「間主観性」というのはフッサールが提唱した概念らしい。
ちなみに、「主観」と「主体」はドイツ語では同じ(Subjekt)だが、前者は「ものを見る主人公」、後者は「実践行為の主人公」という意味合いのようだ(木村敏「心身相関と間主観性」p50)。
確かに、アイーダとラダメスによる「現実美化」は、「間主観」的に立ち現れるもののように思われる。
だが、これを「生命」と呼ぶのは疑問で、素人考えでは、ニーチェの用語であるMacht (マハト)がしっくりくるように思う(これは、ハイデガーの「芸術としての力への意志」という考え方とも親和的である。)。
ちなみに、マハトを「権力」と訳すのは完全な誤訳だと思うし、「力」でもなお誤解を生む恐れがあるので、「マハト」で良いと思う。
この、「間主観」的に作用する、あるいは「間主観性」を生じさせるマハトの究極の姿はどういうものだろうか?
「真に美学的な聴衆の経験を手がかりにして、悲劇的芸術家そのひとのあり方を想像してみると、彼はまず多産な個体の神に似て、いろいろな人物を創造するのであって、その意味では、彼の作品を「自然の模倣」と解するようなことは、ほとんどできないであろう。ーーーしかし次に、彼の途方もないディオニュソス的衝動は、この現象の世界全体を吞み込んでしまい、そしてこの現象の世界の背後で、またこの現象の世界を破滅させることによって、根源的一者のふところにだかれた無上の芸術的な根源的よろこびを予感させるのである。」(p204)
「現象の世界」という言葉から分かるとおり、まだショーペンハウアーを克服しきれていない若いころのニーチェ先生の作品。
「根源的一者」というところで、私などはニヤニヤしてしまう。
あまりにも”パウロ”的だからである。
だが、もちろんこの「根源的一者」が、パウロ的な「永遠・不変・固定」の「神」などではなく、「間主観」的に立ち現れる、常に生成・変化してやまないものとして把握されていることは、他の箇所と併せて読めば分かる。
この、「間主観」を生み出すマハトの究極の姿を比喩的にあらわしたのが「ディオニュソス」(not「神」)であると考えると分かりやすいように思う。