和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

グレン・グールドの草枕。

2013-09-15 | 他生の縁
グレン・グールドの演奏を、たまに聴きます。
グールドのエピソードとして、
夏目漱石「草枕」のファンだという指摘があります。
「そうかなあ」と私は、何だか
ひっかかって思っておりました。

そうすると最近
こんな箇所を読むことができました。

「昭和56年のクリスマスの日にはこんなこともあった。
ヴァンクーヴァーでCBC放送を聞いていると
突然『草枕』の放送が始った。
最初の紹介の発音が『ナテューミー・ソーシーキー』式
の読み方をしていたので、
それと気づかずに聞いていたのだが、
中味は間違いなく『草枕』である。
朗読者は内容をよく摑んで語っているらしく、
『草枕』の感じがそのまま英語で
伝わってくるのに驚いた。
シェリーの引用が上手に決っているのは
全文が英文に化しているからだろう。
陶淵明の漢詩英訳は漢語のもつ
視覚的な喚起力は失われたにせよ、
前後関係の中でたくみに処を得ている。
それに、知的なお喋りに過ぎるとかねがね感じていた
『草枕』の主人公の引用癖や議論が、
イギリス系カナダ人の口調を借りてぽんぽん飛び出すと、
イギリスの知識人が二十世紀文明の
行きづまりを議論しているような錯覚すら与える。
――だが考えてみると、
夏目漱石はその知識の質や量においても、
またその思考の深さにおいても、
優に二十世紀イギリス知識人に匹敵する
頭脳と感受性の持主であった。
・・・・・・・
ひとしお感興の湧くのを覚えて私はこの
Three Cornered World と訳された
英訳『草枕』の朗読を聞いた。
アラン・ターニー氏の訳ででもあろうか。」

以上は
平川祐弘著「漱石の師マードック先生」(講談社学術文庫)
のあとがき「内と外から見た夏目漱石」にあります(p274)。

「うん、そうなのか」と
ちょっとした疑問が、解けたような気分。

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ほら御覧なさい。

2013-09-14 | 短文紹介
平川祐弘著「書物の声歴史の声」(弦書房)は、
平川氏の他の著作を読みながら、途中で、
折にふれてパラパラとひらくと、これがまた楽しく。
何か、気さくに声を掛けられているような嬉しさがあります。

「進歩がまだ希望であった頃」を読みながら、
この「書物の声歴史の声」をひらくと、
「福翁自伝」という短文があるのに気づかされます。
そして、つい、そのはじまりを引用したくなります。

「文壇での作家評価と世間の評価との間にはギャップがある。文壇政治が横行する文壇の評価が正しいのかというとそうは言えない。世間のサイレント・マジョリティーの常識的判断の方が正しい場合はいくらでもある。『自分は文学を愛するから、文芸雑誌は買わず、文芸評論家の文章は読まない』という友人がいるが、一理も二理もある。」

そのあとも、引用したい。

「昭和初年、早稲田の出身者が文壇を牛耳っていた頃、
改造社の現代日本文学全集が刊行され一冊一円の円本は大ヒットした。
売れに売れて63巻まで出した。
第一巻は『明治開化期文学集』で、
慶応大学の創立者福沢諭吉の文章も拾われている。
ただし『かたわむすめ』と『世界国尽』の巻之一、
計3ページというお粗末な割り当て。
それに対し早稲田文学部の創設者坪内逍遥には
第二巻の一冊まるごと503ページの割り当て。
逍遥は文学者だが、諭吉は文学者ではない、
と編集者は認定したのだ。
日本文学史の番付はこうして定まった。・・・」

六年三ヵ月にわたり熊本日日新聞に連載された
「書物の声歴史の声」(連載時の題名は「書物と私」)は
一回がそうそう長くはなく、
この「福翁自伝」の文の後半も引用したくなります。

「では近頃、文壇の番付と世間の静かなる多数の評判と著しくずれる作家は誰か。市民大学で教えてみるがいい。鴎外や漱石について的を射た感想を述べるお年寄りで、大江健三郎がわからないという不安を打ち明ける人がいる。大江は初期は良かった。だが学生作家でいきなり有名人となった悲しさ。実生活の体験に乏しい。観念で書く。文体は翻訳調。そう私が説明しても『でもノーベル賞ですよ』とお年寄りは自信なげだ。そこで私はシュリプリュドム以下の名をあげる。すると皆さん誰もそんなノーベル賞作家はご存知ない。
『ほら御覧なさい。死んだらじきに忘れられます。文学界における大江と政界における土井たか子は並行現象です。戦後平和主義のヒロインは護憲を唱え北朝鮮の肩まで持ったが、国会議長まで昇りつめた。片や大江は時流に敏感で、文化大革命となれば紅衛兵、大学紛争となれば造反学生を持ち上げる。ノーベル賞まで昇りつめた。・・・』」(p23~24)


なにやら、
戦争中に一高教官室で、ナチス批判を聞いているような、
そんな錯覚が味わえたような気分になってきます。
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なんでも鑑定眼。

2013-09-13 | 短文紹介
平川祐弘著「書物の声歴史の声」(弦書房)に
テレビの「開運なんでも鑑定団」について「この番組を私も楽しんでいる」(p108)という箇所がありました(笑)。

さてっと、
平川祐弘著「進歩がまだ希望であった頃 フランクリンと福沢諭吉」(講談社学術文庫)で、ご本人はこう指摘しておりました。
「私流に言い換えるならば、福沢はなんら文学を目ざすことなく、ものの見事に『福翁自伝』という日本文学史上の最高傑作の一つを書いてしまったということなのである。」(p250)

