徒のようなはっきりした主張を持っていないわけですね。
ですからそういうものをバネにして何か大きな仕事をするとか、国を伸ばすとかいうことはあまりないわけで、むしろ外側から災難がやってきますと、その災難を復興する形で、実はもとの状態より伸びるというパターンがあるんじゃないかという気がするんです。
その、災難があるとはね返していくというのが日本人のエネルギーの源泉だとすると、『戦後』が終わったというのか、大体60年ごろに災難は一応終わったという感じがきたんじゃないか 】 
同感である。その時点からそれぞれ各階層の箍(たが)が見る見るゆるんだと思われる。」(p663)

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待ち時間。

2011-04-11 | テレビ
今日発売の週刊ポスト(4月22日号)を購入。
すると、戯れ歌があるじゃありませんか。
ACジャパン(公共広告機構)のCMに使われている詩
金子みすず『こだまでしょうか』と宮澤章二『行為の意味』。
その詩を題材にした戯れ歌。

  「こころ」は見えないけれど
   震災利用の「下心」は透けて見える
  「思い」は見えないけれど
  「思い上がり」は誰にも分かる

写真入の記事には、こうありました。
「『震災後、ぶら下がり取材を拒み続ける菅総理らを引き合いにして、番記者が待ち時間に遊び始めたのがパロディの始まりで、いつの間にか官邸全体にまん延していた』(政治部記者)そう。・・・・」

「待ち時間」といえば、鶴見俊輔座談全10巻の内容見本に、鶴見さんの(談)が載っていて、その談話の最後にこんな箇所があったのを思い浮かべました。

「対談という、もともとの伝統は、連句、座の文学なんですね。戦国時代、城攻めのときは、待ち時間がものすごくあるでしょう。そのとき、座興のために連歌師の宗祇のような人が、かたちをつくったんです。それ以前には、男女が山や市などに集まってお互いに歌を詠み交わす、歌垣のような『万葉集』のころからの洗練された伝統があるんですね。・・」

余談にわたりました。
それより、雑誌にある番記者の戯れ歌を、もうひとつ。


   「大丈夫?」っていうと
   「大丈夫」っていう
   「漏れてない?」っていうと
   「漏れてない」っていう
   「安全?」っていうと
   「安全」って答える
    そうして、あとで怖くなって
   「でも本当はちょっと漏れてる?」っていうと
   「ちょっと漏れてる」っていう
    こだまでしょうか?
    いいえ、枝野です



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必読週刊誌。

2011-04-11 | 短文紹介
産経新聞4月9日(土曜日)には、毎週掲載の
「花田紀凱(かずよし)の週刊誌ウォッチング」。
そのはじまりは、
「『週刊ポスト』が他誌の原発事故報道を手厳しく批判している。『ただ徒(いたず)らに「不安」と「差別」を煽る人々、絶対に許せないいわれなき『放射能差別』・・・」
ありがたいのは、週刊誌の評価をしてくれていることで、
普段買いなれない週刊誌への水先案内人を、ここにみつけることができ安心。

ということで、最後を引用。
「『ポスト』では巻頭、石井光太さんのリポート『遺されて』、八木秀次高崎経済大教授の『検証 大新聞の「震災報道」』が必読。・・・・」


花田さんの薦めにしたがって、「週刊ポスト」(4・15)を購入。
八木秀次氏の文を読む。なるほど。
まず、新聞一面の大見出しを取り上げ、
「新聞の場合、同一事件では第一報が最大の見出しになるのは仕方がないとしても、それ以降の見出しだけ追っていくと、原発事故は収束に向かっているような印象を受けてしまいます。しかし、現時点では決してその目処は立っていない。むしろ時間が経つほど次々に新たな事態が起き、状況は悪化している。・・・」(p46)

「記事を読んでも事実の羅列ばかり」という指摘もあります。

「政府や東電が記者会見で行なう発表というのは、いってみれば戦時中の【大本営発表】です。記者が現地で取材できない以上、大本営発表に頼らざるを得ない事情は理解できます。しかし、大本営発表を受けて、さらに、池上彰さんのように、咀嚼して読者にわかりやすく伝えたり、専門家の意見も交えて政府発表は信頼に足るかを検証したりしなければ、新聞報道の意味がなくなってしまいます。原発の構造図を何度も見せられても、結局のところどうなのかが書かれていない。読売の3月15日付朝刊『燃料棒 全て露出』という見出しも、何か恐ろしい事態が起きていることは伝わってきますが、これでは何が起きていて、どう危険なのか読者は理解できないと思います。記事を読んでも事実の羅列ばかりで、よくわからない。」

