「PROGRAM ~ ファイヴ・シーズンズ&シェヘラザード ~
5 Seasons & Sheherazade
5 Seasons & Sheherazade
ヴィヴァルディ:四季(『和声と創意の試み』作品8より)
Vivaldi: The Four Seasons
Vivaldi: The Four Seasons
セドラー:日本の春
Sedlar: Spring in Japan
Sedlar: Spring in Japan
リムスキー=コルサコフ(セドラー編):《シェヘラザード》作品35
Rimsky-Korsakov (arr.Sedlar): Sheherazade Op.35」
Rimsky-Korsakov (arr.Sedlar): Sheherazade Op.35」
私は「シェヘラザード」が大好きなので、この単語を聞くと、オーケストラだろうがバイオリンのソロだろうがバレエだろうが関係なく、殆ど条件反射的にチケットを買ってしまう。
このコンサートも、たまたま劇場でもらったチラシの中にあったので、予約しようとしたら、満席に近い状態で、2階席しか取れなかった。
登場した巨漢のネマニャ氏は、松葉杖の痛々しい姿で、座って演奏するのだが、この点について説明は一切ない。
もっとも、演奏自体にはほぼ影響はないようで、弱音と強音のコントラストが絶妙な、さすがの名演であった。
「ドゥーブル・サンス」というのは、ネマニャ氏をリーダー兼ソリストとする楽団で、見るからにみんな仲が良い。
16人による「シェヘラザード」は、個人的な感想では、リッカルド・ムーティ―指揮のシカゴ交響楽団による演奏(“最後の巨匠”ムーティ&最強のヴィルトゥオーソ・オーケストラ!)以上の感動を与えてくれた。
おそらく、少人数だが強い絆で結ばれた演奏家のアンサンブルの方が、大人数のフルオーケストラよりも、”マハト”=「間主観」を成り立たしめる作用が強いのではないだろうか?
つまり、ネマニャ氏&ドゥーブル・サンスと、ムーティー&シカゴ交響楽団とでは、”マハト”に差があるのではないか?
しかも、”マハト”は、演奏者間、演奏者たちと指揮者、あるいは演奏者たち・指揮者と聴衆との間にも立ち現れる。
こういう風に考えてくると、ショパンが、ホールを嫌ってサロンでばかり演奏した理由(ホールとサロン)が分かるような気がする。