この平川氏の本の魅力は、読んでのお楽しみにして、
ちょっとつまらなそうな箇所だけを引用してみます(笑)。

「試みに『福翁自伝』が1945年以後に出た主な日本文学史の中でどのような扱いを受けているかを調べてみると、
麻生磯次著『日本文学史』(至文堂、昭和24年)に福沢その人への言及は一言もない。
久松潜一編『日本文学史近代』(至文堂、昭和32年)は吉田精一教授の執筆になるが『福翁自伝』への言及はない。伊藤整『日本文壇史』(講談社、昭和28年)は巻数の多い、羅列的な記述で、福沢の名前は再三出てくるが『福翁自伝』への言及はない。柳田泉氏ほかの『座談会明治文学史』(岩波書店、昭和36年)も同様である。市古貞次編『日本文学全史』(学燈社、昭和53年)の近代の巻は三好行雄教授の執筆になるが、そこでは福沢は『文学』を経世済民のための『学問』として把えた人としてのみ紹介されている。猪野謙二『近代日本文学史研究』(未来社、昭和39年)、平岡敏夫『日本近代文学史研究』(有精堂、昭和44年)、瀬沼茂樹『近代日本の文学――西欧文学の影響』(社会思想社、昭和53年)などの個別研究の書物にも福沢は登場しない。比較文学的見地に立つかに思われた海老池俊治『明治文学と英文学』(明治書院、昭和43年)も羊頭狗肉の論文集と呼ぶべきであろうか、福沢の名もフランクリンの名も現れない。中村光夫の『日本の近代小説』(岩波書店、昭和29年)は福沢諭吉への言及で始る珍しい書物だが、しかしそれは福沢が西洋の『文明』の中で『文学』を理解していなかった、という非難を述べるためであった。・・・」(p248)

そして、こう指摘しております。

「正宗白鳥が『福翁自伝』をいかに重んじたかはすでに述べた。小泉信三は『福翁自伝は、今日、ほとんど日本近代文学の古典の一つに数えられ』と岩波新書『福沢諭吉』の総説に書いた。チェンバレンは古今を通じて日本語で書かれた書物の中でもっとも興味深い一冊と評した。世間の多くの読者も多かれ少かれそのように思っているのが実相であろう。ところがそれでいて『福翁自伝』が日本の文学史家によって完全に無視されているこの事態は一体なにを意味するのであろうか。これこそ日本的な歪みではあるまいか。」(p252)

さらにつづきます。

「文壇における勢力分布は文学全集編集の際の割当に如実に示される。昭和の初年に出た改造社の『現代日本文学全集』はその未曽有の売行によって明治大正の文学を日本の家庭に普及させた。その円本と呼ばれた全集はその後繰返し出版されるさまざまな日本文学全集の原型となったものである。だがその際、福沢諭吉に割当てられた頁数は、『明治開化期文学集』中の三頁――三巻ではない――に過ぎなかった。その事実はまことに象徴的であった。明治日本の最大の言論人福沢諭吉はこうして日本の文壇から追放されてしまったのである。」(p252~253)

さて、ここからが、あなたの「なんでも鑑定眼」へとつながっていきそうな気がしております(笑)。この平川祐弘著「進歩がまだ希望であった頃」(私には、この題名は、よくないような気がするのですが)は、さまざまな考察を踏破してゆく歓びで、読ませます。

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齋藤十一と竹山道雄。

2013-09-12 | 他生の縁
平川祐弘著「開国の作法」(東京大学出版会)をパラパラとめくっていたら、一箇所、齋藤十一氏の名前が登場しておりました。そのことについて書きます。


本の最後に、二つの文があります。
1984年8月号「新潮」に掲載の「竹山先生のこと」。
1985年1月号「新潮」に掲載の「『ビルマの竪琴』余聞」。

ちなみに、
1984(昭和59)年6月15日に、竹山道雄氏死去(80歳)。


その「竹山先生のこと」の文中に、
齋藤十一の名前が登場しておりました。

「・・・昭和21年3月『新潮』に出た『失はれた青春』で竹山道雄の文壇でのイメージは作られたということでもあろう。竹山氏は戦後の論壇の一方の雄であった。戦時中に軍部やナチズムを批判したと同様、戦後は左翼や唯物史観を平然としかも巧みに批判した。その風当りの強い『危険な思想家』の竹山氏に発言の場を与えてくれた新潮社の齋藤十一氏以下への謝意を繰返し家人に洩していたことをここに記させていただく。」(p265)

そうそう、「ビルマの竪琴」に関連してこんな箇所もありました。

「・・戦時中、軍部を批判し、ナチスを敵視した竹山氏であったからこそ、戦後の日本で軍の罪悪を罵倒する声のみが聞かれた時代に、『義務を守って命をおとした』若い人びとを弔う鎮魂の書を著し得たのだろう。氏はその生涯の節目節目で一番大切な問題を毅然として取りあげた人であった。・・」(p263)

もどって、齋藤十一の追悼集「編集者齋藤十一」(冬花社)に、竹山道雄の名前が登場する箇所をみてみますと、

追悼集の最後の方に、齋藤美和夫人の談話が掲載されております。

「・・・齋藤は、戦後しばらく論壇や文壇から追放されていた保田與重郎さんや、やはり執筆の場から遠ざかっていた河上徹太郎さんたちに、初めて『新潮』誌面に登場してもらいました。・・・・すでに活躍していた作家たちとも親しくお付き合いしていました。舟橋聖一さんと一緒に岐阜の鵜飼いを見に行ったり、大岡昇平さんとゴルフをしたり、竹山道雄さんや今東光さんとお酒を呑みながら談論に興じたり・・・。大佛次郎さんとは、私たちの住まい近くの明月院に出かけたりしています。・・・・」(p277)

木下靖枝さんの追悼文は、

「『週刊新潮』編集部と出版部のある三階から、『新潮』『芸術新潮』編集部と校閲部のある四階へ、齋藤さんがコツコツと靴音も高く上っていらっしゃると・・・」こうはじまる文、その文章の最後にこうありました。

「編集会議には参加なさらなかったが、五味さん、吉田秀和さん、竹山道雄さん、保田與重郎さんなどの連載は、すべて四階で『芸新』の編集長だった白井重誠さんとのおしゃべりから生まれた作品だった。」(p117)

ちなみに、白井重誠氏については、
美和夫人の談話に、こうして登場しておりました。

「結局、齋藤は早稲田第一高等学院から早稲田大学の理工学部へ進みました。理系に進んだのは、ガス会社に勤めていた父親が理系だったこととも少し影響していたのかもしれません。大学で仲良くなった同級生に、白井重誠さんという方がいました。月刊少女雑誌『ひまわり』の編集部を経て、『芸術新潮』の嘱託になられた方ですが、その白井さんが、授業中に隣りの席で文庫本を読みふけっていて、余りに夢中になっている姿を見て、齋藤が声をかけたのだそうです。この白井さんがいらっしゃらなければ、齋藤は文学に触れることがなかったかもしれません。大きな出会いでした。・・・」(p272)


