和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

ええ音やなあ。

2020-02-15 | 京都
「洛中巷談」(潮出版社・1994年)。
河合隼雄・山折哲雄・杉本秀太郎・山田慶兒。
この4人にゲストを加えての座談本です。
12回の座談がまとめられていました。
ゲストは時に、4人の中から選ばれたりで、
まず、ゲストがテーマにまつわる話をして、
そのあとに座談にうつる形式です。

いままで、持っていたのに、
この本を読めなかった(笑)。
京都という着眼点を得ることで、
スラスラと味わい読める楽しさ。

ここでは、吉田孝次郎氏をゲストにした回を
紹介してみます。

最初に吉田孝次郎さんの報告から
こうはじまります。

「私は昭和12年に京都の中京区、祇園祭りの
ただなかに生まれました。町内には北観音山
という曳山(ひきやま)があって、私は祇園祭が
戦後復興してから2年目の昭和23年以来、
ずっと囃子(はやし)をし続けてきました。

その間、昭和30年でしたか、浪人半ばで東京の
武蔵野美術学校へ行って、西洋画を学んで、
絵をかくようになったのですが、昭和47年に
12指腸を外してしまうということがあって、
京都へ丸腰で帰ってきました。それから
京都は染織品の懐がひじょうに深いところ
だということに気づいて、絵をかくかたわら、
それをずっと見続けてきました。」

こう語り、内容豊富なのですが、ここでは、
その最後の方に、祇園祭の音がでてくる、
その箇所を引用してみます。

河合】 吉田さんはずっと囃子をやって
こられたそうですが。

吉田】 ・・・・・おもしろいことに囃子の笛の
メロディーは壬生念仏狂言とまったく同じなんです。
ちょっとやってみますかなあ。(1分ほど口笛を吹く)

河合】 ええ音やなあ。

吉田】 これは囃子のベースになるメロディーで、
各山鉾に共通しています。それにその町内独特の
節回しが若干加わる場合があるわけです。

山折】 それにコンチキチンが重なるわけですね。

吉田】 はい。6~8丁の鉦(かね)がリズミカルに
大きな音で重なり、2丁の太鼓がそれをリードする。
壬生念仏の場合は、鰐口(わにぐち)と太鼓の単調な
ガン、デンデン、ガン、デンデンとのみ囃します
  ・・・・・・・
古い中世芸能の伝統があって、それが念仏狂言にもなり
祇園囃子のメロディーにもなったように思います。

山折】 中世的な鎮魂ですね。

吉田】 まさにそうです。

河合】 ベースやと言われたけれども、
いまの笛のメロディーは日本のいろんなところに
入っているという感じがしますね。
あれがちょっとずつ変わっている。能でもそうでしょ?
・・・こういうのが能へ入っていったと思うんです。

吉田】 同じ能管を吹くのでも、祇園囃子ではほとんど
右手だけの、平易な奏法でいけるんですが、
能楽のほうはひじょうにいじめたというか、
不可能を可能にしたような部分があります。
複雑な手の動きがないと曲にならんのです。

(以上p133~135)

う~ん。祇園祭の絵画的側面とか、田楽とか
さまざまに語られてゆくのですが、惜しいけれど、
ここでは、祇園囃子だけに限って引用。

山田】 祇園囃子に楽譜はあるんですか。

吉田】 ないんです。あるのは鉦の譜面だけで、
これは●と▲をずうっと縦に並べたものです。

山田】 それはたたく強さを示しているんですか。

吉田】 いや、どこをたたけという指令だけで、
テンポとか強さとかいうことは一切ない。それは
そのときの気分でどうでもせいちゅうことです。

山田】 ほほう。

吉田】 それでは伝承がむずかしかろうというので、
五線譜にとったことがあるんです。ものすごく金かけて、
百科事典みたいな大きな本ができた。ところが、そうすると、
決まってしまうわけですわ。こういうぐあいにやれと。
それはもういちばんの間違いなんですね。

河合】 ほんまにそうやね。

吉田】 好きなように、臨機応変に、伸び縮み
どうでもせいというのが正しいんです。

山田】 五線譜のとおりに演奏したら
全部おもしろ味がなくなるわけですね。

山田】 はい。

河合】 ・・・・・・・
武満徹さんなんかと話しとったら、三味線やらでも
ほんとに演奏できる人はものすごく少なくなってきた
と言って残念がっていました。みんな五線で習うから、
それに縛られてしまって、微妙な音階をもってないと。

吉田】 乱暴に言いますと、五線譜になると
耳がなえてしまうんじゃないですかね。

河合】 そうそう。音は無限平面なんですよ。
そのうちの一点を取り出すと、ほかにもある
ということがわからなくなる。・・・・・
声楽でも完全に平均律で歌っている人って
だれもいないと思うんです。そんなもん、
ものすごく気持ち悪いわけです。
三味線に楽譜はないし、尺八の譜面は呂律(ろれつ)です。
・・・・・・・・・
(以上p138~139)

はい。この吉田孝次郎さんの回の最後も引用。

山田】 謡の本に書いてある記号は
一種の楽譜になってるんですか。

河合】 節回しでしょう。

吉田】 そうですね

  ・・・・・・・・

山田】 そういう意味ではジャズというものは
本来の姿に返ったわけですね。

河合】 ええ。だからあれは高踏的な人は
全然受け入れなかった。

杉本】 芸術扱いしてもらえなかった。

河合】 いまはそれをみんなもう一遍考え直していますね。

(p140)


この本のあとがきは、4人がそれぞれ短文を書いておりました。
その最後が河合隼雄さんでした。そこからも引用。

「関西弁の『オモロイ』は、
単に、『面白い』というのよりはニュアンスがあって、
硬い言葉に翻訳すると、いろいろな言葉を複合したものになる。

私は児童文学が好きなのだが、いつか、
『本を選ぶのにどんな規準で選んでおられますか』と訊かれ、
『オモロイのは読みますが、オモロナイのは嫌です』と言うと、

この方は残念ながら標準語の世界に住んでおられたのだろう。

『児童文学は、人間の精神に役立つところが大きいもので、
 そんな興味本位で読むべきものではありません』と
きついお叱りを受け、

『ワー、それオモロイ考えですね』と
思わず言いそうになったのを、ぐっとこらえて
神妙に恐縮していた。」(p256~257)

はい。『神妙に恐縮』することなく、
奔放に巷談が飛びかい
『きついお叱りをうけ』そうな本です(笑)。

この本の装丁は、田村義也。
カバー、表紙、扉は「祇園新地」の古絵図。
あとがきの最後では、河合隼雄さんが

「このような『オモロイ』企画をして下さった
『潮』編集部の吉田博行さん、これを書物にするに
力をつくされた背戸逸夫さんに、感謝の言葉をおくりたい。」

とありました。本の装丁の結構とともに、
そのオモロさを、堪能できました(拍手)。

うん。この本のはじまりに
編集者敬白とあって「この本の読みどころ」
という2頁の挨拶が載っておりました。
蛇足ながら、その2頁目をすこし引用。

「日本人を、特殊な奇種としてではなく、
かなりまともな人種として遇しようという心性が、
話の中を流れている基底音です。
  ・・・・・・
まずは、はんなりとご堪能のほどを。
でも、巷談です。それも、洛中のです。・・・
ゆっくりと時間をかけた話に、
浴衣がけのまま、身をまかせてください。・・」

この前口上からはじまる、洛中座談です。
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本への態度。

2020-02-14 | 本棚並べ
どなたにも、忘れた頃に
本棚からとりだす本がありますよね。きっと(笑)。
それが、雑誌だったり、詩だったり、古典だったり・・・。

ということで、昨日わたしがとりだしたのは、
板坂元著「続 考える技術・書く技術」(講談社現代新書)。

安い古本を買っていると、いつのまにか、増える。
それを充実してきたと思うか、屑の山とみるか(笑)。

板坂元さんは、「基本的な態度」として、
こう指摘されておりました。

「書いた文章を読んでくれる人に対するエチケット
としても、情報収集に執念を燃やすことは、
基本的な態度なのである。」(p166)

今回この新書をパラパラとひらいて
気になったのは『パレトの法則』でした。
そこを引用。

「本といえば、本の整理にもパレトの法則を適用する。
たとえば本を千冊持っている人があるとして、
それをまんべんなく利用する人は絶対にいない。

これも、利用度の高い本は、その中の20パーセント、
つまり二百冊と考えてよい。だから、その二百冊を
身近なところに置いておけば、調べもの書きものは、
いざという時に汗水たらして本の山を引っくりかえす
ようなことはない。・・・・・

