おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

131(番外編) ジオラマのある店・AMOR

2009-08-16 19:59:09 | つぶやき
 ジオラマ。「情景模写」と訳すようですが、どちらかというと「鉄道模型」の方がなじみやすいのですが。
 お盆休みで、都内も何となく閑散としている雰囲気の、とある夜。久々に浅草まで飲みに行きました。ひょんなことから存在を知った店へ。カウンターに鉄道の線路がぐるりと敷かれ、そこを新幹線やら在来線やらが行き交っている店。さらに、浅草のミニチュアまである!
以下はお店の宣伝文句。

Nゲージ鉄道模型レイアウトのある本場地中海料理のレストラン。
~鉄道が好きな方や美味しい物に目がないあなた~
カウンターを走行する鉄道模型に夢を乗せ、眺め・走らせ・楽しみながら、
ヨーロッパを旅行している気分で、AMORでしか味わえない本場地中海料理をご賞味下さい。
気の合う仲間、カップルからファミリー、お一人様も大歓迎。
鉄道や旅の話を語りましょう!!

 まさにこの通りでして、カウンターの背中には、天井近くまでたくさんの電車・機関車がケースに入って置かれています。ホントウに鉄道好きで旅行好きのマスター(まだ40代の若い方でした)がいます。あとは、若い女性とだけ(突然、厨房からもっと年取った方が現れてびっくりしました)。
 こちらは、どちらかというと、自称「廃線」「跡地」マニアなので、走っている(いた)電車のあれこれには、ほとんど知識がありません。でも、そんな私にも熱心に話を向けてくるマスター。ガラス越しではなく直に走っている姿は、感動物。
 私の廃線うんちくにもきちんと答えてもくれて・・・。都電(市電)、私鉄、トロリーバス、貨物線・・・。実に、勝手に、飲んで食べて話して、楽しんだひとときでした。
 ほとんど話題に入ってこられなかった連れの女性も、東武のロマンスカーでの売り子体験になって、やっと話が弾みました。ああ、何とか助かった!
 それでも、迷惑だったかな、久々に会ったのに、話が・・・。今度またゆっくりとお話ししましょう、でも、この店以外の所でね。それでいて、私はまたきっと来ることでしょう、この店には。
 5月にリニューアルしたようで、私達が、貸し切り状態で2時間以上もいられたのも、そのせいかもしれません。
 知る人ぞ、知る店。ぜひこれを読んで興味を持った方は、出かけてみて下さい。

 勝手に紹介します。台東区駒形2丁目。都営浅草線「浅草」駅・A2出口を出てすぐの店です。
Tel&Faxは、03-5827-2218。
 そうそう、自分の電車を持ち込んで走らせることもでき、それにリクエストにも応えてくれるそうです。
 この店の周りには、かの、有名な「麦とろ」や「駒形どぜう」などもあります。そちらのほうがいい方は、それはそれで・・・。そういえば、そこにもしばらく行っていないなあ!
 写真は、そのようす。携帯で撮ったのであまり鮮明ではありませんが。
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読書11「戦争の時代ですよ!」(鈴木常勝)大修館書店

