Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

きっと愛、たぶん愛

2023年04月29日 06時30分00秒 | Weblog
 小倉先生の「弱いニーチェ」に出て来た<第三の生命>(あいだのいのち)という言葉に関心(と疑問)を覚えたので、先生のほかの本をいくつか買って読むことにした。
 まず読み始めたのは、「新しい論語」である。
 読み進むうちに、ある決定的な記述に遭遇した。

 「先に述べたように、吉川幸次郎は、仁を「愛情の道徳を実行する意志」だと言った。
 H・フィンガレットは、仁を「人間(十分人間的であるとして)が人間に向け、人間に影響を及ぼす力」だという。フィンガレットはいう。「私には、これにもっともよく対応する西洋のイメージは物理学にあるように思われるーーーヴェクトルである。<仁>の場合、公的時空において行為に働く方向性をもった力のごときものとして想像できる。この力の始点に人があり、力が達する終点にも人がある。もちろん、この力は人間的なものであり、機械的な力を指しているのではない。・・・」
 そう、<あいだのいのち>は、力なのである。」(p78)

 やはり、<第三の生命>(あいだのいのち)、つまり<仁>は、”マハト”のことではないか!
 さらに、H・フィンガレットの説明によれば、<仁>は、フロイトが言うところの ”erweiterten Ich”(拡張された自我)の作用を表現したもののようでもある。

 「愛は、自我が<器官快感>を獲得することによって、欲動の刺激の一部を自体愛的に満足させることができることに由来する。愛は根源的にナルシシズム的なものであるが、その愛は拡張された自我の中に同化された対象にも適用されるようになる。 そして愛は、快の源泉としての対象を求める自我の運動を表現するのである。」(p44~45)
 
 さて、以上を総合すると、やや乱暴だが、<仁>も”マハト”も、"Liebe" (愛)という一言で括ってしまうことが出来るかもしれない。
 フロイト先生であれば、おそらく、「これも愛、あれも愛」、「孔子はんの仁は、『仁愛』と言う言葉があるやろがい?」、「ニーチェはんのマハトは、相手を包み込んで取り入れてまう、パワフルな愛や!」などと断言してくれるのではないだろうか?
 但し、私はここで、<愛>=”自我の相互拡張”であると強調しておきたい。
 こう考えてくると、なんだか、フロイト先生だけが明快な回答を示してくれているようで、珍しい光景を見たような気がする。
 昔、「クイズダービー」で、篠沢教授だけが正解して、みんなが目を丸くしていた場面を思い出した。 
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする