金の鯱のあるお屋敷。
集落内の道。昔ながらの小道?
正面に「三界萬霊碑」の道標。
「左きさらす(木更津)道」、裏面には「是より右江戸道」。元々の位置にあったものか?
右折してみると、かつての海岸線か? 水路もあり。
1880年代のようす。街道が右下に。 2010年代のようす。周囲は様変わり。現県道がかつての街道?
ウメが満開。
一方で、昨年の台風被害がそこここに、まだ。
再び踏切を渡って県道へ。 「神明前踏切」。
県道を振り返る。
「国道16号線」をくぐり、「袖ケ浦」駅に向かう。
むこうにも台風の爪痕(↓)。
「奈良輪」地区に入ります。「奈良輪東町」バス停。
「奈良輪」(袖ケ浦)は、姉崎と木更津の間の継立場でした。
ウメの木。
袖ケ浦市ってどんな所?
袖ケ浦市(そでがうらし)は、東京湾沿い、千葉県のほぼ中央に位置する、人口約6万4千人ほどの市です。
東京湾に面した北西部一帯は埋立地であり、石油製油所などの大規模な工場が立ち並びます。
それとは対照的に、市の中央部には田園風景が広がり、東部はゴルフ場やキャンプ場のある山林があるなど、豊かな自然が残されています。
地名「袖ケ浦」の由来
古事記によると、相模国からの東征の途中だった日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が、 走水(現在の東京湾)を渡る際に大時化(おおしけ)に遭い、 妃である弟橘媛(オトタチバナヒメ)が海中に身を投じて海神の怒りを鎮め、 日本武尊の渡海を助けたとされています。 その弟橘媛の袖が海岸に流れ着いたという伝説から「袖ヶ浦」と呼ばれるようになりました。 1991年に市制を施行した際、君津郡袖ヶ浦町から現在の袖ケ浦市になり、大きい「ケ」を採用するようになりました。
袖ケ浦市の歴史
旧石器時代~縄文~弥生時代
袖ケ浦の歴史は大変旧く、およそ3万年前の旧石器時代まで遡ります。市内にある遺跡からは土器等が多数発見されており、 住宅跡、小銅鐸(しょうどうたく)、水晶製棗玉(すいしょうなつめだま)などは、当時の人々の生活を知る貴重な手がかりとなっています。
古墳~奈良~平安時代
豪族達が競って古墳を築いた大和政権時代、袖ケ浦でも多くの古墳が造られました。 現在、市内では約500基もの古墳が見つかっています。 7世紀頃政府基盤の整備が進むと、袖ケ浦の人達は「望陀布(もうだぬの)」と呼ばれる良質な布を作り、税として納めていました。
鎌倉~室町~安土桃山時代
現在の袖ケ浦市から市原市をつなぐ鎌倉街道は、当時の武将たちが鎌倉へ馳せ参じる為に使われていました。 現在は「鎌倉街道上総路」と呼ばれ、文化庁・歴史の道百選にも指定されています。 戦国時代に入ると、袖ケ浦にも数多くの城や砦が築かれました。市内には現在も、14ヶ所の中世城館跡が点在しています。
江戸時代
幕府による交通網の整備が進められた江戸時代、袖ケ浦周辺でも房総往還、 久留里往還などの脇往還(脇街道)が整備されました。 現在のJR袖ケ浦駅前付近は、房総往還の主要な宿場「奈良輪宿」として発達しました。
明治時代
明治4年に行われた「廃藩置県」により、袖ヶ浦は木更津県に属します。 その2年後、木更津県と印旛県が合併し千葉県となりました。 現在でも東南アジアやアフリカなどで活用される井戸を掘る技術「上総掘り」が生まれたのもこの頃です。
大正時代~昭和中期
鉄道が開通すると、潮干狩りや海水浴など、東京から多くの観光客が訪れるようになりました。 大正末に海苔の生産が伝わると、海苔の種付けに必要な孟宗竹が豊富だったこともあり、海苔は袖ヶ浦の名産品になります。 戦後は食料難も手伝い、盛んに生産が行われました。
昭和から平成へ
昭和30年(1955)、長浦村・昭和村・根形村が合併して袖ヶ浦町が誕生しました。 高度成長期に入ると海岸が埋立てられ、かつて海水浴場や漁場があった場所には工場が立ち並んでゆきました。 昭和46年(1971)には袖ヶ浦町と平川町が合併し、新生「袖ヶ浦町」となります。 平成3年(1991)、袖ヶ浦町は人口が5万人を超え、市制施行して現在の袖ケ浦市となりました。 近年、1997年の東京湾アクアライン開通に加え、東関東自動車道館山線の開通や圏央道の供用開始などにより、利便性が飛躍的に高まりました。
(この項、「」HPより)
「奈良輪大井戸」交差点。
奥に土蔵造り。
満開のサクラ。
???
大きなお屋敷が並んでいます。
「袖ヶ浦駅入口」交差点。
駅前広場で小休止。
この付近の今昔。
1880年代のようす。木更津まで内陸部を通る。地図では「西房総街道」と表記されている。奈良輪にまとまった集落がある。塩田が海岸に。
2010年代のようす。上部の東西に流れる水路がかつての海岸線。街道は「袖ケ浦駅」付近で「内房線」から少しずつ離れ、南に向かう。
集落内の道。昔ながらの小道?