追悼集には小島千加子さんも書いておりました。

「・・終戦後、僅か二ヵ月後に復刊した『新潮』は、堰を切ったように知識人たちの発言の場となった。竹山道雄、塩尻公明、本多顕彰などの人生論的エッセイや、吉川幸次郎、田中美知太郎という碩学の頻繁な登場。それらは、齋藤さんの裡(うち)に蓄積されていた教養の発露である。時代の要望を睨んだ、人の意表をつく企画も次々と発せられる。小林秀雄とノーベル賞の湯川秀樹との、一冊の半ばを割く長大な対談、同じく小林秀雄と徳川夢声との対談。また、カミュの『異邦人』、『カミュ、サルトル論争』、『ジイドの日記抄』等、海外に向ける目も新しかった。」(p37)

その当時「風当りの強い『危険な思想家』」という、
そんなレッテルをベタベタと貼られていた人に、
きちんと、発言の場を与えていた数少ない編集者が、
齋藤十一だった。ということなのですね。

うん。
レッテルしか見ない人。
ただ、レッテルを貼るだけの人。
いるんですよね。
レッテルを貼るだけで満足しちゃう人。
おっと、私もそうでした。
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ガイドの後について。

2013-09-11 | 地域
私の秋の読書は、夏からつづいて、平川祐弘氏。
ということで、古本を注文しました。

たまたま、同じ著者の本が、
舒文堂河島書店(熊本市中央区上通町)に数冊拾えましたので、
そこへと注文することに。

「小泉八雲 西洋脱出の夢」(講談社学術文庫)800円
「西欧の衝撃と日本」(講談社学術文庫)600円
「漱石の師 マードック先生」(講談社学術文庫)1000円
「進歩がまだ希望であった頃」(講談社学術文庫)1000円
「開国の作法」(東京大学出版会)800円

以上合計4200円+送料450円=4650円

それが昨日届く。

さてっと、
「進歩がまだ希望であった頃 フランクリンと福沢諭吉」
の文庫解説は松原秀一氏。その全文を読むと
はからずも、平川祐弘氏のさまざまな本の紹介文となっております。
ここでは、そのはじまりを引用。

「『進歩がまだ希望であった頃』は平川祐弘氏の数多い著作のなかでも著者の長所の最も良く出ている研究であると同時に最も楽しめる本であると言えよう。読者は手慣れたガイドの後について美術館を見学するように、二つの『自伝』の中を程良い速度で見物し、ガイドの適切な説明を受けながら安心して色々な書物について啓発を受け、18世紀の若いアメリカと1世紀前、ペリー到来に揺り動かされ文明開化の途を辿り始めた日本を比べ、そこに鮮やかに描きだされた二人の骨太で朗らかな人物の姿を眺めて、爽やかな読後感を味わうであろう。・・・
二百ページを越える本を書くのに苦労しない筈はなく、離れ技をそれと気付かせず受け取らせるには苦心もあったに違いないが、平川氏はいかにものびのびと、いとも楽しげにヨーロッパ、アメリカ、また、日本作家の多くの著書の間をあちこちと飛び回って思いがけない角度から二人の偉人の姿を示し、氏の共感を分けてくれる。・・・」
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読み応えの「昭和史解釈」。

2013-09-10 | 本棚並べ
平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」(藤原書店)に

「・・・1994年雑誌『正論』8月号に小堀桂一郎が『五十年の後に――いま、竹山道雄氏を偲んで』という題を掲げて林健太郎と昭和史解釈をめぐって論争を交えているからである。読み応えがあり、論争は両者の再反論にまで及ぶ。読者が林健太郎『歴史からの警告』(中公文庫、1999)に収められた緒論と小堀桂一郎『再検証東京裁判』(PHP研究所、1996)に収められた緒論を直接読まれることを希望するが、私は小堀が竹山『昭和の精神史』を追憶するという形をとりながら、竹山が必ずしも認めるとは思わない主張を述べて林批判をしたことについて遺憾に思っている。」(p272)

この箇所が気になっておりましたので、
林健太郎氏と小堀桂一郎氏の両方の本が手にはいった昨夜、さっそく論争箇所を読み比べてみました。
実際の論争のやりとりを読め、感銘しました。
とくに、林氏の大局把握、感情論を排した
沈着な指摘に、読み甲斐を感じました。


それにしても、自宅に居ながらにして、
指摘された本を、簡単に購入できて、
読み比べられる。それが今なのだと、
ありがたく、感謝したくなります。
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一高教官室。

2013-09-09 | 短文紹介
古蹊堂書店(福岡県遠賀郡岡垣町)
林健太郎著「歴史からの警告」(中公文庫)
600円+送料210円=810円
これが今日ポストに届く。

以前に古本屋で購入しておいた本に

会社・がらんどう(安城市住吉町)
林健太郎著「移りゆくものの影」(文芸春秋社)
800円+送料200円=1000円

がありました。この本に
「自由の孤城に住みて」という文があります。
はじまりは、
「昨年末『文藝春秋』で竹山道雄氏と『良識は反動ではない』という対談を行った所、幸いに相当の反響があってしかもかなり好評であった。・・・しかし・・・『竹山道雄は反動だ』というささやきがまた聞えているようである。・・・竹山さん御自身は今更反動呼ばわりされたからとて別に何とも思われないであろうが、人の議論をまともに聴こうともせず、また聴くことを妨げようとする人が多いことは残念に思われるであろう。」(p75~76)

この一文は、一高教官室がメーンになっているような回想となっており、安倍校長はじめ、さまざまな方が登場しております。一箇所だけ引用。

「故三谷隆正先生は亀井(高孝)先生と共に私が生徒の時最もお世話になった先生であるが、先生はよく、世間には本がたくさんあり過ぎるからつまらない本を読んでいてはきりがない。何でもよいから何か根本的なものをしっかり読むことだと言われた。先生の書かれた本の中に、『日本の大学教授は学問のブローカーである。次から次へと外国の新しいものを追っかけまわしてそれを紹介するが、自分のものは何も持っていない』という言葉がある。温厚な先生にしては大へん辛辣な言葉だが、これはたしかに的を射ている。・・・・一高の先生方はこの三谷先生のような気迫と自負とを持っておられたように思う。学問というものは本当に自分のためにするのであって、それを切売りするためにするのではない。・・・我々はいつも真物と偽物とを区別する眼と、自分の心の内奥の一番大事なものを固く守ってゆく誠実さとを養って行かなければならない。そういうことを、少なくとも私に教えてくれたのはこの一高教官室であった。しかしそのことに、当時私ははっきり気づいていたわけではない。ただ今から顧みてそうだったと思うのである。」(p101)

