おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR「姉ヶ崎」駅~「木更津」駅。その7。「満地球」。「館山街道踏切」。(「房総往還」をゆく。第4日目)

2020-03-10 18:48:46 | 房総往還
            木更津市マンホールの絵柄。「証城(誠)寺の狸囃子」。

丁字路を右折して木更津市街地へ。
                            正面のおうちはなかなか趣がある。

足下には道標が倒れたまま。

市街地に入っても人通りは少ない。
                    ユニークな社名を発見! 「株式会社満地球」。
 鮑やロブスター(伊勢海老)を中心とした海産物の輸入を行っております。ファミリーレストランや料亭等、業版を対象とした食材を広く取り扱っており、また輸入元は、韓国、ヨーロッパ、カナダ、アフリカ、オーストラリア等世界各国から直接仕入れをおこなっており ...

 私たちの取引先は、地球です。


 株式会社満地球は、お客様に本当にご満足いただくため、地球上の各国から厳選された素材のみを扱い、お客様本位・品質本位に加え、安定供給と高いコストパフォーマンスを追求しております。
 お客様の需要にお応えするため各国との連携を深め、共に市場を開拓する満地球。
 お客様に喜んでいただき、お客様を増やすことだけではなく、わたしたちの商品に関る全ての人を増やすことこそわたしたちの使命。
 わたしたちの取引先は地球、みんなの地球です。
 大きな海、藍に満ちたみんなの地球に育まれた商品をまん中に、笑顔と、愛で満たしたい。
 わたしたちの変わらぬ想いです。これまでも、これからも。

 海と人のまんなか 株式会社 満地球
 (この項、「満地球」HPより)

あまり活発な印象がない通り。
                  お店も閉まっているか、廃業。

左手に「変な花屋」。
派手な飾り付けといろいろなポスター、変わった看板、そしてクルマ。じびき純一さんは木更津市議会議員選挙に出て、惜しくも? 落選した、とか。
クルマ運転席にはクマが。たしかに変わっています。 

「千葉テレビ販売サービス」。
                 「千葉テレビ」関係なのか。テレビの販売なのか?

ダイヤ改正の案内。実態は、路線バスの廃止、縮小のようです。明日(3月1日)から。

沿道には空き地が多く、駐車場が目立つ。
            向こうに大きな「イオンタウン」。
 しかし、街道筋はすっかり廃れてしまった街並み。駅近くなるとますますそんな印象が強く。

街道らしいS字カーブ。

                          振り返る。

「海抜2.8㍍」。

駐車場の奥に古い家並み。

「内房線」、「久留里線」の踏切。

ちょうど「久留里線」の列車が木更津駅を出発したところ。

「第2館山街道踏切」。

 左に折れれば、木更津駅。いったん駅に行き、休憩し、そのあと、木更津駅周辺、木更津港散策へ、と。ところが、そんな思惑は・・・。

この付近の今昔。

1880年代のようす。


2010年代のようす。↓が「房総往還(街道)」。
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JR「姉ヶ崎」駅~「木更津」駅。その6。久留里線。「畳ヶ池」。(「房総往還」をゆく。第4日目)

2020-03-09 19:43:53 | 房総往還
                          旧道らしい雰囲気の道筋。
                           

大きなお屋敷。

落ち着いた街並み。

満開のサクラ。「ヒカンザクラ」or「カワヅザクラ」? 
 