2009-08-15 20:44:56 | つぶやき
 8月15日.64回目の終戦記念日。戦争当時の日本・日本人のありようについての新たな、そして改めての追跡や発見がまだまだ行われている。
 直接戦争を知る世代が高齢化し、亡くなっていく中で、こうした検証を通して平和を考えていくことは大事なことだ。それは、ただの懐古趣味ではなく、破壊的な戦禍を再び繰り返さないことへの教訓を得ることだ。
 この本は、副題に、「若者たちと見る国策紙芝居の世界」とあるように、日中戦争、アジア太平洋戦争の時期、当時の日本政府が国民にその戦争の正しさを訴え、国民を戦争へと動員するために作られた「国策紙芝居」のいくつかを大学生に紹介し、感想と議論(留学生との)をまとめてある。
 筆者紹介によると、筆者は1947年生まれ、「日中現代史研究家、紙芝居師」とある。実際に紙芝居を実演することへの著書も多い。この本も、実際に学生の前で実演したもの。
 「絵を次々に引き抜いて語る」という紙芝居。子ども相手の駄菓子を売って紙芝居を見せる行商人、紙芝居屋さん。語り口が巧妙で、大道芸人の一人だった。
 子どもの頃、近所の空き地にやってきた紙芝居屋さん。ソース煎餅(?)とか型飴(?)を買っては、見たことがあります。「黄金バット」だったか何だか忘れたけれど・・・。
 取り上げられた作品は、『フクチャントチョキン』『拳骨軍曹』『ガンバレコスズメ』『櫛』など6編。それぞれ実演したあとで、大学生の議論を紹介している。
それぞれの紙芝居には筆者の副題があって、「さあ、戦争をはじめよう!」「優しいお父さんが戦死なさっても・・・」「勇敢な日本兵、卑劣な支那兵を打ちのめす!」など。
 「見てわかる」「共感を生む」という紙芝居の特徴(感情移入しやすい)が生かされて、新聞、雑誌、演説などになじめない幼児、青少年にとどまらず、労働者や農民にふさわしい「上位下達」のメディアとして、日本全国、さらに台湾や朝鮮、中国沿岸部、東南アジアにも広められていった。
 最初に取り上げた作品は、戦費調達のための戦時国債の宣伝。「フクチャン」が竹の筒を貯金箱代わりに、お金を貯めてお国のために役立とうという話。それにおじいちゃんが協力するという。(戦後は、紙切れ同然になってしまった。)
 次の紙芝居は、拳骨で支那兵を殴り殺した勇敢な軍曹の話。内地からの小学生からの慰問の手紙に励まされ、負傷しても果敢に敵兵と闘い勝利する。
 『櫛』は、貧しい中で懸命に働く母と息子二人の「美談」仕立て。貧しさで形見の櫛を売って子ども学資にした母に対して出征した息子が櫛を送る。その息子のことば「お母さんは日本の兵隊がなぜ強いか知っていますか。それは、みんながお母さんのことを思っているからです」・・・
 それぞれの紙芝居について大学生が感想を述べ合い、議論することに。その中身は、ぜひ見て欲しい。
 特に、『櫛』は、現代の学生達の中には、「母子の愛に感動した。今の時代にも通用する。」「母の強さ」「親子の絆」などと好意的な感想を述べる者も。また、中国からの留学生の中にも、自分の母や祖母を思い浮かべた者もいる。 
 しかし、こうした美談とプロパガンダ(戦争賛美)の二面性を見て取る学生も多くいた。そこに、「紙芝居」の持つ特性が指摘できようか。
 こうした紙芝居による国民意識感化運動(戦争遂行、戦争美化・・・)が大々的に繰り広げられいた事実。もし自分が、当時、少年であったならば、いったいどういう行動をしていただろうか。「なぜあの無謀な戦争に取り込まれたのか」「なぜ反対の声や行動がなかったのか」など、当時の国民を一方的には批判できない。ここに、戦時体制下の恐ろしさを感じた。
 今のどこかの国民もそうさせられているのではないか。またどこかの組織もそうなっていて、一人一人、まさに忠実な先兵として「立派に」働いているのはないか、とも思った。
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読書10「大江戸とんでも法律集」(笛吹明生)中公新書

2009-08-14 23:01:30 | つぶやき
 濫読という感じの読書の仕方。今回は、題名が「とんでも」本にあやかったようで、中身は「真面目な」内容の本。
 一時期、「品格」というネーミングがはやって、「○○の品格」という本がめったやたらに出たり、「脳内革命」がはやると、「脳内○○」が出回る。内容的には、どうも、というものが多いですが。出版界も苦労しているのですね。
 実は、とんでも本の類は好きでして、(空想)科学批判など面白く読んでいます。そこで、ついつられて(?)手にした本が、これ。江戸幕藩体制の初期の頃の法律集。
といっても、近代社会のように司法・立法・行政などに区分された法体系ではないのは、当然。幕府(お上)からのお達し、お触れ、すなわち上意下達の徹底ぶりが描かれている。
 その内容が、実に多彩。本の中では、おそらく一番の「とんでも」と表現したかった法律は、五代将軍綱吉の「生類憐れみの令」だったのでしょう。