ちなみに、
この「移りゆくものの影」は、
昭和35年に出版されたもので「まえがき」は
こうはじまっておりました。
「昨年の4月から9月まで、中一回おいて文芸春秋に連載した5つの文章を集め、それに更に80枚位を書き足したのが本書である。」

この古本は購入時に、鉛筆で書き込みがありました。
本の最後にある書き込みは

「1960・3・15 
一度文春で読んだもの。
又読みなおしてみても、なかなか気持ちのよい本。」

前の持主のメッセージ(笑)。

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「昭和史と私」

2013-09-08 | 本棚並べ
平川祐弘氏の本を読んでいると、林健太郎著「昭和史と私」(文藝春秋)が気になり、古本屋へと注文。

熊谷書店(宮城県仙台市青葉区)
林健太郎著「昭和史と私」
350円+送料340円=690円
蔵書印あり。カバー汚れ感あり。
本文には汚れはなく、読むには支障がありませんでした。

読むうちに、
竹山道雄氏と林健太郎氏のつながりが分ります。
一箇所だけ引用すると、

「1960年(昭和35年)は『文化自由会議』・・その十周年記念の大会が西ベルリンで6月に開かれる・・・
日本からの出席者は『自由』関係の四人(竹山道雄、平林たい子、関嘉彦、林健太郎)・・・」

「竹山氏は会議に出た後もずっとベルリンに留まり、この東からの難民問題と熱心に取り組んだ。氏は東ベルリンに入って向うの役人にもまたそうでない人にも会ってつぶさにその実情を調査し、その報告は昭和36年4月以降『文藝春秋』に連載された。氏は前回の旅行に際してもこの問題に言及している(「ヨーロッパの旅」所載「ベルリンにて」)。しかしその後まもなくナチスのユダヤ人殺害を詳細に紹介し(昭和32年から33年にわたって「文藝春秋」に掲載、後「妄想とその犠牲」と題して「続ヨーロッパの旅」に収録)、これは左翼からも好評を得ていたが、この度の東ドイツ論(後「剣と十字架」としてまとめられた)によって、――それはあくまで正しい事実を述べたのに――『反動竹山』の攻撃を一身に浴びることになったのである。」(p293)



それはそうと、
林健太郎著「昭和史と私」で、興味深い
第21章「東大紛争173時間の軟禁」にふれなければ、
読んだ甲斐がないというもの。

「昭和43年から44年にかけて、日本では『大学紛争』というものが全国で荒れ狂った。」と第21章ははじまります。


以下推移を断片的に引用してみます。

「他大学を含む三派系学生が医学部中央館という建物を占拠した。そしてこれによって俄然紛争はエスカレートするのである。
建物の占拠はもちろん不法であるから、警察力を要請してこれを排除するのは当然考えられるところである。そしてそれは総長の専決事項であるが、大河内総長はこれについて学部長会議(これは法的に正規の機関ではないが)に諮ったようである。ところがそこで――これも洩れ聞いたところでは――ただ一人の学部長が反対したために総長はそれを断念した。しかし大学本部のある安田講堂から程遠からぬこの建物の占拠を放置したことがその後に甚大な影響を及ぼすことになる。」(p340)

「教授の間でも、三派系学生への非難よりも、総長が説得の努力をしないでいきなり警官を入れたのはよくないとか、あるいは医学部教授会の『封建性』が問題であるというような声がより多く聞かれるようになった・・」(p343)

「このような状態の下で、大河内総長は退陣を決意し、それと共に全学部長十人も辞任することになった。・・・文学部の学部長交代・・私(林健太郎)が学部長に選ばれた・・・」(p349~350)

「・・教授が学生に呼び出されて『バリケード』の中に入ったまま帰って来ず、その様子を見に行った他の教授も学生に拘束されてしまった。・・・・結局、私が出て行かざるを得まいということになった。・・・この時時刻は9時を過ぎていたから今夜は徹夜になることは明らかであったが、それが一週間も続くことになろうとはまったく思いもかけぬところであった。
学生がいわゆる『バリケード封鎖』を行っている文学部二号館の中の二番大教室というところで、『大衆団交』なるものが始まった。集まっている学生は約250名、そこへ私を先頭に教授会のメンバーの大部分40人ほどが入って行くと、中からは拍手が起こった。壇上には私と岩崎武雄、堀米庸三両評議員他、学生数名の席がしつらえてある。『団交』というのはまず委員長が長々と演説をして彼らの要求を述べ、最後にそれに対するイエスかノーかの回答を求める。・・・・私は三つの要求に対していずれもノーと答えた。」(p351~353)

「二度目の『団交』の後、彼らは教官は以後帰ってもよいが、学部長と評議員はこの建物の中に居残ってもらうと言った。つまり『軟禁』である。
この日は午後二時頃から三回目の『団交』が始まったが、私は冒頭発言して今日は二時間だけしゃべるがそれでこの会は打ち切ると宣言した。そして二時間経ったところで、岩崎、堀米両評議員と共に立ち上がり、これで退出すると言って出口の方に歩いて行った。学生は立ちはだかってそれを阻止する。そこで私は『君たちはわれわれを阻止したね』と確認した後壇に戻り、これは不法な拘束だから以後はしゃべらないと言って・・・こちらは何も言わないのでこの日の『団交』はあまり遅くならずに終わった。
翌七日も三時頃から四回目の『団交』が始まったが、私はやはり何を言われても一言もしゃべらなかった。ところがこの会では今までになかったことが起こった。三人の学生が次々に発言を求めて立ち・・・ストの指導部を批判するのである。特にその中の一人の女子学生は壇上の学生の言うことを正面から反駁して堂々論戦を交えた。いや彼女の整然たる理屈に毒舌家の議長の方がかえって押され気味であった。」(~p354)