読む方も、何十冊読破などというのは、あまり意味がない。
大事な20パーセントを徹底的に読むだけでよい。
あとはパラパラとめくって拾い読みをする。
時間がないときは、パラパラも不必要。

そのかわり、必要な本は、どんなに読みづらく
退屈な本でも、忍耐づよく読み通さねばならない。
多分、読書家といわれる人は、
無意識のうちにパレトの法則を実行している人
ではなかろうか。20パーセントといえば
5冊に1冊、全巻をちゃんと読み通すのは、
たいていの人がその程度どまりだろうと想像する。」
(p141~142)

はい。板坂元氏による
『それをまんべんなく利用する人は絶対にいない』
というご宣託は、わたしにはありがたいなあ。

あとは、気楽に、京都関連の古本を、
これからも、買ってゆくことに。うん。
千冊という数字。これは夢物語(笑)。

ということで、
板坂元著「続考える技術・書く技術」を
また、本棚へともどす。



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父の読経を。

2020-02-13 | 京都
昨日届いた古本は
杉本節子著「京町屋の四季」(展望社)。
本30円+送料300円=330円でした。
帯つき、カバーも本文も真新しい。
ネットオフアマゾン店(愛知県大府市柊山町)
からでした。

写真が、本文のところどころの頁にあります。
「正月仏壇」という写真に、そえられるようにして
語られてゆく文を、ここに引用してみることに。

「元日の朝、西本願寺の門徒である我が家では、
仏間に家族一同が集まり新年の挨拶を交わすのが
しきたりである。

 『子供の頃、お正月て、ほんまに大嫌いやった』

と、苦虫を噛み潰したような顔で言う父に
理由をきくと、早朝6時前には来訪する分家家族を
仏間に迎え入れ、お仏壇を正面に左右に分かれて対面し
『あけましておめでとうございます。旧年中は・・・』
と型通りの挨拶を済ませなくてはならず

このために5時すぎにたたき起こされて、
火鉢すらおかない仏間の冷たい畳に正座させられる
というこの儀式がとても苦痛だったのだ・・・
   ・・・・・・・・
寛保3年(1743)創業の呉服商であった
この家の代々受け継がれてきた
下京の商家としての風習を、
純粋に体験することが出来たのは
父の代までのことになるのだろう。

商売を継がず文学の道を選んだ父は
幼い日の記憶と怠け心も半分あってのことか、
娘三人にはこの慣わしを押しつけようとはしなかった。
本来なら主がまず読経せねばならないのだが、
父の読経を私はいまだきいたことがない。」
(p10~13)

はい。
この「苦虫を噛み潰したような顔で言う」父
というのが、杉本秀太郎。
そして、次女杉本節子さんが、この本の著者。

杉本節子さんは、1965年の京都生まれ。
ちなみに、この方の文章を、どう説明すればよいか?

簡潔という言葉でさえ、ぎょうぎょうしく思えるような、
なめらかな文章。しかも、わたしみたいな読者にも、
襟を正させるような、忘れてしまっていた言葉への、
佇まいを感じさせてくれるのでした。

ちょいと、先祖のことも引用してみます。

「他の門徒のおうちのことはよく知らないけれど、
我が家には年神さんを迎えるという風習はなく
歳徳棚はない。裏白や干柿、昆布などで飾った
お鏡餅もない。
往時、西本願寺の勘定役を仰せつかっていた
という厚い帰依の証(あかし)からか、
商売繁盛を祈る神棚さえ置かず、
無病息災、家内安全も
すべて阿弥陀さまと祖先からの教えを信じ、
心の依りどころとしてきたのだ。
・・・・
時代によって改められたところが随所にある。
一番新しく改正されたのが、
昭和30年(1955)頃のこと・・・・

その時代、当主だった祖父は、婿嗣子として
家業の呉服商を継いだ人である。
江戸半(なかば)すぎから
他国店持(たこくだなもち)京商人と
呼ばれた商売形態で、
主に下総に販路を広げた店であったから、

祖父も当地へおもむくことが多く、
小学生の頃、おじいちゃんと呼ぶその人が、
遠来のお客さんのような印象を孫娘は持ったものだった。

主が留守がちであり、また戦後、時代が激動するさ中、
この家の暮らしぶりも変化を余儀なくされたことが、
けじめやしきたりを稀薄にしていった理由なのだろうと思う。
人の出入りも減り、正月の来客用の重詰も、
いつしか不要のものとなっていた。」(p14~15)

はい。はじまりの文章を引用しました。
本願寺の勘定役と、「下総へ販路を広げ」ということから、
浄土真宗と関東との、つながりについて、
その道筋を思い浮かべてみたくなります。

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職人かたぎ。

2020-02-12 | 先達たち
思い浮んで、長谷川如是閑の文をひらく(笑)。
本棚から出したのは、
井上靖・臼井吉見編「くらしの伝統」(主婦の友社)。
これ古本で300円。「非売品」とあります。
うん。古本で購入すると、非売品とか私家版とか
新刊書店でお目にかからない本を購入できるうれしさ。

目次は「手仕事」「衣・食・住」「四季おりおり」と
おおきく三章にわかれており。解説は樋口清之。

はじめの章「手仕事」の最後は、
 「職人衆昔ばなし  齋藤隆介」とあり、
その本からの引用になっておりました。
そのひとつ前に
 「職人かたぎ  長谷川如是閑」とあり、
25頁の文が引用掲載されておりました。
そこから、適宜引用してゆきます。
そのまえに

  幸田露伴 1867(慶応3)年7月生~1947(昭和22)年7月
  長谷川如是閑 1875(明治8)年11月~1969(昭和44)年11月
  落合太郎 1886年8月~1969年9月 東京生まれ。

という三人の年代を記してから、はじめます。
生島遼一著「春夏秋冬」(冬樹社)に

「私の旧師(落合太郎)は
『おれが一番なりたかったのは大工さんだ』
というのが口癖だった・・・」(p56)

とあり、気になりました。それでもって、
長谷川如是閑の文を読みたくなる(笑)。

「職人かたぎはその本場は江戸だったので、
職人の話というと、主人公はきまって江戸っ子だった。
職人かたぎの伝統は古いが、江戸時代になって、
その生粋(きっすい)の形が江戸ででき上ったのである。」
(p155)

さてっと、長谷川如是閑の『職人かたぎ』は
こうはじまります。

「私は職人でもなく、職人研究の専門家でもないが、
明治の初めに生まれて、日本の職人道が、その伝統の
姿をまだそのまま持ち続けていた明治時代に育ったので、

ことに自分の家が、先祖代々江戸の大工の棟梁だった
というようなことから、書物に出ている職人ではない
本物の職人の間に育った・・・・・

若いうちから、職人の話をするとじきに泣きだす、
といって笑われたものだが、これは職人社会の
実生活が、言葉や文章によってではなく、じかに
私の心にしみ込んでいるせいかもしれない。」
(p134)

これがはじまりです。
う~ん。外国との比較や、職人の貴重なエピソードが
ならぶのですが、残念。そこは省略して、
文の最後に、5頁ほどの「『職人かたぎ』補遺」
から引用します。そのはじまりは

「先月号に載った『職人かたぎ』に書き落とした話を
思い出しているところへ、谷中の五重塔焼失の報を聞いた。
浅草に住み朝夕親しんだ塔だけに、思い出は尽きぬものがある。」
(p153)

うん。江戸っ子と文学がこの補遺にありました。
長くなるけれど引用することに。

「明治文学の初期に職人の文学を書いたのは、
やはり江戸っ子の露伴だった。明治文学の始めは、
江戸時代の戯作本の流れをついだものだったが、
明治の十年代の半ばごろから、いわゆる明治文学が
起こった。その作者はみな江戸っ子だったが、
面白いことには、その明治文学開拓者の第一人者の
坪内逍遥は、江戸っ子ではなく名古屋人だった。
逍遥一人を除いて明治文学の開拓者の全部は江戸っ子だった。
逍遥も子供のころから戯作本に親しんで、18の歳に東京へ出て、
私がその塾に世話になった、30未満の年ごろの逍遥は、
りっぱな、東京言葉と言うよりはむしろ江戸っ子言葉を使っていた。
江戸っ子の私の父から子どものころ聞かされたようなその江戸っ子
言葉をなつかしがった。そのころ地方人には小説が書けなかったのは
人物の会話を東京言葉で書くことができなかったからだ。