正面に「三界萬霊碑」の道標。
「左きさらす(木更津)道」、裏面には「是より右江戸道」。元々の位置にあったものか?
右折してみると、かつての海岸線か? 水路もあり。
1880年代のようす。街道が右下に。 2010年代のようす。周囲は様変わり。現県道がかつての街道?
ウメが満開。
一方で、昨年の台風被害がそこここに、まだ。
再び踏切を渡って県道へ。 「神明前踏切」。
県道を振り返る。
「国道16号線」をくぐり、「袖ケ浦」駅に向かう。
むこうにも台風の爪痕(↓)。
「奈良輪」地区に入ります。「奈良輪東町」バス停。
「奈良輪」(袖ケ浦)は、姉崎と木更津の間の継立場でした。
ウメの木。
袖ケ浦市ってどんな所?
袖ケ浦市(そでがうらし)は、東京湾沿い、千葉県のほぼ中央に位置する、人口約6万4千人ほどの市です。
東京湾に面した北西部一帯は埋立地であり、石油製油所などの大規模な工場が立ち並びます。
それとは対照的に、市の中央部には田園風景が広がり、東部はゴルフ場やキャンプ場のある山林があるなど、豊かな自然が残されています。
地名「袖ケ浦」の由来
古事記によると、相模国からの東征の途中だった日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が、 走水(現在の東京湾)を渡る際に大時化(おおしけ)に遭い、 妃である弟橘媛(オトタチバナヒメ)が海中に身を投じて海神の怒りを鎮め、 日本武尊の渡海を助けたとされています。 その弟橘媛の袖が海岸に流れ着いたという伝説から「袖ヶ浦」と呼ばれるようになりました。 1991年に市制を施行した際、君津郡袖ヶ浦町から現在の袖ケ浦市になり、大きい「ケ」を採用するようになりました。
袖ケ浦市の歴史
旧石器時代~縄文~弥生時代
袖ケ浦の歴史は大変旧く、およそ3万年前の旧石器時代まで遡ります。市内にある遺跡からは土器等が多数発見されており、 住宅跡、小銅鐸(しょうどうたく)、水晶製棗玉(すいしょうなつめだま)などは、当時の人々の生活を知る貴重な手がかりとなっています。
古墳~奈良~平安時代
豪族達が競って古墳を築いた大和政権時代、袖ケ浦でも多くの古墳が造られました。 現在、市内では約500基もの古墳が見つかっています。 7世紀頃政府基盤の整備が進むと、袖ケ浦の人達は「望陀布(もうだぬの)」と呼ばれる良質な布を作り、税として納めていました。
鎌倉~室町~安土桃山時代
現在の袖ケ浦市から市原市をつなぐ鎌倉街道は、当時の武将たちが鎌倉へ馳せ参じる為に使われていました。 現在は「鎌倉街道上総路」と呼ばれ、文化庁・歴史の道百選にも指定されています。 戦国時代に入ると、袖ケ浦にも数多くの城や砦が築かれました。市内には現在も、14ヶ所の中世城館跡が点在しています。
江戸時代
幕府による交通網の整備が進められた江戸時代、袖ケ浦周辺でも房総往還、 久留里往還などの脇往還(脇街道)が整備されました。 現在のJR袖ケ浦駅前付近は、房総往還の主要な宿場「奈良輪宿」として発達しました。
明治時代
明治4年に行われた「廃藩置県」により、袖ヶ浦は木更津県に属します。 その2年後、木更津県と印旛県が合併し千葉県となりました。 現在でも東南アジアやアフリカなどで活用される井戸を掘る技術「上総掘り」が生まれたのもこの頃です。
大正時代~昭和中期
鉄道が開通すると、潮干狩りや海水浴など、東京から多くの観光客が訪れるようになりました。 大正末に海苔の生産が伝わると、海苔の種付けに必要な孟宗竹が豊富だったこともあり、海苔は袖ヶ浦の名産品になります。 戦後は食料難も手伝い、盛んに生産が行われました。
昭和から平成へ
昭和30年(1955)、長浦村・昭和村・根形村が合併して袖ヶ浦町が誕生しました。 高度成長期に入ると海岸が埋立てられ、かつて海水浴場や漁場があった場所には工場が立ち並んでゆきました。 昭和46年(1971)には袖ヶ浦町と平川町が合併し、新生「袖ヶ浦町」となります。 平成3年(1991)、袖ヶ浦町は人口が5万人を超え、市制施行して現在の袖ケ浦市となりました。 近年、1997年の東京湾アクアライン開通に加え、東関東自動車道館山線の開通や圏央道の供用開始などにより、利便性が飛躍的に高まりました。
(この項、「」HPより)
「奈良輪大井戸」交差点。
奥に土蔵造り。
満開のサクラ。
???
大きなお屋敷が並んでいます。
「袖ヶ浦駅入口」交差点。
駅前広場で小休止。
この付近の今昔。
1880年代のようす。木更津まで内陸部を通る。地図では「西房総街道」と表記されている。奈良輪にまとまった集落がある。塩田が海岸に。
2010年代のようす。上部の東西に流れる水路がかつての海岸線。街道は「袖ケ浦駅」付近で「内房線」から少しずつ離れ、南に向かう。