先日、以下のようなニュースがありました。
ソンミ村虐殺、元中尉「41年後の謝罪」
ベトナム戦争中の1968年、米兵が南ベトナム(当時)の一般住民500人以上を殺害した「ソンミ村事件」で、ただ一人有罪となった米陸軍元中尉のウィリアム・カリー氏(66)が仮釈放後初めて、ジョージア州コロンバスの小集会で当時を語り、「41年後の謝罪」をした。
カリー氏は19日、友人の招きに応じ、約50人が参加した奉仕活動団体の昼食会に出席。冒頭、「良心の呵責(かしゃく)を感じない日は一日もなかった。殺されたベトナム人とその家族、巻き込まれた米国人とその家族に対し、良心の呵責を感じている。申し訳ない」と述べた。
米メディアが事件を暴露した後の70年、カリー氏ら14人が訴追された。同氏は軍事裁判で「上官の命令に従っただけ」と主張したが終身刑となり、上官は無罪だった。ニクソン大統領が減刑し、3年半で仮釈放されて以来、カリー氏はマスコミの取材に応じていなかった。なぜ41年後の今、重い口を開いたのかは不明だ。
(2009年8月22日21時52分 読売新聞)
「ソンミ事件」とは、1968年3月16日、ベトナム戦争当時、南ベトナムに展開していたするアメリカ陸軍・第20歩兵連隊第1大隊C中隊の、ウィリアム・カリー中尉率いる第1小隊が、南ベトナム・クアンガイ省ソンミ村ミライ集落(省都クアンガイの北東13km 人口507)を襲撃し、無抵抗の村民504人(男149人、妊婦を含む女183人、乳幼児を含む子ども173人)を機関銃の無差別乱射で虐殺した事件です。集落は壊滅状態となった(3人が奇跡的に難を逃れ、2008年現在も生存している。最高齢者は事件当時43歳)。
当初は村民に対する虐殺ではなく「南ベトナム解放民族戦線のゲリラ部隊との戦い」という虚偽の報告がなされたが、翌年12月にシーモア・ハーシュが『ザ・ニューヨーカー』で真相を報じ、アメリカ軍の歴史に残る大虐殺事件が明らかになった。この大虐殺事件は、現場に居合わせた複数のアメリカ軍兵士から軍上層部に報告されていたものの、軍上層部は、世論を反戦の方向へ導く可能性が高いことなどから事件を隠蔽し続けた。
なお、1970年に開かれた軍事法廷でこの虐殺に関与した兵士14人が殺人罪で起訴されたものの、1971年3月29日に下った判決ではカリーに終身刑が言い渡されただけで、残りの13人は証拠不十分で無罪となった。また、カリー自身もその後10年の懲役刑に減刑された上、3年後の1974年3月には仮釈放される。陸軍のこの不可解な処置は世界中から大きな非難を浴びた。
虐殺計画は掃討作戦決行の前夜に決定された既定事項で、C中隊指揮官のアーネスト・メディナ大尉が主張したものであるという。(以上、wikipediaによる)
新聞記事は、その当事者がソンミ事件について謝罪したというものでした。
ここでの問題点は、①事件の事実が軍の上層部によって隠蔽されたということ。②虐殺に関わったとされる者が証拠不十分で無罪、指揮官のみ(実際にはもっと上層部の関与が疑われるにもかかわらず)刑に服したこと。等があげられます。
そもそも「事件」という言い方自体が「犯罪」「不法性」を示す表現で、また、「不法」にも殺された者の人数の多寡によって、「虐殺」か否かが問われるわけではありません。
1937(昭和12)年12月13日、日本軍による南京陥落直後に始まった、「大規模な略奪、婦女暴行、一般市民の虐殺、捕虜の集団処刑、成年男子の強制連行が南京を恐怖の町と化してしまった」事件(12月17日付、ニューヨークタイムス・ダーディン記者のレポート)。これが、いわゆる「南京事件」が最初に報道されたときの内容です。
しかし、このことは、当時の日本国民には知らされるはずもなく、国内では、「南京陥落」の祝勝ムード一色になっていました。