その江戸っ子の小説家も、職人をテーマにしたのは露伴だけだった。」
(p156)

はい。補遺の最後の箇所を引用。

「職人とは縁の遠い環境に育った露伴だが、
それはおそらく下町育ちの獲物(賜物?)だったろう。
漱石は同年生まれの江戸っ子だが、山の手育ちなので、
職人の世界には全く無知だったが、しかし
漱石の仕事に打ち込んだ名人かたぎは、
やはり江戸っ子式のそれで、どこかに
職人かたぎに通じるものがあった。
博士号の辞退なぞも、生来の気むずかしや
ばかりのせいでもなかったらしい。
ことに私は朝日新聞の同僚だったので、
いろいろのことを頼んだが、
博士号辞退なぞという気むずかしさは全くなくて、
私はしばしばその社員としての忠実さに打たれたのだった。
そうしてそれが私の空想の職人かたぎに通じる
ものがあるように思われて、うれしかった。」
(p157)

はい。京都からはなれて、
「江戸っ子の職人かたぎ」
の話になりました。





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山本夏彦の幸福。

2020-02-11 | 京都
小池亮一著「魔法使い山本夏彦の知恵」
(東洋経済新報社)が古本で300円。
へ~。山本夏彦関連でこんな本がでていた
なんて知りませんでした。
目次をひらいていたら、
「山本夏彦最高の贈り物『職人衆昔ばなし』」
という箇所があります。

はい。はじまりを引用。

「『あの人たちは、世にも幸福な人たちなんだよ‥』
師匠は、世にもうらやましそうな声でいうのだった。
あれほど、憧憬に満ちた表情もみたことがなかった。
ここで師匠(山本夏彦)がいう『あの人たち』とは、
『職人衆昔ばなし』に登場する職人さんたちのことである。
  ・・・・・・・・・・・
この『職人衆昔ばなし』は、ライター斎藤隆介が
9年間にわたって心血をそそいで『室内』に連載した
聞き書きである。
大工、瓦屋、石屋、庭師、ペンキ屋、指物師、蒔絵師、
表具師、螺鈿師、家具木工、畳屋、椅子張師・・・・
などの名人上手が、ずらりと登場してくる。

・・・編集者は人形使いである。人形使いの腕で、
人形は生きも死にもする。
『職人衆昔ばなし』は、使命感をもった
夏彦人形使いの熱と努力で、百篇以上もの
貴重な聞き書きが残されたのである。
 ・・・・・・
人間の種々相三千世界見通しの山本夏彦が、
唯一の幸福と確信するのは、『手仕事のよろこび』
だけだ。生きてるかぎり、手と頭が動くかぎり、
それがなくなることはない。・・・」
(p139~141)

うん。久しぶりに、山本夏彦を読んだ気分(笑)。

そういえば、山本夏彦に
『最後のひと』(文芸春秋)があったなあ。


それはそれとして、
「関西育ち」の生島遼一著「春夏秋冬』(冬樹社)に
「言葉の論議」と題する5頁ほどのエッセイがありました。
はじまりは

「京の正月。11月末から裏の鴨川に毎朝鷗のむれが来る。
20~30羽、多いときは50羽ほど川面に下りている。
海の鷗より小形でゆりかもめというのだそうだ。
《カムチャッカなどで繁殖し、秋日本に渡来。和歌で名高い
隅田川の「都鳥」はこの鳥という》--広辞苑。」

こうはじまる文なのですが、最後の方で
この関西育ちの生島遼一氏が、東京で
「こんな経験があって忘れられない」と
指摘する場面が書かれておりました。


「若いとき、或る朝東京の下町辺りを歩いていたら、
隣りあう商家の小僧さん二人、掃除しながら
朝のあいさつを交わしていた。まだ十代と思われる
小僧さん同士が礼儀正しい、ととのった言葉を
ごく自然にやりとりしているのに、おどろき、感心した。
美しさを感じた。庶民層と呼ばれる人達の対話、
職人さんや小商人(こあきんど)に使われていた
何気ない簡素で、しかも格調もある表現は、
今日もう消失してしまっているのだろう。

ああいう言葉の機能のほうがむしろ合理的で、
近頃の学者や評論家が乱暴につかう衒学的で
威張りちらす日本語より、美しかったのでないか。

私の旧師は『おれが一番なりたかったのは大工さんだ』
というのが口癖だったが、技術よりそういう人たちの
言葉へのあこがれがあったのかもしれない。」
(~p56)

京都で、出会えそうな『最後のひと』たち。
そんな夢をえがく、『京の夢 大阪の夢』。


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上方なまり的語法。

2020-02-10 | 京都
生島遼一著「春夏秋冬」(冬樹社)函入り。
古本で300円。買ってあって、読まずに
置いてあったのを、だしてくる。

生島遼一氏の本を読むのは、はじめて(笑)。
エッセイなので気楽に買いました。
目次をひらいて、気に入った題のページをひらく。
「言葉の論議」「師弟のこと」「渡り鳥日記」
それに「正月の菓子包み」。
はい。これだけをパラパラ読み。

ちなみに、生島遼一氏は、
明治37年(1904)生まれ。

「正月の菓子包み」から引用。
はじまりは

「私は大阪の町の真ん中で生まれましたが、
そのころ市内の町家生活は、子ども心に何となく
陰気に感じられ、阪神間の郊外に住んでいた
叔父叔母の家ーーそこからは海が近く、
六甲の山並みも見えて、そういう家へ行って
遊び寝泊まりするのが何より楽しみでした。

大阪の実家は、父の勤めで、市内を転転としました
 ・・・・・・
父の仕事の関係で一家が京都へ移ったとき、
母はほっとしたような表情でした。
母もてくてく歩いて東山辺の寺など
好きな所を散歩したり、
年末の顔見世歌舞伎を見るなど、
大阪の生活のころより、顔もだいぶん
のんびりとした表情に変わりました。
戦争中に次男戦死、娘二人病死、
と続いた不幸にもよく耐え、
84歳まで長寿できたのも、
こうした環境の変化が気分を
よくしたのだろうと思います。・・・」
(p217~218)

そういえば、
梅棹忠夫・司馬遼太郎編の
「桑原武夫傳習録」(潮出版社・昭和56年)には、
序文を除いて、本文のはじまりが生島遼一氏でした。
そこからも引用。

「私は桑原と同じ年、大学入学も同年だが・・・
桑原は私に読書指導をしてくれた。
彼は後に教師になって
フランス文学科の学生を教えるときには
『あまり読むな。本ばかり読んでいると阿呆になる』
といつも言ってたらしいが、
学生当時は私に毎日アレを読め、
コレを読めと勧告し、おしつけていた。・・・・

桑原の本(自分のでも、他人のでも)の扱い方は
ひどく乱暴で、私に貸してくれたフランス書も
たいてい表紙がちぎれたり、ページが手垢や
蜜柑汁でよごれていた。旧師の落合先生が
『桑原に本をかすとひどいことしてくるよ』と
苦笑いしていられたことがある。・・・」(p15~16)

生島氏のエッセイにもどると、「師弟のこと」に、

「私がはっきりと師と呼べる人は、この
落合太郎さん一人である。」(p98)
とあるエッセイに、
不思議な言葉がありました。

「私自身、長年教師をしたから、師とは何か、
弟とは何かーーーと度々自問してきた。
冗談まじりに、若い友の一人に
『君たち、先生先生と気安く言っているが、
こわいものだぜ。本当の師なら、
それは悪い病気みたいなものかもしれん。
影響が年をとってから出てくる』
と言ったことがある。」(p99)

はい。『本当の師弟』とは無縁の私です(笑)。
けれども、ここでは、
60歳を過ぎ、京都へ帰った親鸞のことを、
思い浮かべてしまう場面かもしれません。

歎異抄の第二段に

『たとひ法然聖人にすかされまひらせて、
念仏して地獄におちたりとも、さらに
後悔すべからずそふろう。そのゆへは・・』

とあるのでした。

うん。ここで立ち止まると次へと
読みすすめなくなります。

さてっと、それはそうと、
桑原武夫氏が語りそうな、そんな箇所が、
「言葉の議論」と題するエッセイにありました。
最後にそこを引用。

「私は関西育ちで、
話すときは大体標準型の言葉を使っているが、
書くときには無意識に上方なまり的語法が
若干入るらしく、言葉に敏感な東京人の旧師から
よくそのことを注意された。
私は旧師の形のよくととのった日常語や文体に
いつも敬服していたし、
師の戒めを大体守ってきたが、時には
自分の方言的特徴を逆用して書く場合もある。