よく見ると、たくさんのミツバチが花びらに群がっています。

来た道を振り返る。

広い敷地の家が目立つ。

                     

農家らしい佇まい。

「久留里線」の踏切を渡ります。

                       

久留里線(くるりせん)
 千葉県木更津市の木更津駅から君津市の上総亀山駅までを結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(地方交通線)である。

概要
かつて気動車王国と呼ばれた房総半島に残る数少ない非電化路線で、千葉県内のJR線では唯一のものである。列車無線が整備されていないため、乗務員との連絡や運転規制の通告は、駅社員を介すか、衛星携帯電話や業務用携帯電話にて行われている。集客イベントとして、スタンプラリーや「駅からハイキング」などのイベントをJR東日本や沿線自治体の木更津市・君津市・袖ケ浦市などが開催している。
 2009年3月14日より全線が旅客営業規則の定める「東京近郊区間」に指定されたが、久留里線内では「Suica」などのIC乗車カードの利用はできない(烏山線・鹿島線も同様)。東京都内からはJR線で一番近いSuica未対応路線である。 一方、全線において、「休日おでかけパス」を利用できる。
路線距離(営業キロ):32.2km[2]
軌間:1067mm
駅数:14(起終点駅含む。うち、無人駅11駅)
全線単線
全線非電化
最高速度:65km/h
久留里線所属駅にみどりの窓口は設置されていない。

歴史
 久留里線は、千葉県が道路事情の悪さをカバーするため、県内各地に建設した県営鉄道の一つで、建設当時は軌間762mmの軽便鉄道であった。建設工事は大日本帝国陸軍鉄道連隊によって、訓練の一環として行なわれた。1922年に制定された改正鉄道敷設法別表第48号の予定線に「千葉県木更津ヨリ久留里、大多喜ヲ経テ大原ニ至ル鉄道」があげられたことから、1923年に国へ無償譲渡され、鉄道省の久留里線となった。1930年には、1067mmへの改軌が完成し、1936年には上総亀山まで延伸されたが、その先へ伸びることはなかった。この延伸区間は、太平洋戦争中の1944年に不要不急線として休止され、戦後の1947年に復活するという経過をたどっている。
 戦後は京葉工業地帯の通勤客が増えるが、それでも閑散線区の域を出ない。しかし将来性が認められて国鉄諮問委員会による赤字ローカル線廃止勧告を免れる。
 なお、予定線の大原側は、木原線(現在のいすみ鉄道いすみ線)として1930年に開業した。

(この項、「Wikipedia」参照)
しだいに木更津市街地に入っていきますが、まだまだのどかな街道。

振り返る。

 その先の左手に桜並木。金網越しにあるのが「畳が池」。
 

水鳥が一斉に飛び立つ。
 房総で挙兵した源頼朝一行が立ち寄った時に、地元の名主が池の周りに畳を敷いてもてなしたことが名称の由来。
また、頼朝がこの池の葦を折って箸の代わりに使った際に唇を切ってしまい、怒って葦の箸を池に捨てたところ、その後この池には葦が生えなくなった伝承も残っています。(この項、「グルコミ」https://rubese.net/gurucomi001/?id=2775087 HPより)

通りの向かいにあるおうち。お城。
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JR「姉ヶ崎」駅~「木更津」駅。その5。木更津無人飛行機試験場。旧道は続く。(「房総往還」をゆく。第4日目)

2020-03-06 20:18:21 | 房総往還
                        「東京湾アクアライン」高架下。
             

 「Google」で確認すると、この道筋に「木更津無人飛行機試験場」という施設があるらしい。どんな所なのだろう? とそんな興味も。

来た道を振り返る。

 ところで件の施設。たしかに広い敷地と洒落た「カフェ」のような建物はありました。写真を撮るのもはばかれる秘密組織? ということはないようですが。


目指したのは日本一快適なドローン専用飛行場
東京湾アクアライン、木更津金田出口下車 5分。都心から35分程度の好アクセス
約10,000㎡の広大な飛行エリアと、設備の整った快適な建物スペースが利用できます。
企業貸:一日一社限定の貸切なので思う存分飛行が可能、また新規開発機体の秘匿性も守られます。
土曜、日曜、祝日の利用もできます。
(この項、「」HPより)

 ドローン専用飛行場、とのこと。企業秘密的な要素もありそうな、ユニークな施設です。

そこを右折すると、住宅地に。旧道? を振り返る。

県道の向こうにも道が続きます。そのまま進みます。

             

カーブなど、旧道らしい雰囲気。

蔵のあるおうちなどが。

                            

                             来た道を振り返る。街道的な雰囲気。

この先で、県道と合流します。

   「通行止」の看板の道が旧道のようですが、途中で行き止まりに。

しばらく県道歩きが続きます。「高柳三角」バス停。

「囲炉裏酒場 炭人」。店構えがよし。

「無添加住宅」という幟にインパクトあり。さて「無添加」とは? 