ダチョウの法則というのもユーモアがあります。

「見出しが何かを伝えようとするものである半面、見出しにしないことで何かを伝えようとしないのも、また新聞の一側面であるといえよう。驚いたのが、【自衛隊】と【米軍】が見出しにならないことです。・・・・見出しの周りに、【自衛隊】という言葉がまったく使われていない。朝日も18日付朝刊一面の大見出しで『原発肉薄 30㌧放出』と主語の抜けたフレーズを採用している。阪神大震災の頃と比べれば、自衛隊の扱いはずいぶんよくなりましたが、米軍による支援については、報道自体が少ない。・・・1万8000人体制で支援をしてくれている。中国からはレスキュー隊15人がやってきて、確かにありがたいことですが、それと米軍の支援を「世界何十か国からの支援」と一緒くたにしてしまうのはいかがなものか。・・・米軍による支援を見れば、日米同盟や在日米軍の存在意義が改めてわかるはずなのに、各紙がそこに言及していないのも問題です。青森県の三沢基地は、自衛隊との共同活動拠点になっています・・・沖縄の米軍基地からも2500人以上もの海兵隊員が災害支援で出動している。自衛隊との共同演習を積んできたからこそ、このような大部隊が連携して動けるのです。・・・朝日や毎日は、在日米軍を邪魔者扱いしてきた現政権に対する批判が決定的に足りないですね。」

「こういう状態になってしまった背景には、自衛隊や在日米軍の存在にしろ、海外メディアの変化にしろ、嫌なことは見たくない、なかったことにするという【ダチョウの法則】(頭だけ穴に突っ込んで襲ってきた敵を見ないようにする)が働いているといっていい。」


「従来からの【市民社会の実現】という主義主張で、本当にこの国難を乗り切っていけるのかという不安で揺れ動いているということが見て取れるのです。」


また一面広告にみる「各紙の良心と打算」にまで言及しておりました。
うん。買って読むだけの価値あり。
石井光太さんのレポートはまだ未読。
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こんな本も蒐めたはる。

2011-04-09 | 短文紹介
保存版・暮しの手帖「花森安治」。
そこに永六輔氏が、ちょうど四百字詰め原稿用に一枚ほどの文を載せておりました。気になったので引用。


「花森さんは、我家に入ってきて 書棚の前に座った。
 書棚を背にしたのではなく 書棚と向いあっていた。
 そして沈黙。
 背表紙とのニラメッコが始まった。
 ・・・・・・
 ・・・・・・
 そして、うなづいたり 薄笑いをしたりしながら
 本の背表紙を読んで 世間話をして帰っていった。
 原稿依頼の話は それっきりになった。
 ・・・・・・
 ・・・・・・   」(p212)


話をかえます。
谷沢永一氏が亡くなり、なぜか私は
渡部昇一氏の追悼文を3本も読めました。
産経新聞で、WILL5月号で、そしてVOICE5月号で。
その、すこしづつ違っている追悼文を読んだわけです。
ちょうど、今日読んだVOICEのには、こんな箇所が

「後年、谷沢先生の有名な書庫をぜひ拝見させていただきたいと思い・・先生のご自宅に出向いたこともある。有名な書庫については、これこそ司馬遼太郎氏も訪れて感心し、司馬遼太郎全集の解説を委託したという逸話があるほどで、私があれこれいう必要はない。だがあの書庫での時間は、同じく本の蒐集を楽しむ者として、これ以上ない至福の時であった。」


そういえば、谷沢永一著「司馬遼太郎」(PHP研究所)という一冊があるのでした。カバーの装画は谷澤美智子。司馬遼太郎が亡くなってから、次々に書いていった谷沢永一氏による追悼文と追悼対談をまとめた一冊(編集は山野博史)。この本に「司馬さんの見舞状」という文があるのでした。それは「阪神大震災では、私も致命的な打撃を受けた」とはじまっておりました。そしてその際、司馬さんから速達の書翰が届いたとあり、この「司馬さんの見舞状」では、その書翰全文が掲げられておりました(うん。そこも引用したいのですが、ここはやめときます)。その全文を谷沢氏が引用したあとに、こうありました。