うん。私の覚束ない引用はここまでにしておきます。
この昭和史も読ませます。

第22章は「昭和は終わり、ベルリンの壁は崩れた」という題。
最後になりますが、
そこから、この箇所を引用しておきます。

「・・・沖縄返還は日本の左翼勢力によって反米闘争の重要な題目になっていたものであるから、これはその闘争の牙を一つ抜き去ったものである。しかし彼らは自民党政府の行った沖縄返還を支持するわけにはいかないので、沖縄における米軍基地の撤廃という非現実的要求を唱え、基地つき返還に反対するという態度をとった。そこで昭和46年11月、沖縄返還協定は戦後の重要法案のほとんどすべてがそうであったように、社共欠席の『強行採決』によって衆参両院を通過したのである。」(p379~380)
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コピーのコピーのコピー。

2013-09-07 | 本棚並べ
宮崎駿監督の映画「風立ちぬ」は、見ておりません(笑)。

とりあえず。
私が見た関連本はというと、

宮崎駿著「本へのとびら」(岩波新書)
「CUT」2013年9月号の3万字徹底インタビュー
「腰ぬけ愛国談義」(文春ジブリ文庫)

まず、最初に興味を惹かれた箇所は、

「本へのとびら」のこの箇所でした。

「サブカルチャーというのはさらにサブカルチャーを生むんです。そして二次的なものを生むときに、二分の一になり、さらに四分の一、八分の一になり、と、どんどん薄まっていく。それが今です。そう思います。
この世界をどういうふうに受けとめるんだ、取り込むんだというときに、自分の目で実物を見ずに、かんたんに『もう写真でいいじゃない』となってます。写真自体も、いくらでも色やコントラストが変えられるから、好き勝手にしているでしょう。ですから、ほんとうに自分の目がどういうふうに感じているのかということに立ちどまらなくなっています。」(p131)

雑誌「CUT」では、こんな箇所。

「・・・庵野(秀明)の悲劇は、自分がコピーのコピーのコピーだってことを自覚していることなんです。ほんとに。コピーってのはなんでもやってくれるけど、どんどんぼやけていきますから。これ、庵野も言ってることなんですけど。もうほんとにダメだって言ってるんですよ。それなのに株式会社カラーなんか作っちゃったから、もう悲劇の巨神兵になってるんですよ」(p19)

うん。
コピーのコピーのコピーで
どんどんぼやけていく、
悲劇の庵野・巨神兵。
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わかるときが来るかも。

2013-09-06 | 本棚並べ
半藤一利と宮崎駿の「腰ぬけ愛国談義」(文春ジブリ文庫)に
こんな箇所がありました。

半藤】  ・・・・私、試写を見て思ったのですが、宮崎さんはもしかしたら、ゼロ戦ではなく、堀越の生きた昭和史を描こうとされたのではないかとも思ったのですが。
宮崎】 そうかもしれません。・・・・(p165~166)


昭和史となれば、ちなみに、

堀越二郎は、1903年6月生まれ。
竹山道雄は、1903年7月生まれ。
神西清は、1903年11月生まれ。
堀辰雄は、1904年12月生まれ。

ということで、「生きた昭和史」は、
私のなかでは、竹山道雄著「昭和の精神史」へと
自然につながるのでした(笑)。

ちなみに、竹山道雄と神西清は府立四中の友人。
「腰ぬけ愛国談義」でも、神西清が話題になっておりました(p153~)

ところで、「昭和史を描こうとされたのでは」という対談の箇所のすぐあとに、宮崎さんは「・・・で、ぼくは『それをつくると、子どもたちは土俵の外に置かれてしまうなあ』としばらく逡巡していたんです。そしたら『いまわからなくても、わかるときが来るかもしれません』と言った者がいるんです。『あ、そうか。そうかもしれない』と思いました。」(p166)


ここからは、竹山道雄のことへ、つながります。
竹山道雄に「ビルマの竪琴」という
ふつうは、児童文学に分類される一冊があります。

この「ビルマの竪琴」は、
意外と当時の大人には、
きちんと読まれていないようでした。

それについて2つの例。

「アーロン収容所」を書いた会田雄次は、
「竹山道雄先生と私」(竹山道雄著作集5・月報)をこうはじめております。

「古い話になる。私は今度の大戦で20歳代の後半を、歩兵一兵卒としてビルマで戦い、部隊がほぼ全滅した状況下で敗戦を迎え、以後英軍の収容所で、その強制労働に服した。」

「『ビルマの竪琴』は読んでいた。しかし、上のような経験を持つ私にはこれはきれいごとに過ぎて共感できなかった。それ以外はいそがしさにとりまぎれ『心』などの論文をかいま見る程度だった。味読まで行かなかったのは今から考えて痛痕の至りである。ただ、このような進歩主義の大合唱の中で、このような人が居られるのかと教示を受けるとともに共感と安堵を感じたものである。・・・」

もう一つは、未読の方の例。

志村五郎著「記憶の切絵図 75年の回想」(筑摩書房)に
「・・・竹山さんの『ビルマの竪琴』はその頃すでに発表されていたが、私はそれを読みそびれてしまった。今でも読むとかえって失望するのではないか、だから読まない方がよいのではないか、という気分がある。ずっと後、1990年に私がプリンストンの病院で手術を受けた時、麻酔医がその小説の英訳を読んで感動したと話した。その著者は私の高校のドイツ語の先生だと言うとひどく感心していた。」(p114)

うん。こうして書いてある以上志村五郎氏は、どうやら「ビルマの竪琴」をまだ未読のようです。志村氏は竹山道雄の他の著作は読んでいるようです。こう書いております。

「彼の著作の中で文学的ではなく政治的な文章に不案内な読者には1951(昭和26)年に書かれた『門を入らない人々』をまず読むことをすすめる。それから『ベルリンにて』も。ともあれ竹山道雄を今日論ずる人がないことを私は惜しむ。」(p124~125)


宮崎駿氏は、アニメから昭和史へと、わけいったとするなら、
竹山道雄氏は、「ビルマの竪琴」から「昭和の精神史」を書いておりました。

「ビルマの竪琴」が、読めない方には、
その前年(1946・昭和21年)に書かれた「失はれた青春」を読んで、
「失はれた青春」と「ビルマの竪琴」とを比較してみられることを、私はお薦めします。
どちらも、戦争という重いテーマを、軽々と扱っております。
ヤジロベエが一点で左右のバランスをとって、立って居るように、
重いテーマを、まるで詩でも読むかのように軽々と立ててみせるのでした。