「諸人が仁愛の心を持つようにと常々(綱吉公は)思われて生類憐れみの儀をたびたび仰せ出されました。それなのに橋本権之介という者が犬を殺し、不届きなので死罪にします。・・・」
「熊・猪・狼が家畜を襲い、これを追い払うときには怪我をさせぬように」
「犬や猫が鳥獣を襲ったり、互いに噛み合ったりしていたら、痛くないように引き分けること」
 このことで、筆者があげた例では、霊岸島の七左衛門は鶏の雛を二匹飼っていたところ、大家の猫が来て一羽を食ってしまった。さらにもう一羽を食おうとする猫を捕まえ、地に打ち付けて殺してしまった。これで江戸十里四方追放となった、という。(ま、「大家の猫を」ということが厳罰になったとも思えますが)
「生きた魚鳥の売り買いは禁止。ただし、鶏、あひる、唐鳥は放しても餌がないので飼い続けること。鶏、あひるは飼うべきですが、卵はとらずにひよこを育てること」
 実子を得たいという綱吉の思いとこうすれば授かるという思い込みからでたお触れなので、どんどんエスカレートしていったわけです。たしかに「とんでも」ない法律でした。
 こうして人を苦しめた綱吉も、ついに実子を得ぬままこの世を去ります。養嗣子となった家宣は、速やかにお触れを出します。「生類の儀は、今後おかまいなしとします」
 いずれにしても、江戸は厳罰主義でした。お触れに背くと、死刑の種類も、鋸引き、磔、獄門、火罪、斬罪、死罪、下手人とありました。
 その他にも、身分刑、敲き、入れ墨という身体刑、遠島や追放、戸〆や押込(謹慎刑)などがあって、どんな犯罪がどれほど幕府にとって危険かの判断がそのまま刑のランクに反映されています。主殺し、火付けや強盗などは極刑になるのは当然の時代です。たとえば、親が焼け死ぬのを捨て置くと「死罪」。
 その他、微に入り細に入り、江戸庶民の生活の仕方についてまで(ゴミ、打ち水の仕方・・・)罰則を設けて管理していくわけです。その任に当たったのが、町奉行、町年寄、町役人、・・・そして五人組制度。
 筆者も後書きに書いているように、この本で扱っているのは、江戸幕府が開かれてから八代将軍のころまでの「法律集」。いわば草創期から安定期まで。
 幕藩体制が揺らぎ始めて、幕府崩壊という混乱期における法律集(体制を何とか維持していこうとする)もぜひみたいものです。
 また、原文を添えてあると、もっと参考になり、興味深くなったと思いますが。 
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読書9「宮沢賢治、ジャズに出会う」(奥成達)白水社

2009-08-13 23:37:48 | つぶやき
 ちょっとおしゃれな本との出会い。本屋さんや図書館巡りをしていると、けっこう面白そうな題名・装丁の本に出会う。この本もそうした一冊。
 
・・・こつちは最終の一列車だ
シグナルもタブレットもあつたもんでなく
とび乗りのできないやつは乗せないし
とび降りなんぞやれないやつは
もうどこまででも載せて行つて
北国あたりで売りとばしたり・・・

 大正15(1926)年に同人詩誌「銅鑼」(編集発行・草野心平)7号に発表された宮沢賢治の「『ジャズ』夏のはなしです」と題された詩。筆者は、この「すてきなジャズの詩」に出会って、「花巻にいたはずの宮沢賢治が、いつ、どこでジャズと出会い、聴いて楽しんでいたのだろうか」と賢治とジャズ音楽とのかかわりを探求していく。日本の、草創期のジャズ・シーンを紹介しながら進められていく。
 筆者は賢治の多くの作品に鳴り響いている、リズム、メロディ、イントネーションに、それまで自分が好んで聴いていたさまざまな音楽と同質の共鳴をしていることに気づき、驚いていた、という。
 この「質感」(茂木流に言えば、「クオリア」)のたとえとしてあげられているのが、ジャズのライブハウス・新宿の「ピットイン」での、たくさんのミュージシャンたちとの出会いによって培われてきたものだ、と。
 ほぼ筆者と同世代の私は、まさに同感!なつかしい店名を発見した思いだった。(大学時代にはここも含め、中野、阿佐ヶ谷、銀座などのジャズライブの店によく通い、時には、ヒノテルマサのまだ売れない頃の生演奏を聴いていた。) 
 ジャズの日本史・戦前編ともいうべき内容。書かれている、具体的なジャズの曲名、演奏スタイル、歴史などもほぼ理解できる内容だったのもうれしかった。
 それでも、まさか宮沢賢治のジャズとのかかわりから戦前のジャズの歴史にまで話題が広げていくとは!