「このように書き写しながら、いま私の手は震えている。また泣きたくなっている私の気持ちを、どうにも適切に表現できない。瞑目して話題を若干の注釈に移すとしよう。
司馬さんは一度だけ我が家を訪れられたことがある。昭和57年の秋であったか、産経大阪文化部の端山文昭さんを通じて司馬さんからの提案があった。お互い古書の蒐集に意を用いている同志の誼(よしみ)から、両家の書庫を交互に覗き見るのもまた一興と思うので、とりあえずは谷沢家の書庫を拝見したいから、適当な日時を示して欲しい。・・・とても人様を御案内できるような状態ではないのだが、相手が司馬さんとなれば話は別である。或る日の午後二時頃、端山さんの案内でお越しいただいた。・・・・とにかく書庫へ、と促されて案内したところ、司馬さんの本好きは、これはもう他に見られぬほど筋金入りである。ざっとひとわたり見渡すというような呼吸ではない。手近なところから目にとまった一冊また一冊と、いとおしむように引きだしていちいち開けてみる。これは珍しいですなあ、こんな本も蒐めたはるんやなあ、そういう風に感想を述べながら、書棚の前を立ちどまり立ちどまりしながら移動してゆく。福田定一の本名で書いた最初の著書「名言随筆・サラリーマン」を見かけるなり破顔一笑、これでも版を重ねたんやからおかしいもんですなあ、と語りかける。どれほどの時間が経ったであろうか、次から次へと吸いこまれるように渉猟してゆく司馬さんは通り一遍の本には手を出さない。由利公正の「実業談話」のような薄い本を目敏く見つけて繰って見る。こういう本が役に立つでしょう、と言いながら、主として雑書に注目されるのが嬉しい。夕刻に及び池田の老舗で鰻の御馳走になった。そのあと暫くして文芸春秋の西永達夫さんから電話があった。・・・何事ならんと思いながらお聞きすると、これが全くの驚きであった。今度『司馬遼太郎全集』第二期を刊行する。ついては全巻の解説を引き受けて欲しい。まことに光栄ですけれど、それは私の手に余ります、と答えたら、西永さんは次なる言葉を用意していた。司馬さんは、もし谷沢氏が辞退したら、いっそ解説なしでゆこうとおっしゃっているんですがねぇ、私は唸るような思いで決意せざるを得なかった。・・・あとから考えると、司馬さんは、私に解説を任せようかと案じながら、とりあえずは谷沢が平素の蒐書に、どれほどの心構えで準備しているかを、見届けに来られたのであるらしい。その証拠に、今度は我が家へと、声がかからなかったのがなんとも残念であった。・・・」

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「買ひだめ」しないで。

2011-04-08 | 短文紹介
新聞広告に

   「買ひだめ」しないで下さい。
   みんなの為なんです。
   使ふ人、売る人、作る人の生活の為なんです。
   さうすれば、みんな、うまくゆくんです。
   品切にもなりません。


といっても、
これは、戦時中の1940(昭和15)年の新聞に載った広告。
ちなみに、これは天野祐吉氏の「花森さんと広告」という文から。
その前後を引用すると、

「戦争中や戦後のパピリオの名広告も、どうも、花森さんが一枚かんでいたらしい。・・・戦争中、企業の広告マンの多くは政府の戦時宣伝に協力させられていたが、政府が一般から公募した戦時スローガンの中から、『欲しがりません、勝つまでは』というのを特に推したのは花森さんだという話も聞いたことがある。」(p254.暮しの手帖保存版Ⅲ「花森安治」より)

暮しの手帖保存版「花森安治」には、花森語録というのが、短くも数々紹介されておりました。そこに、

「僕はたしかに戦争犯罪をおかした。言訳をさせてもらうなら、当時は何も知らなかった、だまされた。しかしそんなことで免罪されるとは思わない。これからは絶対だまされない、だまされない人をふやしていく。その決意と使命感に免じて、過去の罪はせめて執行猶予してもらっている、と思っている。」(p229)


杉森久英氏の「花森安治における青春と戦争」は、大政翼賛会に触れておりました。その会について、

「あるとき、例によってみんなで、軍人の横暴な話、食料や衣料の不足する話、電車や汽車の混む話などしていると、花森が、
『戦時世相いろはがるたを作ってみないか』と言い出した。
『イは?』と誰かがいうと、誰かが、
『犬も歩けば腹がへる』
『ロは?』
『論よりなぐれ』
『次はハだ』
『花より雑炊』
こういう調子で、みんな我勝ちに思いつきを言い出すのだが、見ていると、花森が誰よりも早く、またうまいのが多かった。こういうことにかけては、自信のありそうな顔ぶればかりだったけれど、どの題も花森の答えが一番早く、そして名案が多いので、ほとんど彼一人にさらわれたという形である。あれから三十何年過ぎた今は、花森がどういう句を作ったか、ほとんど忘れてしまったが、たった一つ、
『襟はまっくろ』というのをおぼえている。
燃料不足で風呂が焚けず、石鹸もないので、襟に垢がたまるというのである。
・・・・・
戦局がいよいよ悪くなって、どんな神州不滅論者にも米軍の本土進攻が避けられないと思えるようになったころのある日、いつもの通り雑談にふけっていると、中で比較的強気の気焔をあげている報道写真家某をつかまえて、花森は、ねばっこい関西なまりで、
『君なんか、今でこそ鬼畜米英がどうの、一歩も上陸させないだのといって、りきんでいるけれど、ほんとに日本が敗けて、みんな米軍の命令を聞かなきゃならないということになったら、まっさきにお出迎えに参上して、何かカメラでお役に立つことはございませんかと、註文を取ってあるくんだろうね』とひやかした。
事実、その男は、それから何ヵ月か後には、『一億一心』だとか『武運長久』だとかのテーマのかわりに、焼け跡の壕舎生活や、パンパン、戦災孤児の姿を撮るため、東京じゅう走り回っていた。・・・・」(p62)
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懐中電灯の扱い方。

