「わたしは、人類がこれまでに想定してきた生命には、ごく大雑把に分けて、三つの種類があると考えている。・・・三つの生命を整理してみると、
<第一の生命>:個別的生命、生物学的生命、肉体的生命、相対的生命、物質的生命
<第二の生命>:集合的生命、全体的生命、普遍的生命、霊的生命、超越的生命、絶対的生命、非物質的生命、宗教的生命、精神的生命
<第三の生命>:「あいだ」的生命、間主観的生命、多重主体的生命、偶発的生命、美的生命」(p39)
<第二の生命>を全否定したニーチェだが、それでは、彼は<第一の生命>に絶対的な価値を置いていたと断言してよいのだろうか?
小倉先生の考えからすれば、この見方は正しくないということになるだろう。
「私たちはこの場合に現実に起こった現象を想像してみるだけで十分であった!生きながら埋められた二人は、土牢のガスに肺をみたされ、二人が一しょに、わるくすれば、二人が前後して、痙攣しながら餓死をとげ、二人の体は腐敗して二目と見られない姿にかわり、土牢のなかには骸骨が二つ横たわるだけになり、どちらの骸骨にとっても一人で横たわろうと二人で横たわろうと問題ではなくなり、それに無感覚になるだろう。」(p527)
生き埋めにされたアイーダとラダメスのその後を描いたものだが、<第一の生命>は、現実にはこういう最期を迎えるわけである。
これを、トーマス・マンがわざわざ書いた理由が重要である。