負けおしみいうようだが、
東京型標準語をけっして絶対視しておらぬ。
地方語的特色であっても、その人の
個性や感性と巧く結びつけば、
良い書き言葉になる、
なった実例もあると確信しているから。
このことは大切なのだ、
文章が月並調にならぬためにも。
・・・」(p55)

この後も、引用したくなるのだけど、
とりとめもなくなるのでこれで(笑)。


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宵々山と宵山に

2020-02-09 | 京都
森浩一著「京都の歴史を足元からさぐる」(学生社)の
「北野・紫野・洛中の巻」でした。

「祇園祭のことを詳しく書くと
それだけで一冊の本になるので、
今回はごく簡単にする。・・」(p254)

はい。森浩一が、簡単にふれた祇園祭が、
どのようなものであったか?
うん。引用するに値すると思いました(笑)。

「1986年7月の中旬は、その当時のぼくとしては
珍しく京都で過せた。宵々山と宵山に連続して
山や鉾を見てまわった。

鯉山まで来ると浴衣姿の少女たち
の唱える声が聞こえてきた。

  鯉山のお守りは
  これよりでます
  常はでません
  こん明晩かぎり
  ご信心のおんかた様は
  受けてお帰りなされましょう
  ろうそく一本献じられましょう

これは1986年7月15日の夜にノートに書きとめた。
三行めの『常』は16日には『明日』と変えるという。

長年京都に住んでいて、この唱和を耳にしたときが、
もっとも京らしさを感じた瞬間だった。

この年以来、7月16日に京都にいるときは、
病気のさなかでも雑踏をかきわけて
鯉山には立寄ることが習慣となった。」
(p255~256)

はい。森浩一氏にとって、
「もっとも京らしさを感じた瞬間」が、
ここに、語られておりました。


ここに、『唱和を耳にしたとき』とありました。うん。
『祇園祭と音』というのは、魅力あるテーマですね。

つぎは、1931年京都生れの杉本秀太郎氏
の『祇園祭の音』を語る場面を引用します。
「生まれてからずっと祇園祭のまん中に住んでいる」
(p265「新編洛中生息」ちくま文庫)

遠回りします。まずは『山』の解説から

「この有名な祭には、『山』と呼ばれるものと、
『鉾』と呼ばれるものと、二種類の祭礼の道具がある。
道具というよりも、これはいずれも神の依りしろである。
山は現在22基、鉾は現在7基をかぞえる・・・・

山とは聞きなれない名かもしれないが、さまざまな人形、
といってもそれが人間をかたどっていることもあれば、
魚や虫であったり、祇園のお社とは無関係な別のお社の
ミニアチュールであったり、さまざまなのだが、とにかく
作り物を、そしてその作り物が神体そのものでもあるのだが、
そういう作り物を飾るための、高い木組みの台のうえには、
松が立てられ、その松の根もとは緋または緑の毛氈を
かけた竹編みのかごで掩われている。それがこんもりとした
山のかたちなのである。だから山という。」(p265~266)

お待ちどうさまでした(笑)
『祇園祭と音』というテーマには
重要で欠かせない文を以下引用。

それは、祭が近づく頃

「祇園囃子の練習開始である。
鉾が組立てられて町家(ちょういえ)
つまり町有の家のまえに立ち、
能舞台のあの橋がかりという構造と
類縁を示す架橋が、町家の二階から
鉾の上層部、囃し手たちが30人余りも乗る
櫓にまで渡されるのは7月10日のことだが、
祇園囃子の練習は、早い鉾町(ほこちょう)では、
もう6月の28日くらいに始まる。

梅雨明けまでに、
まだ幾日もある6月のかたわれどきに、
・・・二階囃子の音が聞こえてくる。
能楽で用いるのとおなじ太笛が、
幽婉とした曲想をかなでて・・・
鯨骨の撞木(しゅもく)を用いて
内がわの縁辺と底とを打叩く中くぼみの鉦が、
余韻のある高い音によって、しめった空気に
緊迫をあたえ、空間を等質に均らし・・・
太鼓が、下方から笛と鉦とを支えながら・・・」

うん。ここからです(笑)。

「祇園囃子といえばコンコンチキチン、
コンチキチンと、人びとは受け取ってしまうが、
二階囃子の練習期間に、祭の音楽の担い手たちが
くりかえし練習するのは、そういうふうに聞こえる
せわしない囃子ではなく・・・・
きわめてゆるやかで荘重な曲である、しかも、単に
一種類ではなく、そういう曲がいくつも、9つあるいは
10ばかり、7基の鉾、3基の曳き山それぞれに
またちがった曲が、それくらいずつ伝えられていて、
演奏には習熟を要する。だから、半月近くも、
毎晩そういうむつかしい曲を、ことさらに練習するのである。

7月17日の山鉾引きまわしの日、
すなわち外向きでは祇園祭の頂点とみえる行列の日、
それらの曲は出鉾囃子と称して、
鉾が四条通りをまっすぐ東へすすむ
数町のあいだにだけ奏される。

そして四条通りのまっすぐ東の
突き当りといえば、八坂神社である。

出鉾囃子は、つまり神楽囃子のように
カミに奉納する音楽であり、また
舞いをともなっている。舞い手は
鉾のうえに乗っている稚児(ちご)である。

『コンコンチキチン、コンチキチン』という
ふうに聞こえる囃子は戻り囃子といって
鉾が八坂神社のある東方へとすすまず、
町かどを折れてしまってから奏される。
すでに戻りにかかっているのだ。
戻り囃子もまた20曲、30曲と曲目があり、
・・・やはりくりかえし練習される。
戻り囃子の速さには・・・・・幅がある。
いずれも、こころせわしい曲だ。」
(~p269)

はい。引用はここまでにします(笑)。
うん。祇園囃子・神楽囃子。
じかに聴いたこともない祇園祭の
音が聴こえてくる『京の夢』。








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祇園祭。

2020-02-08 | 京都
森浩一著「京都の歴史を足元からさぐる」(学生社)の
「北野・紫野・洛中の巻」が届く。
ネットの古本で注文。新風堂書店とあります。
212円+送料350円=562円でした。昨日届く。
帯はないのですが、カバーもページもきれい。
ページをパラパラめくると新刊の手触りです。

うん。このシリーズは、どうやら6冊でているようですが、
他の巻は、編者がいるので、どうやら、ご本人が書かれたのは
この3冊までのような感じをうけました。
うん。わたしはこの3冊で十分です(笑)。


さてっと、この本にこんな指摘がありました。

「祇園祭のことを詳しく書くとそれだけで、
一冊の本になるので、今回はごく簡単にする。
ぼくは長年この祭を見ているうちに
『祇園祭は動く歴史博物館』だと痛感するようになった。」
(p254)

そうか、祇園祭は、取り扱い注意なんですね(笑)。
下手に触れると、底の浅さを見破られる。
かえって、わたしみたいな素人には、気が楽です。
物怖じせずに、とりあげることに。

まずは、「梅棹忠夫の京都案内」(角川選書)。
ここに、「町衆(まちしゅう)の活気」という小見出し
(p20~22)があります。
短いので全文引用したいのはやまやまですが
一部だけ引用します(笑)。

「京都の祭といえば、だれでもきっと祇園祭を
おもいうかべることとおもいます。
ほんとうに活気にみちたはなやかな、
文字どおり日本一のお祭りですが、
あれは、じつは京都の町人のお祭りなのです。

・・近世の町人たち・・その町衆のお祭りなのです。
当時、京都の市中には角倉家、あるいは茶屋家のように、
海外貿易でもうけた大金もちをはじめ、たくさんの
町人がすんでいて、ひじょうないきおいをえてきました。

祇園祭は、そういうあたらしくおこってきた町人階級の
人たちが、自分たちのいきおいをみせるための、
デモ行進のようなものとかんがえればよろしいでしょう。

もちろん、町人のしたには、町人にもなれない
貧乏な人たちがたくさんいたわけですが、
祇園祭の鉾(ほこ)のうえにのって・・・・
はやしているのは、その金もちの町人の旦那衆で、
鉾のつなをひっぱっているのは、
町人にもなれない貧乏な人たちだったのです。
いま、鉾のつなひきには、大学の学生さんたちで、
アルバイトででているひとがおおいようです。