2011-04-07 | 地震
産経新聞の水曜日には、曽野綾子さんの「透明な歳月の光」が連載されております。4月6日は第430回「停電に対する訓練不足」とあります。そのはじまりの箇所を引用。


「ほとんど毎年のようにアフリカに行っていたおかげで、私は停電に慣れて懐中電灯の扱い方がうまくなっていた。たいていの日本人は、真っ暗になってから慌てて『荷物の中に入れてきているんですが・・』と言う。しかし停電になったら探し出せないのが懐中電灯というものだから、必ず身につけている癖がつく。日本人は、停電というものに対する訓練が、全くできていなかった。受験生も停電という英語の単語を知らないし、停電になるとどういうことが起きるのかも考えたことがない。たいていのアフリカのシスターたちは、懐中電灯を口にくわえてお産の介助をした経験があるのだ。
だから飽食の時代に育ったご苦労知らずの新聞記者やテレビのキャスターたちは、『援助の物資は公平に渡されていますか』『明日の予定はどうなりますか』などとバカ殿様のような質問をする。停電になったら、公平平等を貫く機能は失われる。明日の予定も立たない。・・・・」

雑誌「WILL」5月号にも、曽野綾子さんは「小説家の身勝手」を連載しております。
第四十章「ゲリラの時間」。

「・・・今回、事件当初は、若い世代ほど、異常事態に対応する力を持たなかったように見える。年取って鈍感になったのかもしれないが、私たちのように戦争を知り、死の危険性も体験し、不潔や不便や暗闇で暮らす生活も受け入れ、人生は決して無責任な政治家が言うように『安心して暮らせる生活』の継続などではないことを骨身にしみて知っていた世代は、ほとんど慌てなかったのだ。」(p121)

この戦争世代についての箇所をもうすこし引用

「私たち戦争によって子供時代に訓練された世代は、今度のことで全く慌てなかった。おもしろい事象がたくさん起きた。烈しい揺れが来た時、決して若くはない私の知人の数人は食事中であった。彼らは、普段より多く食べておいたと告白している。家に帰ってから食事をするつもりだったという別の一人は、空いていたお鮨屋に飛び込んで揺れの合間に普段の倍も食べトイレも済ませてから、家に向かって歩き出した。その人は、二度目の地震が収まった後、渋谷駅から246号線を赤坂見附方面に歩き、少し様子を眺めることにした。非常時に、人の心を救うのはこの余裕である。観察し、分析し、記録(記憶)しておこうという人間的な本能が残されていることは、いつか非常に役立つのである。」(p124)


さてっと、曽野さんのこの文に
「彼らは天気予報文化のなかで生きてきた」(p126)と彼ら若い人のことを指摘しておりました。そういえば、加藤秀俊著「常識人の作法」(講談社)に「科学と感性」という開花宣言にまつわるエピソードが印象に残っております。それはそうとして、読売新聞4月4日夕刊の一面には「福島原発の放射性物質 拡散予測公表せず」「欧州気象機関は開示」と見出しにあります。その最初の箇所は

「東京電力福島第一原子力発電所の事故で、気象庁が同原発から出た放射性物質の拡散予測を連日行っているにもかかわらず、政府が公開していないことが4日、明らかになった。ドイツやノルウェーなど欧州の一部の国の気象機関は日本の気象庁などの観測データに基づいて予測し、放射性物質が拡散する様子を連日、天気予報サイトで公開している。日本政府の原発事故に関する情報開示の在り方が改めて問われている。」

うん。情報は、大本営発表だけに、すがっていてはいけないようです。
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ををしく。

2011-04-06 | 短文紹介
朝日の古新聞をもらってきました。
とりあえず、朝日新聞の3月17日をとりだし、ひらきます。
一面にない。さがすと第二社会面に、それはありました。
ちょうど、朝日新聞の天声人語を縦にしたスペース、
その半分の幅に陛下のお写真。それがページ全面に占める記事のとりあつかいでした。一面の目次見出しにも、とりたてて表示はありませんので、誰かの指摘がないと、見失われかねない小さな情報として、それは掲載されておりました。
疲れるなあ、まんべんなく読まなければ、探し出せない記事。声欄の方を優先する、その扱い方に、あぜんとするのでした。こういうときに、普段の日の記事の取り扱い方の異常さがでてしまいます。