その軽さのために、かえって読まれなかった世代がおられたのでした。






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新刊文庫3冊。

2013-09-06 | 本棚並べ
新刊文庫3冊注文。
昨日届く。

小川榮太郎著「約束の日 安倍晋三試論」(幻冬舎文庫)
「半藤一利と宮崎駿の腰ぬけ愛国談義」(文春文庫)
「吉村昭が伝えたかったこと」(文春文庫)

「約束の日 安倍晋三試論」は
13頁ほどの「文庫版あとがき」が必読。

単行本を持っていると、つい文庫になると、
購入に躊躇するものですが「約束の日」は買ってよかった。
いっぽう「吉村昭が伝えたかったこと」は、
文藝春秋9月臨時増刊号(平成23年)の方をお持ちの方は、それで十分。
あらためて、文庫あとがきもないし。増刊号を買いそびれた方のための文庫。

文藝春秋9月号に「記念対談」として
宮崎駿・半藤一利対談が掲載されておりましたが、
「腰抜け愛国談義」は、それに倍して興味深い。
雑誌掲載時に切り捨てられた箇所が、読みどころ。
たとえば、一箇所引用しましょ。

宮崎】 ・・・あ、そうだ。
ベルリン国際映画祭に行ったときに、ちょっとびっくりしたことがあるんです。ぼくらにインタビューに来たドイツの漫画雑誌の編集者とかアニメーション関係の連中というのは、ピアスを鼻とか口とかにつけていたり髪の毛をおっ立てていたりして、来るヤツ来るヤツほぼ全員が、ドロップアウトしたようなスタイルの連中でした。映画祭に来るのは概ねへんなやつらです。真っ当な連中は別なところにいる(笑)。・・・(p207)

これが前置き。これからが本題でした。

宮崎】 誤解があるといけないので言っておきますが、
日本に来ている外国のアニメ好きの若者たちは優秀な人が少なくありません。
さっき話したドイツとの二重国籍を持っているイタリア娘は、日本のアニメーションの『ベルサイユのばら』かなんかを見て、日本語を勉強してから来たんです。ほかにも、突然ルーマニアの娘もやって来ました。こっちは『キャプテン翼』というアニメーションを見て日本語を勉強し、日本語でアニメーションを見たくてこちらに来たとか。かれらは独学で日本語を喋れるようになったんです。凄いですね。
つい最近、中国の青年もやってきました。(p208)

こちらは、断ることになるのですが、
その後を、語っております。

宮崎】 ・・・断ったらしい。するとしばらくしてその中国人青年から礼状が来たんです。それがまあ、じつに立派な日本語なんですよ。・・日本的な漢字の使い方をしながら平仮名も使っていました。ジブリにだってあれより日本語の下手な日本人スタッフがいっぱいいます(笑)。ぼく、ちょっと感動しましてね、もう一回来いって言って呼んだんです。・・・・(p209)


まあ、雑誌で切り捨てられた箇所が、惜しまれて文庫となったような一冊なので、こちらもお買得。
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「許せない」と。

2013-09-05 | 短文紹介
「編集者 齋藤十一」(冬花社)に
亀井龍夫氏の追悼文があり、そこから引用。

「齋藤さんがタイトルを大切になさっていたことは、あまり知られてはいないことかもしれない。『週刊新潮』の編集長が野平健一になっても、そのあとの山田彦彌になっても、毎週の特集のタイトル四本か五本は、すべて齋藤さんがご自分で付けられていた。特集だけはゲラもお読みになっていたと思う。そして、すべての作業が終わったあとの三十分間ぐらいを使ってタイトルをつくられた。
うまかった。読んでみたいと思わされるタイトルだった。・・・・特集の書かれている内容よりタイトルの方がセンスがあった。」(p86)

さてっと、
新潮新書の新刊に
徳岡孝夫著「人間の浅知恵」が出ておりました。
徳岡孝夫とあれば、さっそく購入。

ところで、この新書、雑誌に連載された文を一冊に
まとめたもので、新書の最後の方に、
雑誌掲載時の、題名と日付がついてます。
面白いのは、
この新書の各文の目次題名と、雑誌掲載時の題名とが微妙に違う。
そこを比較するのも、この新書の楽しみのひとつ。

ここでは、ひとつだけ引用。
この新書の最後の文。

新書目次の題名は、「鳩山由紀夫と三島由紀夫」。
雑誌掲載時題名は、「友愛より母の愛 鳩山家の浮世離れ観」。

あなたなら、どちらに惹かれますか?

うん。ここでは、徳岡氏の文が魅力なので
ちょこっと、最後の方を引用しておきます。

「・・新聞によっては20億とも数えている、そういう大金が、お母様から由紀夫の秘書つまり執事に渡っていた。・・・鳩山内閣は口先やパフォーマンスは達者だが、浅慮の内閣である。まず言う。鳩山自身、記者に『秘書の罪は国会議員の罪だ』と言って・・・不思議なのは国民の反応である。麻生首相が一日の仕事を終えてホテルのバーで一杯やるのを『許せない』と怒った民の60%以上が、鳩山家の坊っちゃんを支持している。人気を保ち、小沢に『よし』と言わせ、お母様にも喜んでいただく。・・・」(2010年1月)
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ほとんどただひとりの人であった。

2013-09-04 | 短文紹介
今日は病院へ行く日。
アキレス腱断裂から2か月。
お医者さんに、近くの接骨院への通院に変更したいと
お願いすると、承認していただける。ありがたい。
午後は5階でリハビリをうける。
待つ間に、そばで、義足の歩行訓練をしている。

リハビリ指導は、今回は別の方。
若い男性で、今後のリハビリの仕方を教わる。
途中で、補助器具取扱い説明した方が声をかけてゆく。
この補助器具の使い方は、ゾンザイですねと、
指摘される。
その人に、高校女子で、剣道部の人が、
再断裂してしまったのですよと、チラリと言われる。
うん。心して、自宅療養をいたします(笑)。

ということで、今回で病院への通院はお終い。

病院は予約なのですが、
10時の予約でも、15分から20分は待ちます。
ということで、持参する本をひらく時間がある。
それに、今日はお医者とリハビリとで
待ち時間はたっぷり。
けれども、そうそう読めるわけではありません。