祇園祭の鉾の柱は、海外貿易が禁止になったので、
不要になった貿易船の帆柱を利用したものという
いいつたえがあります。」

うん。この一文を読んでから、
祇園祭の写真を見ていると、どれも、
たしかに、ひっぱり手は大学生らしい
雰囲気の人たちがいるいる(笑)。

うん。ひっぱり手よりも、ここでは
祇園祭の山と鉾に注目。
杉本秀太郎著「新編洛中生息」(ちくま文庫)の
最後の章は「神遊び」となっており、
「祇園祭について」が収められていました。

うん。こちらも、一部だけ引用するのは、
もったいないのですが、しかたない(笑)。

まずは、この文の最後の箇所。

「山も鉾も・・・かつがれ、曳かれるにつれて、
きわめてよく撓(たわ)む。・・・・
山鉾の構造を調べ上げた建築史家、近藤豊氏
によると、釘一本使わずに組立て、毎年きれいに
解体して広くもない収蔵庫におさめ、また翌年に
一から組立ててゆく祇園祭の山鉾の構造は、
一口でいえば『木造組立式、枘(ほぞ)差し、
筋違入(すじかいいり)、縄がらみ』とでもいうべきもので、
『全体的に変形の余裕を残した柔らかな構造』なのだ。
 ・・・・・
山鉾は、すべての装飾をほどこされた祭礼の日の晴れの
姿だけが美しいわけではない。組立の大工が縄がらみに
した木の骨組は、縄目の揃え方、からみの締め方まで、
みごとにととのった一糸乱れぬ縄扱いがほどこされている
ので、装飾布の下を・・・調べてみても、すっきりと、
見る目に快い整合だけしか見当たらないほどである。」
(p278~279)


装飾についての指摘も引用しなきゃ。

「山鉾には、見送(おみおくり)と呼ばれている装飾がある。
巡行のとき、目前をすぎる山鉾を名ごり惜しげに見送ると、
かならず人目に入る後方の装飾布を呼ぶのである。
これの反対がわ、前方の装飾布は前掛(まえがけ)と呼ばれるが、
浄妙山の見送と前掛は、本山善右衛門という人の作品である。
・・・・」(p276)

ここに、杉本秀太郎氏が
「いつも思いうかべる山」が取り上げられています。

「浄妙山という山だ。
治承4年、宇治川の合戦のとき、
源三位頼政の軍中に加わっていた三井寺の
衆徒筒井浄妙が、橋板をすっかり落とした
宇治橋の桁にまたがって奮戦していると、
あとから進み出た一来法師(いちらいほうし)が、
浄妙の頭上をとびこえて敵中に入り、勇名を馳せた。

浄妙山の風流は、一来が浄妙のあたまに左手を突き、
右手に長槍をにぎって、跳馬競技の名手のように
片手倒立回転をしつつある一瞬をとらえたものだ。
 
浄妙と一来の人形二つは、まさに意表を衝く形で
組合っている。浄妙山は人足に担われて烈しく揺れるのだが、
・・・甲冑をまとった人形によって実現した
人形師、金具師、指物師には、かれらそれぞれの・・・
技倆の冴えのほかに、・・しなやかなところが、
おなじ程度にそなわっていたはずである。
撓む技倆、ゆとりをとり合い、遊ぶ間隙をとり合って
いる技倆、そういう技術が浄妙山を・・しあげている。」
(p275~276)
  

はい。祇園祭を紹介するのは楽しいけれど、
わたしはといえば、それを見たことない(笑)。

ちなみに、「梅棹忠夫の京都案内」(角川選書)の
表紙カバーには、都錦織壁掛『山鉾巡行図』が鮮やか。
そして、「新編洛中生息」(ちくま文庫)のp262には
浄妙山の片手倒立回転の写真が臨場感いっぱい。


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親鸞の京都。

2020-02-07 | 京都
「歎異抄」は、以前から読めずにいました。
それなのに、本棚をみると、古本の
ワイド版岩波文庫「歎異抄」が並んでる。
100~200円だと、ついつい買って4冊(笑)。


さてっと、歎異抄は、最初から読もうとすると、
わたしには、歯が立たない。うん。うしろから、
読み始めればいいのかと、最近思いました。

そこに、京都で法然上人といた頃の
親鸞と上人の姿がありました。
ここでは、増谷文雄訳で

「法然上人のころ、
お弟子のおおぜいいたなかにも、
おなじ信心のものは少なかったのであろうか。

親鸞は、仲間のあいだで、
議論をしたことがあったという。その理由は、

『善信(親鸞)の信心も、
上人(法然)の御信心も、ひとつである』

といったところ、勢観房、念仏房などという同輩たちが、
『もってのほか』と言いあらそい、
『どうして善信房の信心が上人の御信心とひとしかろうか』
ということであった。それで、親鸞は、

『もしわたしが、上人の広大な智慧、学才に
ひとしいといったら、けしからぬことであろうが、
往生の信心においては、まったく異なるところはない。
ただひとつである。』
と返答した。

それでも、なお、『どうしてそんな訳があろうか』
という疑問、論難があって、結局のところ、
上人のまえで、いずれが正しいかを決めよう
ということになり、事の詳細を申しあげた。
ところが法然上人の仰せは、

『源空(法然)の信心も如来からいただいた信心である。
善信房の信心も如来からたまわった信心である。
だから、ただひとつである。
別の信心であられる人は、おそらくは、
源空がまいるであろう浄土へはまいるまい』

ということであった。・・・・」


文庫「歎異抄」の、いちばん最後には、
釈蓮如御判として「親鸞の流罪の記録」があり、
その記録について、岩波文庫では
「この親鸞の流罪の記録は、何の為に付記せられたかは
明らかでない。写本の中には、この付記のないものもある
のである。今は定本に順うて編入した。」とあります。

では、その記録を一部引用してみます。
京都からの流罪の記録です。

「法然聖人、ならびに御弟子七人流罪。
また御弟子四人死罪にをこなわるるなり

聖人は土佐国番田という所へ流罪・・生年76歳なり
親鸞は越後国・・生年35歳なり
  ・・・・・・・・・       」

これが、法然上人との最後の別れとなりました。
関東から京都へもどるのは、親鸞の60歳頃です。

増谷文雄氏は対談で、親鸞の京都を語っております。

「迷いですね。それが京都に帰ってからは、
もう露迷っておりませんな。そういう意味で、
私は・・・親鸞の絶頂は京都だと思うのですよ。

京都に帰られて・・・70を越してからの親鸞が
われわれの親鸞だという感じがしますね。
それが『歎異抄』に出ておる親鸞でしょう。」
(「日本の思想」第3巻親鸞集別冊対談・筑摩書房)

うん。ここまできたので、
増谷文雄氏の「親鸞の思想」のはじまりの箇所を引用。

「いま親鸞の思想という課題をまえにして、
じっと眼をとじて心のなかに描きだすその人の
イメージは、いつものように、また老いたる親鸞
のすがたである。・・・・・

たとえば、わたしもまた好んで『歎異抄』を読む。
繰りかえし繰りかえしして読む。その時、その中で、
あの鋭いことばをもって、わたしに語りかけてくる
親鸞は、すでに老いたるその人である。・・・・・・

さらにいえば・・・『三帖和讃』すなわち、
『浄土和讃』、『浄土高僧和讃』、ならびに、『正像末法和讃』
の三部作に着手したのも、関東の伝道をおえて、
京都に帰ってから十年も経ってからのこと。
もっと正確にいえば、『浄土和讃』と『浄土高僧和讃』が
成立したのは、その76歳の春のこと。
『正像末法和讃』をしたためおわったのは、
もう86歳の秋のおわりのことであった。

親鸞の伝記『御伝鈔』を制作した覚如(本願寺第三代)の
筆は、京都に帰ってからの親鸞をつぎのように記している。

『聖人故郷に帰って往事をおもふに、
年々歳々夢のごとし。幻のごとし。
長安洛陽(京都)の栖(すみか)も・・・
扶風(右京)、馮翊(左京)ところどころに
移住したまひき。五条西洞院わたり・・
しばらく居をしめたまふ』

それは、かなり修飾された文章であるが、
なお、京都におけるその人の晩年の生活を
うかがわしめるに足りる。それは、その居さえも
定まらぬ飄々たる隠棲の生活であったにちがいない。
・・・・・・

この隠棲の人は、それからさらに30年にちかい
年月を生きつづけ・・・その隠棲のなかにあって、
あるいは、関東からはるばる訪ねてきたった人々
にむかって懇々と説いたことば、あるいは、
関東から問いの書状に心をこめて書きおくった書簡、
あるいは、無智文盲の彼らのためにと、老眼を
しばたたきながら筆をとった『和讃』や、『文意(もんい)』
と称せられる短文など。それらが、いつのまにか、
この隠棲の人をして、計らずして、すぐれた大きな
仕事を果たさしめていたのである。・・・・」
(「日本の思想」3。親鸞集p3~4)