ちなみに、「WILL」五月号。p28~29に
「天皇陛下のお言葉 三月十六日」と全文掲載されております。
朝日新聞が掲載しないのなら、そこから、私が全文引用しておいても
無駄にはならぬ。初めて読まれる方が一人でもおられるならば

 
 このたびの東北地方太平洋沖地震は、マグニチュード9.0という例を見ない規模の巨大地震であり、被災地の悲惨な状況に深く心を痛めています。地震や津波による死者の数は日を追って増加し、犠牲者が何人になるのかも分かりません。一人でも多くの人の無事が確認されることを願っています。
 また、現在、原子力発電所の状況が予断を許さぬものであることを深く案じ、関係者の尽力により事態の更なる悪化が回避されることを切に願っています。
 現在、国を挙げての救援活動が進められていますが、厳しい寒さの中で、多くの人々が、食糧、飲料水、燃料などの不足により、極めて苦しい避難生活を余儀なくされています。その速やかな救済のために全力を挙げることにより、被災者の状況が少しでも好転し、人々の復興への希望につながっていくことを心から願わずにはいられません。
 そして、何にも増して、この大災害を生き抜き、被災者としての自らを励ましつつ、これからの日々を生きようとしている人々の雄々しさに深く胸を打たれています。
 自衛隊、警察、消防、海上保安庁をはじめとする国や地方自治体の人々、諸外国から救援のために来日した人々、国内のさまざまな救援組織に属する人々が余震の続く危険な状況の中で日夜救援活動を進めている努力に感謝し、その労を深くねぎらいたく思います。
 今回、世界各国の元首から相次いでお見舞いの電報が届き、その多くに各国国民の気持ちが被災者と共にあるとの言葉が添えられていました。これを被災地の人々にお伝えします。
 海外においては、この深い悲しみの中で、日本人が取り乱すことなく助け合い、秩序ある対応を示していることに触れた論調も多いと聞いています。これからも皆が相携(たずさ)え、いたわり合って、この不幸な時期を乗り越えることを衷心(ちゅうしん)より願っています。
 被災者のこれからの苦難の日々を、私たち皆が、さまざまな形で少しでも多く分かち合っていくことが大切であろうと思います。
 被災した人々が決して希望を捨てることなく、身体(からだ)を大切に明日からの日々を生き抜いてくれるよう、また、国民一人びとりが、被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ、被災者と共にそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています。


「WILL]五月号には、勝谷誠彦の「これは『平成の玉音放送』だ」(p242~245)という文がありました。
そこからも引用しておきます。はじまりは、
「これは『平成の玉音放送だ』。東北大地震についての天皇陛下のお言葉を聞きながら・・私はそう感じた。・・陛下はそれが必要だと思われたのだ。」

そして、昭和大帝に触れながらでした

「あの時も政府は機能不全に陥っていた。今回もまたそうである。愚かな首相が民間企業である東電に怒鳴り込み『100パーセント潰れる』と叫び、あるいは側近に『東日本はなくなる』などと喚(わめ)いていた。最高指揮官としてはもっともやってはならないことで、もはや錯乱状態と言っていい。陛下はそれをじっと見ておられて、やむにやまれず立ち上がられたのではないか。日本人にとって皇室が必要なのは『いざという時』だ。天災が起きるたびに両陛下は被災地を訪れられ、被災者を慰めてこられた。しかし、今回に関しては『今やらねばならない』と陛下はご決断なされたのだと私は拝察する。」


「お言葉」に出てくる「雄々しく」についても、指摘しておりました。

「終戦からはじめて迎える正月、昭和大帝は歌会始めでこういう御製(ぎょせい)を発表さえた。【 ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ松ぞををしき人もかくあれ 】焼け野原に立ち尽くす国民に対して、降り積もる雪にもたえて緑を守る松をたとえに、『かくあれ』と鼓舞されているのだ。そして、その鼓舞の言葉が『ををしく』、すなわち『雄々しく』なのだった。これに気付いた時、私の涙はまた止まらなくなった。テレビがたれ流す映像は、避難民の頭上に、被災地の瓦礫の上に、霏々(ひひ)として雪が降り積もるさまを映し出している。・・・」

そして、勝谷氏はべらんめえになります。

「しかし、大マスコミは陛下のお言葉をブチブチに切りやがった。ウェブではアリバイのように全文を載せているが、新聞の多くは一部だけを伝えた。・・・・最初からテレビ各局は部分だけを流した。陛下は・・・緊急事態で途切れることはあっても、当然のことながら、全文は流れるだろうと信じておられたのである。それを大マスコミは裏切った。おそらく、その畏れ多さすら全く気付かぬままに・・・・」
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いつでも。