「東京ガス木更津支店」の先、「三菱自販」のところを右に入ります。

               

静かで落ち着いた道筋が続く。

大きな蔵造りの倉庫。その向こうは県道。



日中戦争で戦死した兵士の大きな忠魂碑。

流れのきれいな小さな水路。西側の水田に流れる。

この付近は、昔から稲作が盛んで、東側の街道沿いに人家が集まる集落でした。
        
        
        
1880年代のようす。                  2010年代のようす。今も西には水田が広がっています。下方は、久留里線。

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JR「姉ヶ崎」駅~「木更津」駅。その4。「KISARAPIA」。旧道?(「房総往還」をゆく。第4日目)

2020-03-05 21:38:58 | 房総往還
                        再開します。

周辺の案内図。←が旧道。 

旧道は道路工事中。

                          

突き当たりの細い道を進み、県道に合流。

                        

「浮戸川」を渡ります。左奥の道が旧道。

河口方向。奥に水門が。

渡ったあと、すぐ左の旧道に入ります。

静かで落ち着いた家並み。

直進すると、土の道。その先は「小櫃川」の手前で行き止まりになります。

「小櫃川」を渡ります。

下流方向。「内房線」の電車が通過中。

電車が通過した後、はるか向こうに観覧車が(↓)。

木更津かんらんしゃパークKISARAPIA(略:キサラピア)
 千葉県の東京湾アクアライン接岸地である木更津市金田東地区に2016年(平成28年)7月1日、高さ60メートルの観覧車を有するアミューズメント施設としてグランドオープンした。三井アウトレットパーク木更津と隣接しており、集客の相乗効果に期待されている。入場は無料。個々のアトラクションに料金が設定されている。
 木更津港(東京湾)を一望できる観覧車を含む八つのアトラクションがあるほか、手ぶらで行けるグランピング(キャンプ)・バーベキュー施設を備えた複合施設「WILD BEACH(ワイルドビーチ)」を併設。
 アトラクションは子供やペット、バリアフリーなどに配慮されたファミリー向けが多い。
大観覧車は、夜にはフルカラーLEDのライトアップが夜景を演出する。
(この項、「Wikipedia」参照)

 

(「KISARAPIA」HPより)

橋を渡ってすぐ左折。先ほどの旧道とつながっているようです。

直線道を進んで、県道に合流。今度は左の細い道へ。
この道が旧道のようです。

すると「通行止」の看板。
                       車のみが通行できないと勝手に判断して、進みます。

        
                                           
1880年代のようす。「小櫃川」の自然堤防伝い。      2010年代のようす。何とかたどれそう。○が県道との分岐点。             
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JR「姉ヶ崎」駅~「木更津」駅。その3。集落内の古道。「奈良輪」。「袖ケ浦」。(「房総往還」をゆく。第4日目)

2020-03-03 19:18:33 | 房総往還
                         金の鯱のあるお屋敷。

集落内の道。昔ながらの小道?

正面に「三界萬霊碑」の道標。
               「左きさらす(木更津)道」、裏面には「是より右江戸道」。元々の位置にあったものか?

右折してみると、かつての海岸線か? 水路もあり。

           
1880年代のようす。街道が右下に。               2010年代のようす。周囲は様変わり。現県道がかつての街道?