はい。親鸞の京都。ここからなら、
親鸞の本に、少しでも近づけるような気がする。
このルートなら、チャレンジできるかもしれない。





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京都の歴史の面白さ。

2020-02-06 | 京都
森浩一著「京都の歴史を足元からさぐる」(学生社)。
うん。その「洛北・上京・山科の巻」を手にして、
数行読んで、気になり、「洛東の巻」を古本で注文。
それが今日届く。ネットの日本の古本屋で注文。
一心堂書店(神田神保町)1100円+送料350円=1450円。
帯もありカバーもきれい。埃もシミもなし。新刊同様です。

はい。さっそく紹介しなくちゃね(笑)。
「はじめに」に、この言葉があります。

「ぼくがこの本で書こうとするのは
京都の歴史の面白さであって、
文化財の解説の羅列ではない。」

2007年5月とあります。
はじめにから、もう少し引用。

「いま78歳の半ばにきている。・・・
5年ほどまえから腎臓と心臓を悪くし、
人工透析をうけ胸にはペースメーカーを
いれながらの生活になり、病院で過ごす
時間が多くなった。そのため遠方への旅が
しづらくなり、あとのこされた日々も
あまりないと覚悟するようになった。

旅がしにくく、それと若いときのようには
山野を跋渉して遺跡を見て廻ることは無理
になった。そのような制約があるなかで
出来ることとは何か。のこされた時間を
集中するにふさわしいことは何かを模索した。

ふと気がつくと『京都の歴史を足元からさぐる』
ことがのこされている。このことは地域史の総集
としてもやっておくべきことになりそうである。」

「今回の探訪では妻の淑子がすべてに同道してくれた。
同道というより傍目には介護の人がついてきていると
うつったことだろう。・・・・・

読者一人一人が自分なりに足元から歴史をさぐることを
続けると、日本人に生れたことの生きがいを噛締める
ことになるだろう。・・・・」

ここまでくれば、
本文のはじまりを引用しておきます(笑)。

「ぼくは昭和41年(1966)8月に、大阪の狭山
(当時は南河内郡)から京都市へ転居した。
京都のマチ(以下京都と略す)の住人になってから、
この夏で41年めになる。

京都に住みだす以前から、ぼくと京都の関係は始まっていた。
敗戦の翌日(昭和21年)4月に同志社大学予科に入学した。
入学試験の前日、丸太町の旅館に泊まったのをおぼえている。
京都には当時の家があった狭山から電車で通学した。
毎朝5時台の電車に乗るのだから、ぼくはたいへんだったし
弁当を作ってくれる母もたいへんだった。

その頃の同志社大学予科では、明治18年に定礎の
おこなわれた煉瓦造りの有終館でたいていの授業をうけた。
・・・このようにして京都との関係ができるようになって
60年はたつ。京都はぼくの人生にとってもっとも
関係の深い土地となり、長年のあいだマチを歩くうちに
感じとったり考えたりした歴史についての話題は
たくさん溜まってしまった。・・・」(p12)

はい。こうして「京都の歴史の面白さ」が
語り始められてゆくのでした。

はい。わたしは、これで満腹。
先を、読めそうにありません。

「京都の歴史の面白さ」。だんだんと、
その先達に出会えた気がしてきました。


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京都の足元。

2020-02-05 | 京都
昨日古本届く。
森浩一著「京都の歴史を足元からさぐる」(学生社・2008年)。
副題は、「洛北・上京・山科の巻」。
はい。ありがたいことに、古本300円。

私は、森浩一氏を読むのは、はじめて。
カバーにある著者略歴には、

「1928年大阪府に生まる。
同志社大学大学院修士課程修了。考古学者。
同志社大学教授を経て、現在、同大学名誉教授
・・・・」
2013年8月に亡くなっておられます。
さて、この古本の巻が出来た2008年には
「はじめに」によると
「ぼくはあと数カ月で満80歳になる。」とあります。
そのすこしあとに
「あまり言いたくはないことだが、
五年来ぼくは定期的に病院通いを
余儀なくされていて、それにかなりの
時間がとられている。」

うん。「はじめに」は4頁です。
丁寧に引用したくなるのですが、
ここでは、カット(笑)。
でも、惜しいので、「はじめに」の
最後の方を引用することに。

「今回の執筆を通して、
すでに高齢者といってよい自分が、
いままで知らなかったことの多さに
驚くとともに・・・・大袈裟にいえば、
日々『発見』の連続である。・・・・・・
つい執筆の手をやすめて、
書斎から階段を下りて居間にいる妻に
その『発見』を早く伝えたくなる。

読者もぼくが味わった『発見』の
楽しさを共感してもらえるならば
嬉しいことである。とにかく
ここでいう『発見』は、
古典や研究書を読み現地を訪れる
ことによって身につけることができるのである。」
(p3)

うん。わたしは、この「はじめに」でお腹が一杯。
それでも、少し本文から引用しておきます。
目次をめくると、「大原と大原女」とあるので、
どんな発見があるのかと、
ここでも、すこし長めの引用してみます。

「同志社大学に勤めていたころ、
花をいっぱい積んだ車をひく
大原女(おはらめ)をときどきみかけた。

大学のある上京は室町時代に足利義満の
室町殿(花の御所)と相国寺(しょうこくじ)があって、
その周辺にひらけた町である。
町のあちこちから西陣の下請けの機(はた)を織る
音が聞こえてきたり、店先に木や草の根を干す
染料問屋などがあって、昔の面影がただよっていた。

大原女は頭に手拭をかぶり藍染の着物に前掛を垂らし、
腕には手甲をはめ足には脚絆の姿で全身を日光から
防御していた。足元は白足袋だが、
草鞋はもう見られず運動靴だった。

日本画家の浅井忠や土田麦僊が描いた『大原女』の
姿よりは少し変わっていたように記憶する。それでも、
『花いりまへんか』を繰り返す声がまだ耳にのこっている。 

ぼくが見た大原女は花を商っていたが、
家庭用のガスや電気が普及する以前は、
大原で産する炭、薪、柴を商うことが多かったようだ。
タキギ(マキ)は材木を切ったり割ったりした燃料、
シバはすぐ火のつきやすい小枝を束ねた燃料、
ちょっとした調理にはシバを使ったが
風呂はタキギを使った。

タキギやシバを軽視してはいけない。
古代には天皇や豪族に、支配下の者は
毎年タキギを貢納する義務と慣習があったし、
炭、薪、柴の産出は山村や島の重要な
収入源だったのである。

大原女の活躍は古く、すでに鎌倉時代の
歌人藤原定家の自選の『拾遺愚草』で
京へ商いに来た大原女が家路を
急ぐ姿をよんでいる。

 秋の日に 都をいそぐ 賤(しず)の女(め)の
      帰るほどなき 大原の里

ぼくの知っている大原女は車を使っていたが、
昔は一人が持てるだけの柴を頭の上にのせて
売り歩いていたのである。頭上運搬だが、それに
くわえて馬にも柴をになわせて曳くこともあった。

大原は小原とも書き、
八瀬以北の高野川上流の地域である。
大原女は『おはらめ』と発音するのは
本来は小原女であったからであろう。
享和2年(1802)に京都に24日間滞在した江戸の
文人滝沢馬琴は『羇旅漫録(きりょまんろく)』で
『見てうれしきもの。八瀬大原の黒木うり』をあげている。
黒木はタキギをいぶして火のつきをよくしたものという。」
(p40~41)

うん。浅井忠画「大原女」の写真が、p41と、
ちらりと表紙カバーにも使われていました。








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仁和寺と方丈記・徒然草。

2020-02-04 | 京都
仁和寺(京都市右京区御室)といえば、
方丈記にも、徒然草にも登場するので、
行ったことはなくても、身近な感じがします。

ということで、
方丈記・徒然草の仁和寺について、
二冊の古典を並べてみることに。

まずは、方丈記。
仁和寺の隆暁法印(りゅうげうほふいん)。

「隆暁は、『方丈記』全体の中で、同時代人としては
唯一名前の明記された人物である」
(p114・浅見和彦「方丈記」ちくま学芸文庫)

その時代はというと、
1181年から大飢饉が続き、無数の死体が町に溢れます。
ここは原文を

「仁和寺に隆暁法印といふ人、
かくしつつ、数も知らず、死ぬる事をかなしみて、
その首(かうべ)の見ゆるごとに、
額(ひたい)に阿字(あじ)を書きて、
縁を結ばしむるわざをなんせられける。