2011-04-05 | 短文紹介
酒井寛著「花森安治の仕事」(朝日新聞社)に、こんな箇所がありました。

「花森は、その戦争のとき、大政翼賛会宣伝部にいて、少女歌劇の脚本に、『長い戦争だから、もっと明るく、もっと元気に』と歌う子どもたちを書いた。だが、じっさいの戦争は、そうではなかった。
『戦争中の暮しの記録』を企画したきっかけのひとつは、花森が若い編集部員と話していて、『疎開』という言葉が、うまく通じなかったことにある。そんな所に行かなければいいじゃないか、という疑問が若者にあったという。戦争は、伝えられていなかった。・・・寄せられた手記には、誤字、脱字、旧仮名づかいなど、はじめて文章を書いたと思われるものが、すくなくなかった。『不幸にして義務教育もろくに行かず、字を知らず此の様な物を書くのは、しつれひと思いましたが、あまりにも苦労したので少しでも心に光りをと書きました』と付記して、買い出しと、警官の取り締まりと、敵機襲来のみじめさを、こまごまと書いた明治生まれの主婦もいた。意味がとれるかぎり、原文のまま、誌面に載せた」(p210~211)


唐澤平吉著「花森安治の編集室」(晶文社)から、すこし引用。


「〈戦争を知らない子供たち〉というのは、北山修さん作詞、杉田二郎さん作曲のフォーク・ソングで、わたしたち団塊の世代にはナツメロみたいな歌です。この歌は、よほど花森さんの神経にさわったものとみえ、わたしたちの顔をみてはどなっていました。
それはそれとして、わたしの本棚に、一冊の古い『暮しの手帖』があります。昭和43年8月発行の1世紀96号『特集戦争中の暮しの記録』です。これはわたしの母が買ったものです。当時、わたしはまだ学生でした。この本の53ページに、こういう文章がのっています。二十歳のわたしに、生涯この身からはなすまいと決意させた文章です。

   これは、戦争中の、暮しの記録である。
   その戦争は、1941年(昭和16)年12月8日にはじまり、
   1945年(昭和20年)8月15日に終った。
   それは、言語に絶する暮しであった。
   その言語に絶する明け暮れのなかに、人たちは、
   体力と精神力のぎりぎりまでもちこたえて、
   やっと生きてきた。(略)
   こうした思い出は、一片の灰のように、
   人たちの心の底ふかく沈んでしまって、
   どこにも残らない。
   いつでも、戦争の記録というものは、そうなのだ。(略)
   その数すくない記録がここにある。(略)
   しかし、君がなんとおもおうと、これが戦争なのだ。
   それを君に知ってもらいたくて、
   この貧しい一冊を、のこしてゆく。
   ・・・・・・・・     
   ・・・・・・・・  編集者  」(p224~225)


ちなみに、大橋鎭子著「『暮しの手帖』とわたし」(暮しの手帖社)に、この96号のことにふれた箇所がありました。それは「戦争中の暮しの記録を募ります」というところから始まっておりました。

「最初は、次の年の最初の号に発表する予定でしたが、とんでもありません。応募総数じつに1736篇。その多くは、生まれて初めて文をつづったと思われるものでした。あの戦争のあいだ、なにを食べ、なにを着て、どんなふうに生き、どんな思いで戦ってきたか・・・その行間ににじむ切々たるものに、どれを入選にするかどうか、悩みに悩みました。花森さんはじめ、私も、編集部の人たちも、全部の手記を読みました。そして139人の手記を入選としました。
私は『暮しの手帖』一冊全体を『戦争中の暮しの記録』だけで作りましょう、と提案しました。臨時増刊、特別号、単行本などにするよりも、定期の『暮しの手帖』に載せたほうが、よりたくさんの人に手に取ってもらえ、読んでもらえる。しかも、雑誌もよく売れ、営業的にプラスにもなると思ったからです。花森さんは『やろう』と決断。一冊全部を一つのテーマだけで作る・・・
この本だけは、『たとえぼろぼろになっても』読みつがれ、これから後に生まれてくる人のために残しておきたい、というのが、私たちの願いでした・・・・」(p198~199)


うん。私は、昨日その本を手にしたのです。
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その日日本列島は。

2011-04-04 | 短文紹介
注文してあった古本が今日届く。
暮しの手帖編「戦争中の暮しの記録」。
読まないのですが、さっそくパラパラとめくってみる。
最初に32ページほど写真が掲載されており、写真のわきに言葉が並んでおります。
都会の廃墟には「戦場」と活字がついておりました。
はじまりの文