恋はやさし野べの花よ
一生わたくしかはりませんと
騎士の誓約強いベースで鳴りひびかうが
そいつもこいつもみんな地塊の夏の泡
いるかのやうに踊りながらはねあがりながら
もう積雲の焦げたトンネルも通り抜け
緑青を吐く松の林も 
続々うしろにたたんでしまつて

これは、「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」と題された宮沢賢治の詩。ここに、筆者は、デキシーランド・スタイルの、あのゆったりのんびりした明るいジャズの軽快さをつかみ取る。
 それにしても、まだまだジャズというジャンルも音楽も一般には広まっていないときに、賢治は、たしかにすてきな「ジャズ」の詩を作った。
 筆者の「賢治との出会い」であり、「ジャズとの出会い」の強い思いと共感を書きつづったものである。
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読書8「大江戸岡場所細見」(江戸の性を考える会)三一書房

2009-08-12 23:39:54 | つぶやき
 岡場所の「岡」は局外の意味で、岡目八目、岡惚れなどの「岡」に当たり、唯一の公認遊里・新吉原を「本」場所と考えていたのに対して、それ以外の遊所を意味する言葉。
 新吉原は、格式も高く、玉代が高いほかに、いろいろなしきたりなどがあったが、岡場所は、代金も安く、気軽に遊べる場所として利用されていた。

一、前々より禁制のごとく、江戸町中端々に至迄、
  遊女の類、隠置くべからず。                     
  もし違犯のやからあらば、其所の名主・五人
  組・地主迄、曲事たるべきもの也。                   
   