人数を知らむとて、四、五両月をかぞえたりければ、
京のうち、一条よりは南、九条より北、
京極よりは西、朱雀よりは東の、道のほとりなる頭(かしら)、
すべて四万二千三百余りなんありける。

いはむや、その前後に死ぬるもの多く、
また、河原、白河、西の京、もろもろの辺地(へんぢ)など
を加へていはば、際限もあるべからず。
・・・・・・ 」

浅見和彦氏の解説には、比べながら、
嵯峨本『方丈記』の、同箇所の記載をしております。
そこを引用。

「 仁和寺に隆暁法印といふ人、
かくしつつかずしらず死ぬる事を悲みて、
聖を余多(あまた)かたらひつつ、
其死首の見ゆる毎に阿字を書きて、
縁に結ばしむるわざをなむせられける。」

そのあとに、長明の行動を指摘しておりました。

「安元の大火の折も、福原遷都の折も、
長明は事あるごとに現地へ赴き、その様子を
正確に書きとめてくる。今回もそれこそ
左京の全域を虱潰(しらみつぶ)しに数え回ったのであろう。
・・・・・長明の行動力は特記するに十分値しよう。」
(~p114)

はい。ここまでにして、つぎは徒然草。

小学館の「日本古典をよむ 14」(2007年)は
「方丈記・徒然草・歎異抄」の3冊がまとまった
入門書になっておりました。これも古本で購入。
写真もはいっていて、ゆったりした配分で
読みやすいと、今回手にしました。
この本の最後の解説から引用します。

「『徒然草』の作者兼好は、弘安六年(1283)頃、
朝廷に代々神祇官(じんぎかん)として仕えた
卜部(うらべ)家の分家に生まれた。」(p311)

「没後は定かではないが、少なくとも
観応三年(1352)70歳頃までは
生存が確かめられる。」

こうして、吉田兼好の年代がわかりました(笑)。
節分でお馴染みの吉田神社にかかわる記述もあります。

「江戸時代に入ると・・・・
『吉田兼好』の俗称がはじまったのは、このころである。
兼好に付された『吉田』姓は、兼好没後に卜部氏が
吉田神社に仕えて吉田姓を名乗ったことによるもので、
正式には兼好の姓ではない。
『徒然草』は江戸時代を通して武士や町人まで
幅広い層に受け入れられ、以降、日本を代表する
古典として知られるようになった。」(p313)

もどって、隆暁法印の時代から100年後に
兼好は生まれていたことになります。
兼好の時代の仁和寺の僧のことを
書きとめておいてくれておりました。

はい。ここはこの小学館の本から引用します。
第52段「仁和寺にある法師」と
第53段「是も仁和寺の法師」。

ちなみに、第52段は最後に
「少しのことにも、先達(せんだち)はあらまほしき事なり。」
とある有名な文。以前に、このブログでも
引用したことがあるような気がするので省略。

今回は、第53段を紹介。

「これも仁和寺の法師の話だが、
稚児が一人前の僧になろうとする、
その名残(なごり)だといって、
みんなで遊ぶことがあった。
そのとき一人の法師が酒に酔って
興にのりすぎた結果、そばにあった
足鼎(三つ足、耳二つの金属製器具)を
取って頭に・・・顔を差しこんで舞って出たところ、
一座の者がみな、このうえなくおもしろがった。

しばらく舞を舞ったあとで、
足鼎(あしかなえ)を引き抜こうとすると、
いっこうに抜けない。酒宴も興ざめになって、
どうしたものかと・・・あれこれして・・・
どうしようもなくて、三本足の鼎の角の上に
帷子(かたびら)をかぶせて、手を引き杖をつかせて、
京都にいる医師のもとへ連れて行った、その道々、
人が何であろうかとひどく怪しんで見た。

・・また仁和寺へ帰って、親しい者や老いた母などが、
枕もとに寄って泣き悲しむけれど・・・

そうこうしているうちに、ある者が言うには、
『たとい耳や鼻は切れてなくなっても、
命だけはどうして助からないことがあろうか。
このうえはただ、うんと力を入れて引っぱりなさい』
と言うので・・・引っぱったところ、
耳も鼻も欠けて穴があきはしたものの、
やっと鼎は抜けたのだった。
法師は、あぶない命を拾って、
長い間、患っていたということだ。」

はい。仁和寺といえば、
方丈記と徒然草が思い浮かびます。
江戸時代は、町人にも徒然草が読まれた
ということですから、仁和寺はひろく
庶民にも知られていたのでしょうね。
そんなことを、つい思います。
















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そのゆへは。

2020-02-03 | 京都
岩波文庫の「歎異抄」は、金子大栄校注。
本をひらくと、解題からはじまっております。
そこから、はじまりを引用。

「この書は親鸞の語録を本(もと)とし、
それによって親鸞の死後に現われた異説を歎きつつ、
親鸞の正意を伝えようとしたものである。
作者は・・・唯円(ゆいえん)であるということが
ほぼ定説となっている。
 ・・・・・
作者はまた晩年に京都に帰った親鸞を慕い
同友と共に、はるばると東国から上洛して、
法を聞いたものに違いない。・・・・・
されば親鸞に『おのおの十余ケ国のさかひをこえて、
身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ
御こころざし』(第二章)と迎えられた弟子たちの中に、
作者もいたのであろう。
この書に出づる親鸞の言葉は、
その上洛の際に聞いたことで、
ことに深い感銘をうけたものを
記録したものであると思われる。

したがって作者唯円は親鸞の東国にあった頃
の門弟であるとしても、必ずしも長老格の人ではなく、
晩年に京都にあった親鸞に親しみの多かったものであろう。」
(p5~6)

さてっと、増谷文雄氏は、その「歎異抄」に
関して、面白い視点を提供してくれております。
それを紹介。

増谷氏は親鸞を理屈っぽい人であったに
ちがいないと見当をつけて、ある機会に
「真宗のさる高名の学人に」聞いてみたことを
書き残してくれております。

「---そんなわたしの問いにたいして、
その学人は、じっと天井を見詰めながら、
なにか口のなかで呟きはじめた。
じっと耳をすませて聞いてみると、

『弥陀の誓願不思議にたすけまいらせて・・・』
と、『歎異抄』の第一段を暗誦しているのである。
その暗誦がすすんで、まもなく、

『弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばず、
ただ信心を要とすとしるべし。そのゆへは』
という条(くだり)までくると、

今度は、わたしの方をむいて、もう一度、
『そのゆへは』と力をこめて繰り返された。

つづいて、第二段の暗誦である。
今度はすこし長いのであるが、

『たとひ法然聖人にすかされまひらせて、
念仏して地獄におちたりとも、さらに
後悔すべからずさふらふ。そのゆへは』

と力づよい復誦であった。
わたしは、自分の不勉強をはじた。
そして、家に帰るとすぐ『歎異抄』を
とりだして、もう一度読んでみた。
すると、第三段にも『そのゆへは』がある。
第五段にも、第六段にも『そのゆへは』がある。
さらに、第七段では『そのいはれいかんとなれば』
であり、第九段では『よくよく案じみれば』である。

よく知られているように、 
『歎異抄』はその第十段の前半までが、
親鸞のことばを直接法で記したものである。
かつ、唯円の筆はよく親鸞の語調をそのままに
保っていると考えられる。しかるに、
その十段のほとんどすべてが、それぞれの
理由の追求を語っているということは、
まったく驚き入ったことであった。」
(p22~23)

これは、筑摩書房「日本の思想」の
第3巻親鸞集にありました。
このあとには
「しかるに、親鸞のことばのなかには、
また、しばしば、人々の論理的追求を
否定するかに思われることばが見出される。」
という別の流れになってゆくのですが、
わたしは『さる高名の学人の話し』だけで、
もう満腹です。

さてっと、晩年の親鸞と京都ということで
別の本を引用。

「親鸞の教えは、大衆の幅広い共感をよんで
東国一円に広まった。旧体制は念仏を再三禁じたが、
親鸞は禁止されると、次の土地へ移っては布教をつづけた。

彼が家族をつれて京都へ帰ったのは、
もう六十を過ぎてからだ。二十年ぶりのふるさとである。
親鸞が帰京しなかったのは、京都で念仏が禁じられて
いたこと(貞応の禁止)。すでに法然の墓まであばかれ、
高弟の流されいていた(嘉禄の法難)こと。
そして、法然が生前
『一辺地のいなかほど、念仏布教の必要性がある』
と説いてくれたためだ。