   〈戦場〉は
    いつでも
    海の向うにあった
    海の向うの
    ずっととおい
    手のとどかないところに
    あった

    ・・・・
    ・・・・

    いま
    その〈海〉をひきさいて
    数百数千の爆撃機が
    ここの上空に
    殺到している

    ・・・・・
    ・・・・・

    しかも だれひとり
    いま 〈戦場〉で
    死んでゆくのだ とは
    おもわないで
    死んでいった

    夜が明けた
    ここは どこか
    見わたすかぎり 瓦礫が
    つづき ところどころ
    余燼が 白く煙りを上げて
    くすぶっている
    異様な 吐き気のする臭いが
    立ちこめている
    うだるような風が 
    ゆるく吹いていた

    しかし ここは
    〈戦場〉ではなかった
    この風景は
    単なる〈焼け跡〉にすぎなかった
    ここで死んでいる人たちを
    だれも〈戦死者〉とは
    呼ばなかった
    この気だるい風景のなかを
    動いている人たちは
    正式には 単に〈罹災者〉
    であった
    それだけであった

    はだしである
    負われている子をふくめて
    この六人が 六人とも
    はだしであり
    六人が六人とも
    こどもである
    おそらく 兄妹であろう
    父親は 出征中だろうか
    母親は 逃げおくれたの
    だろうか

    ・・・・・
    ・・・・・

    しかし
    ここは〈戦場〉ではない
    ありふれた〈焼け跡〉の
    ありふれた風景の
    一つにすぎないのである

    ・・・・・
    ・・・・・

    はぐれたままであった
    朝から その人を探して
    歩きまわった
    たくさんの人が
    死んでいた
    誰が誰やら 男と女の
    区別さえ つかなかった
    それでも やはり
    見てあるいた

    生きていてほしい
    とおもった
    しかし じぶんは
    どうして生きていけば
    よいのか
    わからなかった

    どこかで
    乾パンをくれるという
    ことを聞いた
    とりあえず
    そのほうへ 歩いていって
    みようと おもった

    ・・・・・
    ・・・・・

    ・・ ここの
    この〈戦場〉で
    死んでいった人たち
    その死については
    どこに向って
    泣けばよいのか

    その日
    日本列島は
    晴れであった



今日は、この写真と言葉だけで充分。
写真のなかには、「焼跡の卒業式」という一枚もあります。



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百年の計。

2011-04-03 | 短文紹介
1951(昭和27)年にサンフランシスコ対日平和条約を締結。

その頃のことを、
鶴見俊輔氏は語っておりました。

「あの時の総理大臣は吉田茂だ。彼は自衛隊も作ったでしょう。昭和32年防衛大学の第一期卒業生を前にして彼は次のような意味の訓示をしている。
『君たちは自衛隊在職中、決して国民から感謝されたり歓迎されたちすることなく終わるかもしれない。批難とか誹謗ばかりの一生かもしれない。ご苦労なことだと思う。しかし、自衛隊が国民から歓迎され、ちやほやされる事態とは、外国から攻撃されて国家存亡の時とか、災害派遣の時とか、国民が困窮し国家が混乱に直面している時だけなのだ。言葉を換えれば、君たちが『日陰者』扱いされている時のほうが、国民や日本は幸せなのだ。耐えてもらいたい』と。これは吉田茂でなければ言えない偉大な言葉だ。」(p114~115・PHP新書「対論異色昭和史」)

政治家は、こういうものだと、何となく思っておりました。
まさか、政治家が批難とか誹謗をするほうに立っている状況に、とまどうばかり。
忘れたくないのは、「政治ショー」が東日本大震災の少し前にあったことなのでした。


「誰もが知っているように、蓮ホウ氏は『仕分け』で名前を上げ、『行政刷新』(仕分け)大臣を拝命した人物である。驚く理由は、彼女が『仕分け』したり廃止したものを挙げてみると分かる。

  1、防衛費(自衛隊災害救出活動の縮小)
  2、スーパー堤防(百年に一度の大震災対策は不要との理由)
  3、災害対策予備費(生活保護枠拡大(母子家庭)の財源化)
  4、地震再保険特別会計(子ども手当の財源化)
  5、耐震補強工事費(高校無償化の財源化)
  6、学校耐震化予算(自民党が推進していた政策)
  7、石油と塩の備蓄(仕分けパフォーマンスのいけにえ)
  8、除雪費用(蓮ホウが東北地方整備局を目の敵にした・・)

つまり、蓮ホウ大臣が仕分けし、廃止した項目全てが、現在の大震災被害に直接つながる予算だったということだ。よくもまあ、菅総理は彼女を任命したものだし、蓮ホウ氏もまた節電啓発大臣など引き受けられたものである。・・・まず、自分たちの『仕分け』判断が完全に誤っていたことを公表すべきだろう。しかし、この事実をテレビメディアは一切報道していない。」(p111 「WILL」5月号)

