黒柳徹子著「トットひとり」(新潮社)を
とりあげた神山典士氏の書評に、
「森繁88歳の時、
『徹子の部屋』の収録中に黒柳は声を張り上げた。
『森繁さん、ちゃんとやって頂かないと困るんです。
森繁久弥という俳優が、どんなに魅力的で、
ステキな方か、という事を知って頂きたいのに(後略)』
すると森繁は突然居住まいを正して、
萩原朔太郎の詩を朗々と語り始める。」
この箇所が印象に残ります。
この書評では、『詩を朗々と語り始める』
とあります。知識人が朗々と語り始めるといえば、
解説・説明となります。俳優ならば、詩を朗々と
朗読し始めたということでしょうネ。
そういえば、朗読・音読ということで
最近読んだ箇所に、印象的な場面がありました。
まずは、田村隆一。
「田村隆一 詩と批評A」(思潮社)。
その本の最初に「詩について」の文が並びます。
「ぼくの苦しみは単純なものだ」と題した文から引用。
「九篇の散文詩によって、ぼくの『戦後』が
はじまったわけだが、その当時の模様を、
北村太郎はつぎのように書いている。
『戦後の40年代後半、田村隆一は散文詩をつづけて
書いた。(中略)彼は、これら一篇一篇を書き上げたとき、
太いが、よくとおる、きれいな声で、ぼくに読んで聞かせてくれた。
散文体なのに、独特なリズムがあって、聞いていて快かった。
そして読み終ると、大声でけたたましく笑うのが
田村の癖だった。ぼくも感銘し、いっしょに笑った。
・・・・これらすばらしい音楽をみつけた彼の無上の喜びと、
そして無上の絶望が、いっしょに笑いながら、
ぼくにははっきり分かった。』・・・」(p17)
もうひとつ。
小泉信三著「ジョオジ五世伝と帝室論」(文藝春秋)
の最初をひらくと、現在の天皇陛下の若い頃のことが
でてきます。
「私が毎週殿下と御一緒に本を読んだり」という
箇所なのでした。そこに音読が出てきます。
「・・読む本で一番長く続いているのは、英人
サア・ハロルド・ニコルソンの『ジョオジ五世伝』
だが・・・御一緒に読んだ本のことをいえば、
福澤の『帝室論』と露伴の『運命』とは、
殿下と私とで、交る交る音読した。
(殿下が、喉が痛い、とて途中でおやめになったこともあった)。
音読して見て、今更のように感じたのは、この二大文豪の
文章が、いかに格調正しく、いかに音読に適しているか
ということである。西洋の平和な家庭で、暖炉の前で、
夫は妻のために本の朗読し、それを聞きつつ妻は
編み物をするというような場面がよく文学にも描かれるが、
そういう場合、今日の日本では一体誰れの作品を
読んだら好かろうか、というようなことを考え、
殿下にもお話ししたことがあったと思う。
こういう情景は『ジョオジ五世伝』の中にも
描かれているのである。」(p9~10)
ちなみに、これは
1959年1月雑誌掲載の小泉信三氏の文。
その題名は「この頃の皇太子殿下」。
半世紀も過ぎた現在。
2015年の日本では一体誰れの作品を
読んだら好かろうか(笑)。
とりあげた神山典士氏の書評に、
「森繁88歳の時、
『徹子の部屋』の収録中に黒柳は声を張り上げた。
『森繁さん、ちゃんとやって頂かないと困るんです。
森繁久弥という俳優が、どんなに魅力的で、
ステキな方か、という事を知って頂きたいのに(後略)』
すると森繁は突然居住まいを正して、
萩原朔太郎の詩を朗々と語り始める。」
この箇所が印象に残ります。
この書評では、『詩を朗々と語り始める』
とあります。知識人が朗々と語り始めるといえば、
解説・説明となります。俳優ならば、詩を朗々と
朗読し始めたということでしょうネ。
そういえば、朗読・音読ということで
最近読んだ箇所に、印象的な場面がありました。
まずは、田村隆一。
「田村隆一 詩と批評A」(思潮社)。
その本の最初に「詩について」の文が並びます。
「ぼくの苦しみは単純なものだ」と題した文から引用。
「九篇の散文詩によって、ぼくの『戦後』が
はじまったわけだが、その当時の模様を、
北村太郎はつぎのように書いている。
『戦後の40年代後半、田村隆一は散文詩をつづけて
書いた。(中略)彼は、これら一篇一篇を書き上げたとき、
太いが、よくとおる、きれいな声で、ぼくに読んで聞かせてくれた。
散文体なのに、独特なリズムがあって、聞いていて快かった。
そして読み終ると、大声でけたたましく笑うのが
田村の癖だった。ぼくも感銘し、いっしょに笑った。
・・・・これらすばらしい音楽をみつけた彼の無上の喜びと、
そして無上の絶望が、いっしょに笑いながら、
ぼくにははっきり分かった。』・・・」(p17)
もうひとつ。
小泉信三著「ジョオジ五世伝と帝室論」(文藝春秋)
の最初をひらくと、現在の天皇陛下の若い頃のことが
でてきます。
「私が毎週殿下と御一緒に本を読んだり」という
箇所なのでした。そこに音読が出てきます。
「・・読む本で一番長く続いているのは、英人
サア・ハロルド・ニコルソンの『ジョオジ五世伝』
だが・・・御一緒に読んだ本のことをいえば、
福澤の『帝室論』と露伴の『運命』とは、
殿下と私とで、交る交る音読した。
(殿下が、喉が痛い、とて途中でおやめになったこともあった)。
音読して見て、今更のように感じたのは、この二大文豪の
文章が、いかに格調正しく、いかに音読に適しているか
ということである。西洋の平和な家庭で、暖炉の前で、
夫は妻のために本の朗読し、それを聞きつつ妻は
編み物をするというような場面がよく文学にも描かれるが、
そういう場合、今日の日本では一体誰れの作品を
読んだら好かろうか、というようなことを考え、
殿下にもお話ししたことがあったと思う。
こういう情景は『ジョオジ五世伝』の中にも
描かれているのである。」(p9~10)
ちなみに、これは
1959年1月雑誌掲載の小泉信三氏の文。
その題名は「この頃の皇太子殿下」。
半世紀も過ぎた現在。
2015年の日本では一体誰れの作品を
読んだら好かろうか(笑)。