ウメが満開。

一方で、昨年の台風被害がそこここに、まだ。   

再び踏切を渡って県道へ。 「神明前踏切」。

県道を振り返る。

「国道16号線」をくぐり、「袖ケ浦」駅に向かう。  

むこうにも台風の爪痕(↓)。

奈良輪」地区に入ります。「奈良輪東町」バス停。

「奈良輪」(袖ケ浦)は、姉崎と木更津の間の継立場でした。

ウメの木。


袖ケ浦市ってどんな所?
袖ケ浦市(そでがうらし)は、東京湾沿い、千葉県のほぼ中央に位置する、人口約6万4千人ほどの市です。
東京湾に面した北西部一帯は埋立地であり、石油製油所などの大規模な工場が立ち並びます。
それとは対照的に、市の中央部には田園風景が広がり、東部はゴルフ場やキャンプ場のある山林があるなど、豊かな自然が残されています。

地名「袖ケ浦」の由来
 古事記によると、相模国からの東征の途中だった日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が、 走水(現在の東京湾)を渡る際に大時化(おおしけ)に遭い、 妃である弟橘媛(オトタチバナヒメ)が海中に身を投じて海神の怒りを鎮め、 日本武尊の渡海を助けたとされています。 その弟橘媛の袖が海岸に流れ着いたという伝説から「袖ヶ浦」と呼ばれるようになりました。 1991年に市制を施行した際、君津郡袖ヶ浦町から現在の袖ケ浦市になり、大きい「ケ」を採用するようになりました。

袖ケ浦市の歴史
旧石器時代~縄文~弥生時代
袖ケ浦の歴史は大変旧く、およそ3万年前の旧石器時代まで遡ります。市内にある遺跡からは土器等が多数発見されており、 住宅跡、小銅鐸(しょうどうたく)、水晶製棗玉(すいしょうなつめだま)などは、当時の人々の生活を知る貴重な手がかりとなっています。
古墳~奈良~平安時代
豪族達が競って古墳を築いた大和政権時代、袖ケ浦でも多くの古墳が造られました。 現在、市内では約500基もの古墳が見つかっています。 7世紀頃政府基盤の整備が進むと、袖ケ浦の人達は「望陀布(もうだぬの)」と呼ばれる良質な布を作り、税として納めていました。
鎌倉~室町~安土桃山時代
現在の袖ケ浦市から市原市をつなぐ鎌倉街道は、当時の武将たちが鎌倉へ馳せ参じる為に使われていました。 現在は「鎌倉街道上総路」と呼ばれ、文化庁・歴史の道百選にも指定されています。 戦国時代に入ると、袖ケ浦にも数多くの城や砦が築かれました。市内には現在も、14ヶ所の中世城館跡が点在しています。
江戸時代
幕府による交通網の整備が進められた江戸時代、袖ケ浦周辺でも房総往還、 久留里往還などの脇往還(脇街道)が整備されました。 現在のJR袖ケ浦駅前付近は、房総往還の主要な宿場「奈良輪宿」として発達しました。
明治時代
明治4年に行われた「廃藩置県」により、袖ヶ浦は木更津県に属します。 その2年後、木更津県と印旛県が合併し千葉県となりました。 現在でも東南アジアやアフリカなどで活用される井戸を掘る技術「上総掘り」が生まれたのもこの頃です。
大正時代~昭和中期
鉄道が開通すると、潮干狩りや海水浴など、東京から多くの観光客が訪れるようになりました。 大正末に海苔の生産が伝わると、海苔の種付けに必要な孟宗竹が豊富だったこともあり、海苔は袖ヶ浦の名産品になります。 戦後は食料難も手伝い、盛んに生産が行われました。
昭和から平成へ
昭和30年(1955)、長浦村・昭和村・根形村が合併して袖ヶ浦町が誕生しました。 高度成長期に入ると海岸が埋立てられ、かつて海水浴場や漁場があった場所には工場が立ち並んでゆきました。 昭和46年(1971)には袖ヶ浦町と平川町が合併し、新生「袖ヶ浦町」となります。 平成3年(1991)、袖ヶ浦町は人口が5万人を超え、市制施行して現在の袖ケ浦市となりました。 近年、1997年の東京湾アクアライン開通に加え、東関東自動車道館山線の開通や圏央道の供用開始などにより、利便性が飛躍的に高まりました。
(この項、「」HPより)

 
   「奈良輪大井戸」交差点。

奥に土蔵造り。

満開のサクラ。

???