さて。これから、報道されるのだろうか?
今は、そんなことを言っている場合じゃないのだけれども。
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得意技。

2011-04-02 | 地震
今日(4月2日)の新聞一面コラム産経抄では、自衛隊について書かれておりました。
その一部を引用。


「・・・救助した人の数は1万9千人あまりに上る。原発事故で真っ先に放水など危険な作業に取り組んだのも自衛隊員だった。その献身的な奮闘がなければ、被害は何十倍も大きくなっていた。隊員はもとより、彼らを育てた指揮官らの努力には頭を下げるしかない。ところが、その必死の活動が続いている最中に公表された中学校教科書の検定結果には驚いた。いまだに自衛隊を『憲法違反』であるかのような記述の教科書があったからだ。『武器を持たないというのが日本国憲法の立場ではなかったのかという意見もある』という記述も見られた。自衛隊を『日陰者』扱いするこうした教育は昭和30年代から40年代ごろ、日教組などの教師たちの『得意技』だった。その結果多くの子供たちが『自衛隊は違憲』と刷り込まれたまま社会に出ていった。かの教科書記述もその時代の教育の残滓のようなものだろうか。いやそんな生やさしいものではない。大震災後、官房副長官として首相官邸に戻った千谷由人氏など自衛隊を『暴力装置』と呼んだ。国や国民を守る尊い使命をそうとしか捉えられない戦後教育の欠陥は政権の中枢にまで及んでいるのである。・・・・」


思い浮かぶのは、WILL5月号の水島総氏の文「自衛隊の活躍をTVはなぜ報じないのか」。この頃になって、少しずつ自衛隊をニュースで、出すようになりはじめましたが、それも、つい2~3日前からのような気がします。
さて、水島氏の文にこうありました。

「菅総理は、昔から市民運動仲間だった辻元清美衆院議員を災害ボランティア担当の首相補佐官に任命した。思い出してもらいたい。辻元氏は阪神大震災の時、駅前で反自衛隊のビラをまき、被災者に『自衛隊は違憲です。自衛隊から食料を受け取らないでください』『お腹が空いても我慢しましょう』『自衛隊から食べ物をもらってはいけません』と呼びかけていたと噂される人物である。マスメディアは、これも一切、報道しない。」(p112)

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観察の無私。

2011-04-01 | 詩歌
柴田トヨさんの詩をどう読めばよいのだろうなあ。
そんなことを思っておりました。
柳田國男の涕泣史談に、ああこれじゃないかなあ。
という言葉を見つけました。

まあ、そのまえに、柴田さんの詩を引用。

      あなたに

   出来ないからって
   いじけていてはダメ
   私だって 九十六年間
   出来なかったことは
   山ほどある
   父母への孝行
   子供の教育
   数々の習いごと
   でも努力はしたのよ
   精いっぱい
   ねえ それが
   大事じゃないかしら

   さあ 立ち上がって
   何かをつかむのよ
   悔いを
   遺さないために


では、柳田國男氏の文を引用してみます。


「以前国民の唯一の教育機関として、昔と後の世との連絡に任じていた故老は、別に何等かのもっと積極的な特徴をそなえていた。記憶力も欠くべからざるものであるが、それよりも大切なのは観察の無私であったこと、その上に過去というものの神秘性を感ずる人で、父祖の活き方考え方に対する敬虔なる態度を認め、その感じたものを自分もまた、次の代の人に伝えずにいられぬ心持を抱いている者、一種宗教的な気質の人が、いわゆるオールドマンだとリバース博士などは説いている。日本の田舎には、そういう人が元は必ず若干はいた。概していうとやや無口な、相手の人柄を見究めないと、うかとはしゃべるまいとする様な人に是が多かった。そらが人生の終りに近づくと、どうか早く適当な人をつかまえて、語り伝えて置きたいとあせり出すのである。男の中にもそういう人は無論いるが、どちらかといえば老女の中に、多く見出されるようにも言われている。・・・・・これを歴史の学問に利用する場合には、かなり骨折な手順がいることは事実であるが、その代りには是が無かったら、全然知らずにしまうかも知れぬことを、我々は学び得るのである。」


柴田トヨさんが90歳を過ぎてから、こういう詩を書き始めたことを思うにつけ、柳田國男氏の指摘を、あらためて思うのでした。

「観察の無私」ということで、柴田トヨさんの詩「被災者の皆様に」(産経新聞3月18日)を、すこし引用してみます。

      ・・・・・
      皆様の心の中は
      今も余震がきて
      傷痕がさらに
      深くなっていると思います
      その傷痕に
      薬を塗ってあげたい
      人間誰しもの気持ちです
      ・・・・・
      これから 辛い日々が
      続くでしょうが
      朝はかならず やってきます
      くじけないで!
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