京へ帰った親鸞は、自分の寺を建てなかった。
師の遺志をついで吉水の山房を布教の本拠にした。
しかし、そこでも彼は衆生救済のための祈とうや読経、
父母のための念仏さえ唱えなかった。

大寺院やガランでは衆生を救えない。
信仰は決して他人が押しつけるものではない。
自らが弥陀如来の本願を信じ、
念仏をとなえてこそ救われるものだ、
という確信からであろう。

彼の京都での晩年は、決して幸福ではなかった。
経済生活も東国の門弟から細々とつづく『志納』で
ささえられ、ついには同行した家族も四散してしまう。

親鸞が八十三歳のとき、
また旧体制の念仏弾圧(鎌倉訴訟事件)が行なわれた。
親鸞の長男である善鸞は、
この弾圧で親鸞教が滅ぶのをうれい、
真言修験道を念仏にとり入れて、
教義の維持発展をはかろうとした。
これは父から見れば、明らかに
旧体制への妥協であり、信仰の道にそむくものだった。
親鸞は長男を破門した。
1262年(弘長2年)、親鸞は九十歳で死んだが、
彼のような傑僧にも、やはり親子の
断絶はさけられなかったようだ。・・・」
(p9~10・「乱世の実力者たち」京都新聞社)





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吉田らしいなあ。

2020-02-02 | 道しるべ
副題が、「吉田昌郎と福島第一原発の500日」。
題名は、「死の淵を見た男」(PHP・2012年)。
著者は、門田隆将。

最近ユーチューブで、門田隆将さんが出演されてる、
たしか、「怒れるスリーメン」だったかでした。
そこで、今年3月に、その吉田昌郎氏を主人公にして
この門田さんの本を下敷きとした映画が封切られる
とのことでした。

うん。田舎に住んでいるので、
映画は見に行かないだろうなあ。
そう思いながら、
本棚からその本を取り出す。

映画はたぶん見にいけないだろうなあ。
それでも、ひとつ、気になることがある。

映画なかの、免震重要棟に、吉田氏の
座右の書が、置かれているかどうか?
それが、なんだか気になる(笑)。

門田隆将著「死の淵を見た男」の本の中の、
最後の方に、吉田氏の奥さんから聞いた話が
出てくるのでした。そこに、こんな箇所。

「確かに夫は・・・若い頃から宗教書を読み漁り、
禅宗の道元の手になる『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』
を座右の書にしていた。あの免震重要棟にすら、
その書を持ち込んでいたほどだ。・・・
夫は、お寺まわりが趣味で、いつも
生と死を考えていた。そう考えると、
あの事故に夫が立ち向かったのも、
それが『運命』だったような
気がしてならないのである。」(p345)

私は、その映画を見ないかもしれないけれど、
そして、見ない確率は高いのだけれど、
本からの引用なら、すぐにできる(笑)。
ということで、そのあとも、引用しておきます。

「大阪生まれの吉田は、中学、高校を
大阪教育大学付属天王寺校舎で学び、
東工大に進んでいる。
中学、高校時代は剣道部で過ごした。
父親は小さな広告会社を経営しており、
吉田は一人っ子である。」

「奈良市で寺院の住職を務めている杉浦弘道は、
吉田と高校二年、三年と同じクラスだった。・・・

『・・・・たぶん高二の時だったと思いますが、
私は吉田に【おまえ、般若心経を知ってるか】と
言われましてね。私はお寺の息子でありましたが、
当時、それに背を向けていた人間だったんです。
だから、お経など何も知らなかったんですけど、
ある日突然、【杉浦、おまえ、家が寺なんやろ。
それぐらい覚えとかな】って言われましてね。
いきなり、彼に般若心経を教えられたんですよ。
彼は、般若心経をそらで覚えてて、
私の前でスラスラと披露してくれました。
びっくりしましたよ。高二ですからね。・・・』

杉浦がこのことを思いだしたのは、
吉田が震災の一年五か月後、
2012年8月に福島市で開かれた
シンポジウムにビデオ出演した際、
現場に入っていく部下たちのことを、

【 私が昔から読んでいる法華経の中に登場する
〈地面から湧いて出る地涌(じゆ)菩薩〉のイメージを、
すさまじい地獄みたいな状態の中で感じた 】

と語ったことだ。
これをネットで知った杉浦はこの時、
ああ、吉田らしいなあ、と思ったという。

『・・吉田なら、
命をかけて事態の収拾に向かっていく部下たちを見て、
そう思うだろうなあ、と思ったんですよ。
吉田の〈菩薩〉の表現がよくわかるんです。
部下たちが、疲労困憊のもとで帰って来て、
再びまた、事態を収拾するために、
疲れを忘れて出て行く状態ですもんね。

吉田の言う〈菩薩〉とは、
法華経の真理を説くために、お釈迦さまから託されて、
大地の底から湧き出した無数の菩薩の姿を指している
と思うんですが、その必死の状況というのが、まさしく、
菩薩が湧き上がって不撓不屈の精神力をもって惨事に
立ち向かっていく姿に見えたのだと思います。

そりゃもう凄いなあ、と思いましたねえ。
部下の姿を吉田ならそう捉えたと思います。
ああ、これは、まさしく吉田の言葉だなあ、
と思ったし、信頼する部下への吉田の心からの
思いやりと優しさを感じました』」(~p348)


はい。私に、忘れられない言葉として、
ときに、この場面がおもいだされます。

3月に封切られる、その映画のなかで、
正法眼蔵が、免震重要棟に置かれて、
いるかどうか、それが気になる(笑)。




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墨染の衣。灰色の袈裟。

2020-02-01 | 京都
京わらべ歌に登場する、
カンカン坊主 カン坊主。
高橋美智子さんが指摘する
この言葉が印象に残ります。

「凍てつく朝・・・坊さんたち・・
寒中托鉢は、厳しい京の冬の街角に、
何よりもぴったり似合う光景だと思います。
黒染めの衣に素足にわらじばき、
真っ赤になった指先・・・」(p24~25・
「四季の京わらべ歌 あんなのかぼちゃ」)

現在、「寒中托鉢」はどうなっているのか?
気になっておりました(笑)。

そこで古本のお世話になります。
「京の祭と行事365日」(淡交社・2018年)。
一年の年間行事を網羅した一冊。
各行事に、写真と解説がつきます。
写真は星野佑佳。淡交社編集局編。

うん。星野さんの写真がいいなあ。紹介文に、
星野祐佳(ほしのゆか)京都市生まれ、とあります。
もうちょっと引用。

「同志社大学法学部卒業。2000年から海外や
日本全国を旅しながら、自然風景などの撮影を始める。
2005年からは地元である京都の風景や祭・風物詩の
撮影も手掛けている。・・・」

さて、この本。一年間の京都の行事が目白押し。
1月からはじまって、一頁に各日の行事を写真入りと
解説で網羅しておりました。
とりあえず、1月のなかにありました。
24日「念仏行脚」西光寺・光明寺。
短い説明を全文引用。

「念仏を唱えれば誰でも往生できると
説いた法然上人に多くの民衆が救い
を求めるも、それに危機感を抱いた
他教団から弾圧を受けた浄土宗。

墨染めの衣と灰色の袈裟で
生涯を過ごした法然上人にならい、
黒衣をまとった僧たちが西光寺から
長岡京市の光明寺までの約15㎞の
道のりを歩く『念仏行脚』は、教えを
守り続けてきた先人たちの艱難辛苦
を心に刻む行事。」(p49)

さてっと、星野さんの写真は
坊さんの姿を写していて、ありがたい。
墨染めの衣と灰色の袈裟はそのまま、
足を見ると、底がゴムでコハゼが多く
かかとの下までありそうな、白足袋を
履いています。そう神輿などの祭足袋
が思い浮かびます。
笠には「仏教大学」の文字。
うん。どうやら大学の学生のようです。
中には、円筒型の小田原ちょうちんを
弓張にして持つ人が二人。
提灯にも、「仏教大学」の文字。
提灯をもたない人は、手をあわせて、
拝む姿で歩いています。
白い手甲が、白足袋とともに鮮やか。

はい。各ページの写真は、それぞれの
京都の一面を見せて語ってくれます。
さりげなく、しかも、豊かな京都です。

ちなみに、
素足にワラジといえば、
曹洞宗の修行を思い浮かべます。
テレビで拝見したことがあります。
こちらは、京都ではなかった(笑)。





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