ショルダーバックから取り出した本は、
志村五郎著「記憶の切絵図」(筑摩書房・2008年)。
これは、平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」(藤原書店)の
「はじめに」で印象深く取り上げられていた一冊。


待ち時間、繰り返し読んでいた箇所を、
ちょっと長いですが引用。

「朝鮮戦争が起ったのは1950年6月、私が大学の2年生の時である。
当時の日本の社会のこれに対する反応は、
今日の歴史概説書では伝えられていない面があると思うのでそれを書く。
38度線を突破して侵入した北朝鮮軍はその年の8月中には国連軍を半島の釜山付近の小部分に追いこめ、全半島を占領しかねない勢いであった。その頃私は、その理由は忘れたが、駒場の東大の寮か何かに行く用があった。帝都線の東大の前の駅で、高校時代の知人にあった。彼もその時東大の学生であったと思う。朝鮮戦争の話になり、私が『もうすぐ国連軍は追い落とされそうじゃないか』と言うと、彼が『うんそうだ、もう少しのしんぼうで勝利が得られるんだ』と言うではないか。つまり私が憂うべき事として言うのを彼は喜ぶべき事として言っているのである。
私は愕然として、『ああこれではだめだ、話にならない』と思って話題を変えてしまった。今の人にはわからないが、それが学生の多くあるいはいわゆる進歩的評論家の当り前の意見だったのである。統計を取ったらそうでなかったかも知れないが、学生の間の共産党員またはそのシンパの勢いは大きく、その前の年あたりから『もう5年もすれば革命だ』などと言っていた。・・・議論しても無駄なので言うがままにさせておいた。
しかし、共産社会が理想郷であるという信仰はそれよりさらに若い世代も持っていて、1975年頃でも北朝のその意味での優越性を信じている者は大勢いた。その中には現在有名大学の学長になっている者もいる。もうこの頃はやっとわかったようではあるが。
また、あれは北朝鮮軍が侵入したのではない。南側が先に攻めたか挑発したのだと思っている『知識人』もかなりいた。1985年の『すばる』8月号で小田切秀雄は、『ずっとそう思っていたがやっとそうでないことがわかった』という意味の事を書いている。こんな明白な事実をみとめるのに35年かかたというのは驚くべきであるが、その種の連中はほかにもまだいる。
もうひとつ『ソ連信仰』があって、この方がより悪質かも知れない。
『米国寄りにならずまたソ連に近よるのでなく、米国とソ連の間にうまくバランスをとってやるべきだ』といういかにももっともらしい議論をする政治学者や評論家が多勢いた。いわゆる『進歩的知識人』である。それは実は反米をごまかして言っていて、彼等は反共よりは反米の方が受けがよいことをよく知っていたのである。だから彼等の世界の中での功利的保身術に基いていたと言ってもよい。・・・・
付記すると、進歩的知識人はふしぎなことに、いかにソ連が数多くの悪事をしたかに目をつぶったのである。
戦争が終った時ソ連は日本軍兵士を多数シベリアに抑留して長い間働かせた。これは労働力を得る目的でかなり前から計画されていた。多数の抑留日本兵が厳寒の下、飢餓と戦いながら苛酷な労働を強いられたのである。この事を我々は決して忘れてはならない。これは誰が何度言っても言い過ぎることはないと思うのでここに書いた。要するにソ連は信用してはならない国だったのである。」

この途中に、竹山道雄氏のことが登場しておりました。
そこを最後に引用。

「竹山道雄はそれとは違って共産主義諸国を一貫して批判し続けた。彼は共産主義国信仰の欺瞞を極めて論理的かつ実際的に指摘した。それができてまたそうする勇気のある当時ほとんどただひとりの人であった。いつの世の中でも正しい事を言うよりは、世間の受けのよいレトリックを弄する方が安全で、そんな連中がはばをきかせるものである。彼はまた東京裁判の甚だしい不当性と非論理性を言った。今となっては彼がほとんど常に正しかった事は明らかである。・・・・ともあれ竹山道雄を今日論ずる人がないことを私は惜しむ。」(~p125)


うん。病院の待ち時間に、
私はここを、くりかえして読んでおりました。
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現役を退きたく。

2013-09-03 | 短文紹介
昨日の朝刊で、宮崎駿監督の引退声明を知りました。
テレビつけて、街頭インタビューでのコメントを聞いていると、これは宮崎駿監督が亡くなったのかと、間違えてしまうような雰囲気がありました。
生前葬というのが、あるそうですが、まるで、そんな印象。

ということで(笑)、
「編集者齋藤十一」(冬花社)を、ひらく。
この本のはじまりは、瀬戸内寂聴と山崎豊子のお二人の弔辞からでした。
そこで、興味をひいたのが、山崎さんの弔辞。
こんな箇所があります。


「・・・『大地の子』を書き終えた直後、齋藤さんをお訪ねして、『もうこれ以上の作品を書く自信がありませんから現役を退きたく、何をおいてもまず私をお育て下さったお方に長年のご恩を謝し、おいとまごいに参りました』
ご挨拶すると、
『芸能人には引退があるが、芸術家にはない、書きながら柩に入るのが作家だ』と言下に云われ、瞬時おいて、
『時に私の死期も近いから、私への生前香典として香典原稿を一作戴きたい』
と申されました。香典原稿とはあまりに重く辛いお求めでしたが、私には辞退が許されぬものと思いを決めました。それが『沈まぬ太陽』でした。・・・・」
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齋藤十一論。

2013-09-02 | 短文紹介
岡潔・小林秀雄「対話 人間の建設」に
一読忘れられない箇所があります。

小林】 ベルグソンは若いころにこういうことを言ってます。問題を出すということが一番大事なことだ。うまく出す。問題をうまく出せば即ちそれが答えだと。・・・物を考えている人がうまく問題を出そうとしませんね。答えばかり出そうとあせっている。
岡】 問題を出さないで答えだけを出そうというのは不可能ですね。
小林】 ほんとうにうまい質問をすればですよ、それが答えだという簡単なことですが。
岡】 問題を出すときに、その答えがこうであると直観するところまではできます。できていなければよい問題でないかもしれません。その直観が事実であるという証明が、数学ではいるわけです。・・・・・