大きなお屋敷が並んでいます。

「袖ヶ浦駅入口」交差点。

 駅前広場で小休止。

この付近の今昔。


1880年代のようす。木更津まで内陸部を通る。地図では「西房総街道」と表記されている。奈良輪にまとまった集落がある。塩田が海岸に。



2010年代のようす。上部の東西に流れる水路がかつての海岸線。街道は「袖ケ浦駅」付近で「内房線」から少しずつ離れ、南に向かう。
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JR「姉ヶ崎」駅~「木更津」駅。その2。海岸線の今昔。「ガウラ・ソデリー」。旧道が不明。(「房総往還」をゆく。第4日目)

2020-03-02 21:01:46 | 房総往還
                       かつての海岸線のなごりか? 防砂林・緑地が続く。


「内房線」の向こうに。

海に通じる水路にカルガモ。この付近が河口?

「長浦中学校」手前の役場跡敷地に境界石。

道路際には「沖縄中学決死隊感激碑」が囲いの中に。

この付近の今昔。


1880年代のようす。海岸線のすぐ脇を街道が。現長浦駅付近は、わずかばかりの土地があり、北東に延びています。



2010年代のようす。海側には工業地帯が広がっています。丘陵地帯は住宅地に変貌。北側の水路はかつての海岸線?

JR「長浦駅」に到着。

                    

山側(南側)が住宅地として発展しているようす。

駅前で小休止。トイレに入ろうとすると、イラストが。男性トイレ。

               
ボクの名前はガウラ。「袖ケ浦」で生まれたから、ガウラって名前を付けたらしいガウ。ちょっと安易だガウ。
 なんでも外国の人が「そでがうら」って発音するのを日本人が聞くと「がうら」だけが強く聞こえるみたいなんだガウ。だからってこの名前がきらいじゃないんだガウ。ちょっと複雑ガウ。気難しい年ごろガウ。
 僕は袖ケ浦市のマスコットキャラクターなんだそうだガウ。マスコットってなんのことかよくわからなかったから、辞書を引いてみたんだガウ。そしたら幸運をもたらす人や物のこと、って書いてあったガウ。つまり縁起物ガウ。僕が活躍すると袖ケ浦に幸せがくるガウ。
 でも本当は袖ケ浦だけじゃなくてこのホームページを見てくれた人みんなに幸せがくるガウ。なんだ、僕って結構良いやつガウ。今までぜんぜん知らなかったガウ。
(この項、「袖ケ浦市」公式HPより)

女性トイレ。「妻のソデリー」

息子は、「ウラリー」というとか。

 さて再開。

駅南口、左手の小高い丘は、「蔵波城」跡。

左側は切り立った崖状。

急な上り坂も。

道路に覆い被さるように迫る崖。

                         

 内房線の向こう側に小さな集落があります。街道は、かつてはそのあたりを通っていたのでしょうか?


線路の向こうに渡る踏切を見逃し、線路伝いに進みます。旧道というわけではありませんが。


この付近では、県道との高低差があります。

「本堂踏切」を渡ります。

「袖ケ浦駅」方向を望む。

集落に入ります。 

静かな通り、家並み。

 断定はできませんが、この集落は街道と海岸との間にあり、道も、街道ではなく、集落内の道筋だったようです。

この付近の今昔。

1880年代のようす。街道と海との間に位置する。


2010年代のようす。○付近に神社。
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