この「事件」が「南京(虐殺)事件」として明らかになったのは、戦後、東京裁判と南京法廷においてでした。
その後、1970年代に入って、この「事件」を巡っての論争が激しくなります。「大虐殺」(30万とも)が行われたという主張とそれに反対する「まぼろし」派、中間派など、当時の教科書検定ともからんで、マスコミを巻き込んで取り上げられるようになっていきました。これには、中国の対日姿勢、日本の対中政策とも密接に、国際問題・政治問題化されていくのです。
筆者は、そうした論争を検証しながら、当時の日本軍の戦闘詳報、陣中日誌、参戦指揮官・兵士たちの日記などの多くの資料を駆使して、事件の実態、すなわち虐殺の構造、どうしてこのような「事件」(虐殺)が起こったのかという根本に迫っています。被害者数について、筆者は、中間派の立場から、様々な資料をもとに4万人ととらえています。
さらに、「南京『大』虐殺はなかった」と言い張る人々、中国政府が堅持する「30万人」や「40万人」という象徴的な数字にこだわる人々への批判をしつつも、「数字の幅に諸論があるとはいえ、南京での日本軍による大量の『虐殺』と各種の非行事件が起きたのは動かせぬ事実であり、筆者も同じ日本人の一人として、中国国民に心からお詫びしたい。そして、この認識なしに、今後の日中友好はありえないと、確信する」と述べています。(ここまでは、1986年の初版版)
それから20年後、虐殺の有無や被害者数など国内外で続いた論争史を「増補版」というかたちで刊行しました。
日本軍による重慶爆撃、アメリカ軍による広島、長崎の原爆投下、東京大空襲・・・。第二次世界大戦による、市民被害者数は、いまだに実態が明らかにされません。また、その責任もあやふやです。当事者の国々の研究者、市民レベルでの検証が求められているような気がします。
ソンミ村虐殺、元中尉「41年後の謝罪」
ベトナム戦争中の1968年、米兵が南ベトナム(当時)の一般住民500人以上を殺害した「ソンミ村事件」で、ただ一人有罪となった米陸軍元中尉のウィリアム・カリー氏(66)が仮釈放後初めて、ジョージア州コロンバスの小集会で当時を語り、「41年後の謝罪」をした。
カリー氏は19日、友人の招きに応じ、約50人が参加した奉仕活動団体の昼食会に出席。冒頭、「良心の呵責(かしゃく)を感じない日は一日もなかった。殺されたベトナム人とその家族、巻き込まれた米国人とその家族に対し、良心の呵責を感じている。申し訳ない」と述べた。
米メディアが事件を暴露した後の70年、カリー氏ら14人が訴追された。同氏は軍事裁判で「上官の命令に従っただけ」と主張したが終身刑となり、上官は無罪だった。ニクソン大統領が減刑し、3年半で仮釈放されて以来、カリー氏はマスコミの取材に応じていなかった。なぜ41年後の今、重い口を開いたのかは不明だ。
(2009年8月22日21時52分 読売新聞)
「ソンミ事件」とは、1968年3月16日、ベトナム戦争当時、南ベトナムに展開していたするアメリカ陸軍・第20歩兵連隊第1大隊C中隊の、ウィリアム・カリー中尉率いる第1小隊が、南ベトナム・クアンガイ省ソンミ村ミライ集落(省都クアンガイの北東13km 人口507)を襲撃し、無抵抗の村民504人(男149人、妊婦を含む女183人、乳幼児を含む子ども173人)を機関銃の無差別乱射で虐殺した事件です。集落は壊滅状態となった(3人が奇跡的に難を逃れ、2008年現在も生存している。最高齢者は事件当時43歳)。