 この一条は、新吉原大門口に立てられていた高札の文言であるが、自然発生的な私娼をすべて阻止することはできなかった。 
 多くは個々の意志によって、その営業地域を選択する。街頭に立ち客を引く者、水茶屋女、出合い茶屋を舞台に稼ぐ者、橋下や苫船(とまぶね)をねぐらとして出没する者・・・。
 一方、一定の地域で密淫売の組織を形成する。多くは神社・仏閣の門前町に巣喰い、休茶屋・水茶屋を揚屋(遊女のために提供される座敷)として営業する、あるいは、埋め立て新地の料理茶屋が、当局のお目こぼしによって売女を置きこれを基盤として花街を形成する場合もあった。
 こうして、江戸の売娼地帯は、次第にその規模を拡大していった。これらの私娼屈を総称して岡場所と呼んだのである。
 当時の江戸人口は百万余で、男女の人口比でみると、恐らく女は二十パーセントにも満たない。この大都市に、公認遊廓が新吉原一つのみ、半公認の四宿(品川・千住・板橋・新宿も、広い意味では岡場所に入るが、四宿の宿場女郎は、条件つきながら一応官許であった)を加えても、江戸の性的な秩序・治安を維持することは困難だったに違いない。
 三田村蔦魚編の『未刊随筆百種』第十六巻所収の「御町中御法度御穿鏨遊女諸事出入書留」には、寛文八年(1668)から享保五年までに行われた私娼詮議の記録が書き留められている。いずれの場合も、吉原町の方で実証を握り、しかる後に訴願に及び、同心衆を案内して現場に急行し、私娼を捕えるというもの(「警動」という)で、実証がなけれぱ官憲は動かないのである。こうしたやや消極的な取締り当局の尻をたたきながら、吉原方は一応警動の実効をあげてきた。
 捕えられた私娼は一括「新吉原町へ被下置侯」ということで、廓内妓楼主人の入札によって競売に付せられたのである。女たちは「三年当所へ被下置侯得ぱ」(寛攻七年十二月『新吉原町定書』)とあるように、吉原にて三年間無償の廊勤めをしなけれぱならなかった。。
 もっとも、警動による岡場所遊女の注入は一時的なもので、期限が来れぱ帰されるわけだが、天保改革の折には、遊女屋をつづけたい岡場所の楼主たちは、吉原への移住を命ぜられたのであった。こうして、天保十三年の夏以後、未曽有の遊女移助が行われた。
平賀源内(ひらがげんない)の戯著『風流志道軒伝』(宝暦十三年)は、このころの江戸岡場所の分布について、次のような地名をあげている。
深川・土橋・三十三間堂・直助屋敷・入船町・石場・佃・新大橋・御旅・一ツ目・鐘撞堂・山猫・大根畑・鮫ヶ橋・万福寺・朝鮮長屋・いろは・ぢく谷・世尊院・御箪笥町・音羽町・根津・赤城・薮の下・愛嬌稲荷・市兵衛町・氷川・同朋町・丸山町。
天保(1830~1844)末年に石橋真国の著わした『かくらざと』下巻には、寛政の改革の折りに廃せられた岡場所として、次の五十六ヶ所をあげている。
蒟蒻島・浅蜊河岸・中州・入船町・三十三間堂・土橋・直助屋敷・新六軒・横堀・井の堀・大橋(東・西詰)・六間堀・安宅・大徳院前・回向院前土手・六軒・亀澤町・朝鮮長屋・三島門前・浅草広小路・どぶ店・柳の下・万福寺門前・馬道・智楽院門前・新鳥越・多町・山下・牛込行願寺・赤城社前・市ヶ谷八幡前・愛敬稲荷・高井戸・青山・赤坂・氷川・麻布高稲荷・芝神明前・三田同朋町・赤羽根・芝横新町・芝車町・高輪・牛町。
 寛政改革をくぐり抜けて生き残った遊里三十二ヶ所を加えると、天明の盛時には優に八十ヶ所を越した岡場所が、江戸市中から近郊にかけて散在していたことがわかる。(以上、出典:佐藤要人「岡場所の客と遊女」歴史と人物 中央公論社)
 この本は、そうした背景を持つ「岡場所」を当時のままにたずね歩くという趣向になっている。「絵の介」と「もさ引きの文造」(「もさ引き」とは、一種の観光案内業者のこと)の二人が登場人物。上記にあげられた場所を歩く。その間には、「警動」あり、人助けあり、女性達の悲しみあり、苦しみありでけっこう読み物風になっている。ただし、現代の場所の写真も添えられているが、あまり効果的ではない。さらに、「浮世絵」(俗に言う「春画」)がふんだんに挿入されているのは、意図も含めて、興味深い。
 終わりに「時代が変わるとともにはかなく地上から消えてしまい、私娼とか売女とよばれた女もすべて歴史の彼方へと去ってしまった。・・・すべての日本人にとってこのような岡場所の風俗はどこか懐かしいものがあり、それでいて、ものの哀れを感じないわけにはいかなかった。」とあるが、私にはこうした言い方には抵抗感があった。いったい「ものの哀れ」とは何を指しているか、忘れ去られた理想像としての「郷愁」ならば、それは違うと思う。それが登場人物の二人の、苦界という対象世界から常に一歩身を引いた、冷めた表現になっているのではないか。
 一方で、こうしたジャンルについて、以前から「三一書房」では、取り組んでいる点には、敬意を表したい。
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読書7「世界怪談名作集(上下)」(岡本綺堂編訳)河出文庫

