Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

それまで

2023年04月02日 06時30分00秒 | Weblog
  「・・・リッカルドと逢引きしていた女は、何と自分の妻だった! 痛恨の呻きをあげるレナートを、サムエルたちは嘲笑う。何事かを決意したレナートは「明朝、自宅に来い」と彼らに告げる。 ・・・
 リッカルドはレナート夫妻を本国に帰すことに決めたことを告げ、今生の別れとばかり、最後の愛の二重唱を歌うが、時すでに遅し! いつの間にか背後にまわっていたレナートが、リッカルドを短剣で突き刺す。会場が騒然となる中、瀕死のリッカルドは、アメーリアの潔白と、レナート含むすべての者の無罪を宣し、胸元から辞令を出してレナートに与える。己の誤解を深く悔やむレナート、リッカルドの寛大な采配を称える一同。やがてリッカルドがこと切れると、「恐ろしい夜よ!」との叫びとともに幕が下りる。

アメーリア(リッカルドに向かって)「私は彼のものです。あなたに命を捧げようというあの人のもの。・・・私はあなたに自分の血を捧げたあの人のものです。
リッカルド「私のいのちは・・・・・・、全世界は、ただひと言のために・・・・・・
アメーリア「憐れみ深い天よ!
リッカルド「愛しているといって・・・・・・
アメーリア「行ってください、リッカルド様!
リッカルド「ただひと言・・・・・・
アメーリア「それでは、あなたを愛しています。」(p51~52)

リッカルド(レナートとアメーリアをイギリスに赴任させる辞令に)「ああ、私は自分の犠牲の上に署名してしまった。ああ私の光である人よ、永遠にあなたを失うことは仕方がないとしても、あなたの思い出は、私の心の奥に秘められて、あなたがどんなところにいようとも、私の胸の高鳴りはあなたのもとに届くだろう。」(p85)

 なんとなく既視感を覚えてしまう三角関係の物語だが、これは、「それから」の逆のストーリーだと考えると腑に落ちる。
 つまり、リッカルド=長井 代助、レナート=平岡 常次郎、アメーリア=平岡 三千代 と置き換えた上で、「仮面舞踏会」においては、相思相愛の仲であるにも関わらず、リッカルド(=長井 代助)はアメーリアのことをあきらめ、自ら身を引くという風にみるわけである。
 そうすると、リッカルドは、いわば”勝負に打って出る”前の優柔不断な長井 代助と言えるから、「仮面舞踏会」は、「それから」ではなく、「それまで」のストーリーだということになるだろう。
 もっとも、両者は設定が決定的に違う。
 一番大きいのは、ライバル関係にある二人の男の関係である。
 「それから」においては、二人は「友」であるが、「仮面舞踏会」においては「主人と部下」となっている。
 後者においては、「主人と部下が一人の女を巡って争う」ということになると、主従関係が崩れてしまう。
 かといって、「主人が、部下の妻を、部下の頭越しに押さえてしまう」というのは最悪の筋書きである。
 これだと、リッカルド-レナート、レナート-アメーリアという「二重分節関係」が破壊されてしまうからである。

 「凡そ<分節>の、特に<二重分節>の、生命線は、A-B-bにおいてAがbを押さえてしまわないことである。これがA-B間の<二重分節>の試金石になる。Bはbを押さえられるとAに屈服するか、自ら存在を抹消する(potlatch)しかない。枝分節の定義である。」(p310)
 
 なので、正当な筋書きとして考えられるのは、「アメーリアがレナートに離婚を申し入れる」といったところだろう(コジマ・ワーグナーがこれに近いか?)。
 何しろ、台本を素直に読む限り、アメーリアが本当に愛しているのはリッカルドなのだから。
 もっとも、これだとオペラではなく、離婚訴訟の物語になってしまうかもしれない。

 
コメント
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