当初は村民に対する虐殺ではなく「南ベトナム解放民族戦線のゲリラ部隊との戦い」という虚偽の報告がなされたが、翌年12月にシーモア・ハーシュが『ザ・ニューヨーカー』で真相を報じ、アメリカ軍の歴史に残る大虐殺事件が明らかになった。この大虐殺事件は、現場に居合わせた複数のアメリカ軍兵士から軍上層部に報告されていたものの、軍上層部は、世論を反戦の方向へ導く可能性が高いことなどから事件を隠蔽し続けた。
なお、1970年に開かれた軍事法廷でこの虐殺に関与した兵士14人が殺人罪で起訴されたものの、1971年3月29日に下った判決ではカリーに終身刑が言い渡されただけで、残りの13人は証拠不十分で無罪となった。また、カリー自身もその後10年の懲役刑に減刑された上、3年後の1974年3月には仮釈放される。陸軍のこの不可解な処置は世界中から大きな非難を浴びた。
虐殺計画は掃討作戦決行の前夜に決定された既定事項で、C中隊指揮官のアーネスト・メディナ大尉が主張したものであるという。(以上、wikipediaによる)
新聞記事は、その当事者がソンミ事件について謝罪したというものでした。
ここでの問題点は、①事件の事実が軍の上層部によって隠蔽されたということ。②虐殺に関わったとされる者が証拠不十分で無罪、指揮官のみ(実際にはもっと上層部の関与が疑われるにもかかわらず)刑に服したこと。等があげられます。
そもそも「事件」という言い方自体が「犯罪」「不法性」を示す表現で、また、「不法」にも殺された者の人数の多寡によって、「虐殺」か否かが問われるわけではありません。
1937(昭和12)年12月13日、日本軍による南京陥落直後に始まった、「大規模な略奪、婦女暴行、一般市民の虐殺、捕虜の集団処刑、成年男子の強制連行が南京を恐怖の町と化してしまった」事件(12月17日付、ニューヨークタイムス・ダーディン記者のレポート)。これが、いわゆる「南京事件」が最初に報道されたときの内容です。
しかし、このことは、当時の日本国民には知らされるはずもなく、国内では、「南京陥落」の祝勝ムード一色になっていました。
この「事件」が「南京(虐殺)事件」として明らかになったのは、戦後、東京裁判と南京法廷においてでした。
その後、1970年代に入って、この「事件」を巡っての論争が激しくなります。「大虐殺」(30万とも)が行われたという主張とそれに反対する「まぼろし」派、中間派など、当時の教科書検定ともからんで、マスコミを巻き込んで取り上げられるようになっていきました。これには、中国の対日姿勢、日本の対中政策とも密接に、国際問題・政治問題化されていくのです。
筆者は、そうした論争を検証しながら、当時の日本軍の戦闘詳報、陣中日誌、参戦指揮官・兵士たちの日記などの多くの資料を駆使して、事件の実態、すなわち虐殺の構造、どうしてこのような「事件」(虐殺)が起こったのかという根本に迫っています。被害者数について、筆者は、中間派の立場から、様々な資料をもとに4万人ととらえています。
さらに、「南京『大』虐殺はなかった」と言い張る人々、中国政府が堅持する「30万人」や「40万人」という象徴的な数字にこだわる人々への批判をしつつも、「数字の幅に諸論があるとはいえ、南京での日本軍による大量の『虐殺』と各種の非行事件が起きたのは動かせぬ事実であり、筆者も同じ日本人の一人として、中国国民に心からお詫びしたい。そして、この認識なしに、今後の日中友好はありえないと、確信する」と述べています。(ここまでは、1986年の初版版)
それから20年後、虐殺の有無や被害者数など国内外で続いた論争史を「増補版」というかたちで刊行しました。
日本軍による重慶爆撃、アメリカ軍による広島、長崎の原爆投下、東京大空襲・・・。第二次世界大戦による、市民被害者数は、いまだに実態が明らかにされません。また、その責任もあやふやです。当事者の国々の研究者、市民レベルでの検証が求められているような気がします。