2009-08-11 23:33:40 | つぶやき
 昭和4年(1929年)に改造社より「世界大衆文学全集」の一冊として刊行され、好評だった。その後、『岡本綺堂読み物選集8 翻訳編 下巻』(1970年)に再録された。その文庫版上下。
 岡本綺堂(1872年~1939年)からは「半七捕物帖」で知られる捕物帖小説の創始者。また、「修善寺物語」や「番町皿屋敷」などの戯曲も書いている。
 古今の怪奇小説に造詣が深く、怪談の名手でもあった。その綺堂が主に西洋の怪奇譚を自ら厳選し、訳出したアンソロジーが、この本。玄妙で味わい深い好短編を集めている。
 昭和4年の当時の、作者の序では「怪談といっても、いわゆる幽霊物語ばかりでは単調に陥る嫌いがあるので、たとい幽霊は出現しないでも、その事実の怪奇なるものは採録することにした」とあり、「外国の怪談16種、支那(現在の中国、当時の表現)の怪談1種」を採りあげている。ちなみに中国の怪奇小説は、かの有名な「牡丹燈籠」である。
 プーシキン「スペードの女王」、ディッケンズ「信号手」、ホーソーン「ラッパチーニの娘」、ドイル「北極星号の船長」、ホフマン「廃宅」など、当時から見ても「古典」と言えそうな作品を選んでいる。また、実際のところ、幽霊話が多い。
 夏の涼しい(冷房がかかっているので)一夜に読むのも一興である。しかし、この文庫本を読みながら寝てしまったら、ちょっと恐い夢を見てしまった。あまり感情移入しない方がよいようで。
 
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読書5「予告された殺人の記録」(G・ガルシア=マルケス)新潮社

2009-08-09 19:39:55 | つぶやき
 1981年に発表された作品。
 「町中の誰もが充分に知っていた。しかも、当の犯人たちを含めた誰もが阻もうとしていたのだ。その朝、彼が滅多切りにされることを。たった一人、彼だけを除く誰もが……。運命という現実。その量り知れぬ糸模様の全貌に挑んだ中篇。」
 この作品は実際に起きた事件をモチーフにして書かれたものであるが、あまりにも描写が精緻であったために、事件の真相を知っているのでは、と当局に疑われたという逸話を持っている。
 マルケスは1928年、南米・コロンビア、カリブ海沿岸にある人口2000人ほどの寒村アラカタカ生まれ。
 60年代、日本でも、特に『百年の孤独』は、大江健三郎や筒井康隆、池澤夏樹、寺山修司、中上健次など多くの作家に影響を与えた。
 1982年10月21日、ラテンアメリカでは4番目となるノーベル文学賞受賞。受賞の理由としては、「現実的なものと幻想的なものを結び合わせて、一つの大陸の生と葛藤の実相を反映する、豊かな想像の世界を創り出した」こと。
 民衆の意識や思考、共同体のメカニズムを複眼的に把握する。これが、マルケスの作品の支柱となっている。この作品は、休暇で戻ってきた〈わたし〉さらに町を再訪した〈わたし〉というかたちで内側からのまなざしと同時に外からのまなざしを確保している。 
 
 自分が殺される日、サンティアゴ・ナサールは、司教が船で着くのを待つために、朝、五時半に起きた。彼はやわらかな雨が降るイゲロン樹の森を通り抜ける夢を見た。夢の中では束の間の幸せを味わったものの、目が覚めたときは、身体中に鳥の糞を浴びた気がした。「あの子は、樹の夢ばかり見ていましたよ」と彼の母親、ブラシダ・リネロは、二十七年後、あの忌まわしい月曜日のことをあれこれ想い出しながら、わたしに言った。
 モデルとなる事件は1951年1月22日。場所は当時彼の家族が住み、彼もある時期暮らしたことのある田舎町。それから30年後、作品として結実した。
 書き出しからも分かるように、時間の処理の仕方に特徴がある。様々な過去時制を用いてモザイクのように入り組んだ過去を作り出している。
 共同体の祝祭の儀式(婚礼)、しかし、その娘が汚れていたために共同体の名誉は失われ、その名誉回復のための儀式が双子の兄弟によるサンティアゴ殺害。
 広場、群衆、ナイフを持つ男と素手の男・・・。一気に読み通した。
 
 わたしの叔母のウェネフリーダ・マルケスは、彼がしっかりした足取りで自分の家を目ざし、古い河岸の階段を下りるのを、河向こうの家の中庭で鰊の鱗を落としながら見ている。
 「サンティアゴ!」と彼女は彼に向かって叫んだ。「どうしたの」
 サンティアゴ・ナサールは、それが彼女であることが分かった。
 「おれは殺されたんだよ、ウェネ」彼はそう答えた。
 彼は最後の階段でつまずいて転んだ。が、すぐに起き上がった。「まだ、腸に泥がついたのを気にして、手でゆすって落としたほどだったよ」と叔母のウェネはわたしに言った。・・・