ところで、ここに、ひとつ問題。

「編集者齋藤十一」(冬花社)に
「齋藤と同じ鎌倉に住み・・・よく酒席を共にした小林秀雄は、生前、『君がもし僕より先に死んだら、僕は君のことを書くからね』と言っていたが、小林の方が先に亡くなったため、小林による齋藤十一論という夢のような企画は、結局、日の目を見ずに終わった。」(p22)

書かれなかった「齋藤十一論」は、
はたして、どのような
内容になるはずだったのか?
という問題(笑)。

この冬花社の、すこし前のページに
「1956年(昭和31年)2月、出版社系初の週刊誌『週刊新潮』が創刊された。編集長の佐藤亮一の片腕として同誌の創刊に関わった齋藤は、現役を退くまで、企画、編集の現場を全面的に取り仕切った。とりわけ週刊誌の生命線といわれるタイトルは齋藤の独壇場で、一切他人に口出しさせることはなかった。」(p20)

うん。やはり、
「タイトルという問題」が「齋藤十一論」に欠かせない、
と思えますよね。

p169に伊藤幸人氏が追悼文を書いているのですが、
そこに、こうあります。

「齋藤さんは『タイトルの天才』『タイトルの鬼』といわれた。『週刊新潮』のタイトルを創刊以来、何十年にもわたってつけ続けたという『伝説』もあった。・・・・雑誌記者にとってタイトルがいかに大切か、という原則を繰り返し叩き込まれたという思いが強い。私の会議ノートには、こんな発言が残っている。
『誰が書くかは問題ではない。何を書くかが問題。広告などでも執筆者の名前は小さく、タイトルは大きく』
『むつかしい人、偉い人に原稿を頼む必要はない。問題は、自由のきく執筆者を揃えよ、ということ、要するに、題が重要になる。こちらでタイトルを持っていって、その通りに書いてもらうことだ。意外に、執筆者では商売にならない』
『羊頭狗肉が一番いけない。これだけはやらないでくれよ。週刊新潮でも、俺がつけたタイトルどおりにやってくれと言っているが、いつもそうとは限らない』」


書かれなかった「齋藤十一論」に、
この場面も欠かせないだろうなあ。
と思うのが冬花社の最後に載っている
妻・齋藤美和さん談話にあるエピソード。

「佐藤義亮さんは戦後、昭和20年(1945年)3月号から、半年ほど休刊していた月刊誌『新潮』を復刊させましたが、復刊して三ヵ月後、その編集長に齋藤を任命しました。・・・体調を崩された義亮さんは大戦の末期、長男の義夫さんに『戦後の編集担当は齋藤に任せろ』と言い残されたそうです。・・・齋藤は意気に感じて、編集顧問に和辻さんのようなジャーナリスティック感覚に長けた河盛好蔵さんを迎え入れ、戦後の『新潮』をスタートさせたそうです。その後、齋藤にとって大きかったのは、十歳年長の小林秀雄さんとの出会いです。・・・長い間にわたって『新潮』や『藝術新潮』に健筆を揮って頂きました。
編集者と作家の関係といえば普通、編集者が作家のお世話をするものです。それなのに齋藤が小林さんと二人で出張するときには、小林さんがお弁当のことまで面倒をみてくださり、齋藤はケロリとしていたという不思議な関係でした。・・・お酒を酌み交わしながら、その時々に出たばかりの『新潮』や『芸術新潮』『週刊新潮』の出来具合、ゴルフや音楽のこと・・・。言いたいことを言い合える関係にあったようです。
齋藤は、戦後しばらく論壇や文壇から追放されていた保田與重郎さんや、やはり執筆の場から遠ざかっていた河上徹太郎さんたちに、初めて『新潮』誌面に登場してもらいました。当時の左翼的な流れに反する、いささか勇気の要る決断だったと思います。・・・・
後年、河上さんの出版記念会で、河上さんが涙を流しながら喜んでいられた光景を覚えています。・・・」(p275~276)

坂本忠雄氏の追悼文には、
その河上徹太郎氏にむちゃな問題を押し付ける場面が書かれておりました。

「安保闘争で日本中が騒然となった昭和35年(1960年)の8月号に、私は齋藤さんから『安保反対にあらざれば人間にあらざるの記』と題して河上徹太郎さんに書いてもらうよう、突然命じられた。早速河上さんに依頼すると、少し考えさせてくれという返事だったが、翌朝七時頃眠りこんでいた私は齋藤さんに叩き起され、どうだったかと聞かれた。後年竹山道雄さんから私がもらった原稿に、『筋金入りの齋藤さんはいったんこういうものを書かせようと決心したら、それを実現するためのいかなる労も惜しまなかった』とあったが、即座にあの早朝を思い出したものである。」(p98~99)

「『週刊新潮』の特集のタイトルを齋藤さんがつけていたのも今や周知だが、実は『新潮』のタイトルにも注意深かった。或る日、たまたま菅原(國隆)さんと私が午前中から席に着いていると、齋藤さんが現われて、菅原さんに『井伏さんに【姪の結婚】ではもったいないから、【黒い雨】にかえてもらうよう頼んでくれ』と指示された。・・・」(p99)



こういう箇所を拾ってゆくと楽しいけれど、
このくらいにして
夢の「齋藤十一論」では
両手で捧げ持つように
本を読んでいる姿も、
ぜひとも入れたいなあ。

「編集者齋藤十一」(冬花社)に載っている、
草野守立氏の追悼文のこんな箇所。
ちなみに、草野氏は昭和39年に入社。

「小生が入社したとき、本館四階の『芸術新潮』編集部のフロア―には、『新潮』編集部と校閲部が同居していた。その一隅にひときわ大きな齋藤さんのデスクがあり、その上にはうずたかく積まれた様々な同人雑誌と携帯ラジオが置かれていた。・・・午前中に出社されると、デスクの背後のロッカーにコートと帽子をしまい、階下の『週刊新潮』編集部に降りてゆかれる。お昼近くに戻ってこられると、NHKのラジオ・ニュースを聞き、それから椅子の背に深々と身を委ねながら同人雑誌を捧げ持つように両手に持って読み耽(ふけ)る。普通の人がやるような、机の上に本を広げて読む姿は、まったく記憶に残っていない。」(p122)




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