 なお、まったくの余談だが、「ガルシアマルケス」という人気ファッションブランドがあって、可愛い犬のロゴが印象的で、中でもバックは一番の人気商品だそうだ。
 
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読書4「対テロ戦争株式会社」(ソロモン・ヒューズ)河出書房新社

2009-08-08 19:28:29 | つぶやき
 この本も、ちょっと衝撃的な内容。筆者はジャーナリスト。副題は、「不安の政治」から営利をむさぼる企業。
 かつてジョージ・オーウェルは、小説『1984年』で、外部の敵のたえざる脅威が、内部の監視や抑圧の正当化に利用される国家を描いた。そこには、「独占企業と中央集権的政府の不毛な世界」が浮かび上がってきていた。
 もともとオーウェルの小説『1984年』は、1948年に執筆された作品で、当時のスターリン体制下のソ連を連想させる全体主義国家によって分割統治された近未来世界の恐怖を描いていた。「1984年」という年号は、本作が執筆された1948年の4と8を入れ替えたアナグラムであるという説が一般的である。これによって、当時の世界情勢そのものへの危惧を暗に示したものとなっている。
 出版当初から冷戦下の英米で爆発的に売れ、あらゆる形態の管理社会を痛烈に批判した本作のアクチュアリティは、現代においてもその先駆性の輝きを全く失ってはいない。
 しかし、その近未来小説を越えて、まさに現代。
 9・11以降の米英の民間の「戦争請負企業」が、「対テロ戦争」に参入し、今や「1984」株式会社になっている、という。「官から民へ」新市場主義によってますます巨大化され、監獄から戦場まで民間委託によって国家の安全、市民の対テロ防御政策(?)がなされている。さらに悪質なことは、ブッシュ政権(二人の)の中枢にいた政府高官がその分け前を頂戴しているという事実。
 これらのことは、すでにマスコミなどにも報道されている内容ではあったが、改めてその現実を目の当たりにすると、愕然とする。
 こうした現実が今の日本には無縁か。
 コンピュータによる個人管理システム、地域安全システム、実は日本人も参加しているという傭兵制度・・・。こうして産業?が民間によって担われている事実。特に、若者を戦場にかり出さないといえようか。国家の安全、国民の安全、そうした美名のもとで民間(企業)が国家をバックにして権力的に振る舞うこと時は来ないと言えようか。
 次々と現実に進行している実態を見事に描いて警告した作品になっている。
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朝日新聞の品格のなさ

2009-08-07 20:30:56 | つぶやき
 北朝鮮へのクリントン元大統領の訪問。二人の女性記者の解放と共に、今後の米朝関係への新たな進展を予想するような結果。勿論相手が相手だからそう簡単ではないだろうが。 
 ところが、こうした電撃的な事態を斜に構えて?茶化してしまったのが、朝日の5日付夕刊。
 「素粒子」の内容。このところ、文体にも内容にもちょっと疑問符が投げかけられるものが多かったが、それでも、これはないだろうと・・・。
 クリントンの訪朝を「女房に握られた弱みが世界平和のためになるならば歓迎」とのコメントで、夫のクリントンの過去の「不適切な関係」にかこつけた、クリントン国務長官の会話に仕立てている。これが、アメリカを含めて外国のメディアにどのような印象を与えるのかを考えての表現か。
 ちょっぴりユーモアのセンスで辛口批評するのはこの欄の持ち味だが、これは筆者の人格を疑わざるを得ない。
 「妄想版・熟年夫婦のお話」と小見出しがある。国際政治という微妙かつ重要な場面でのこういう内容は慎んだほうがよい、と思う。かつての週刊新潮に掲載されていた、ちょっとエッチでもセンスのあった「世界の小話」にも、かけ離れた下品な内容だ。
 (付)6日の「素粒子」。広島の原爆記念日に合わせて、被爆地のほぼ直下にあった小学校(国民学校)の悲劇を書いている。しかし、どうも実際には現地に行って書いているとは思えないふしが。
 私自身、数年前に行ったことがあるが、行方不明者への安否を気遣う切実な板書などがそのまま保存されていて、生々しい被爆の悲劇的な状況を肌で感じた。
 それにはふれられず、通り一遍の、行数稼ぎの文体になっている、としか思えない。校舎の「残骸」という表現も、妥当性を欠くような気が・・・。
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読書3「ヒトラー権力の本質」(イアン・カーショー)白水社

2009-08-06 19:35:03 | つぶやき
 ヒトラーに関する論文は、それこそごまんとある。この書の出発点は、ヒトラー個人の資質その鍵は「カリスマ」としての資質がいかにヒトラーに付与されるに至ったかという疑問である。(これは別に取り立てて目新しい視点ではないが)
 そこから、「指導者に追随する人々の英雄的な指導者意識に支えられた、個人化された支配形態」を「カリスマ支配」と位置づける。
 「カリスマ支配」は、システムの危機から出現した支配形態で、システム化した統治機構とは調和しない。そして、間断ない成功に依存し、日常化された支配形態に埋もれることをなんとしても避けようとする。
 そこには、個人的な忠誠が官僚的な支配構造に優先され、公式的な地位よりも最高指導者への帰依の度合いに基づく私的な格付けが重視され、ヒトラー(総統)の将来目標に沿った強制労働、経済搾取が正当化される。
 「カリスマ支配」の核心には、止むことのないダイナミズムが存在する。そこでは、「通常性(ノーマリティ)」や「日常の業務(ルーティン)」への退却は許されず、また目標の達成で満足することもできない。指導者の将来像は、たとえその一部が実現されたとしても、未来への指針を示し続けねばならない。
 ヒトラーの支配が長びけば長びくほど、それがシステムへと導かれる可能性はなくなり、逆にすべての組織化・体系化された支配構造は破壊される。膨張の目標は狭まるどころか拡大していく。そして、ヒトラーの「ユートピア的観念(幻想的で空疎な)」の下で最終的に自己破壊していった。そこに、権力(カリスマ支配)の傲慢をみる。
 ヒトラーは人生の最初の30年間、何者でもなかった。残りの26年の間にドイツの独裁者として、また民族殺戮戦争の首謀者として歴史に消すことの出来ない傷跡を残した。
  
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読書2「匂いの人類学」(エイヴリー・ギルバート)講談社

2009-08-05 20:34:39 | つぶやき
 趣向を変えて最近読んだ興味深い本を紹介することに。第2弾は、「匂いの人類学」。副題は「鼻は知っている」。
 筆者は自称「感覚心理学者」。さらに「動物行動学」「神経科学」を学んできていて、多種多様な匂い(すてきな匂いからここぞという悪臭まで)に接してきた、と。
 その立場からきわめて実証的に人間の嗅覚の働きをさまざまな角度から分析していく。その論点の中心は、他の動物とは異なって、人間は匂いを符号として認識し、その信号値を柔軟に使いこなす。つまり「鼻や脳はどうやって世界を単純化しているのか」ということ。
 具体的な話題が豊富に取り上げられている。鼻がきく人達(調香師、化学者、販売責任者・・・)の話題。中でも、匂いつき映画の盛衰(この話題はとてもおもしろかった)、ショッピングモールでの匂いのマーケティング(今の大型店舗での客寄せに用いられている)、等々。
 昨夜のTVでも取り上げていたようだが、ガンを嗅覚で見分ける犬の話題なども出て来る(著者は、懐疑的な立場)。
 一方で、人類がこれまで接してきた「自然の匂い」、懐かしい香りが消え、人工的な化学的に調合された匂いに支配されつつある現状を憂いている。
 そのために、古代の匂いのこもった人糞の化石からその当時の匂い(雑多な植物や肉など)を再現に取り組む実験を行ったりしている。
 エッセー風な軽い読みものにもなっていて、どの章を読んでも興味深かった。
 そうそう、かの有名なフロイト(精神分析学)は、鼻(嗅覚)が機能不全だったために、あのような内面的な精神分析になったのだ、ということもおもしろい。
 
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