予想したほど客席が埋まっていないので、どうしたことかと疑問を抱く。
客席の会話から察するに、新国立劇場の「アイーダ」と日程がかぶっていて、オペラ愛好家の一部がそちらに流れた模様である。
確かに、オペラを観る/聴くには、お金と時間とそれなりの体力が必要であり、「トスカ」と「アイーダ」を数日のうちに両方鑑賞するというのは難しい人もいるのだろう。
とはいえ、1幕ラストのブリン・ターフェルのド迫力、2幕の「歌に生き恋に行き」は今まで聴いた中ではベストの出来ばえであり、満足度は高いと思う。
さて、「トスカ」と言えば、三島由紀夫はこれを借用して「鹿鳴館」を書いたのではないかという指摘、つまり「パクリ疑惑」が存在するらしい。
「ところで、話はやや横道に逸れるが、『鹿鳴館』は「トスカ」を下敷きにした戯曲ではないかと思われる。・・・それというのも、『鹿鳴館』と「トスカ」にはいくつかの共通点があるからである。
その共通点とは、情の深い女主人公と狡知に長けた男との対決のドラマだという点である。・・・
最後は両作とも銃弾による悲劇となるのだが、この銃弾が”誤配”されるところも共通している。」(p165~166)
なるほど、こういう指摘を読むと、”パクリ疑惑”はもっともらしいように思えてくる。
だが、影山朝子(=トスカ)と清原永之輔(=スカルピア)はかつて愛人関係にあり、清原久雄(=カヴァラドッシ)はその子であるという設定、久雄が故意に撃たれて死ぬところ、最後の銃声が永之輔の自殺を暗示しているところなどは、「トスカ」(スカルピアはトスカが殺害)と大きく異なっており、印象はまるで違う。
それに、セリフの共通点・類似点は、以下の一箇所だけを除いて全く存在しない。
カヴァラドッシ(読む)「自由通行許可証、フローリア・トスカおよび・・・」
トスカ(息を弾ませ震え声で彼と一緒に読む)「彼女に同行する 騎士に宛て。--(カヴァラドッシに対し喜びの叫び声をあげ)貴方は自由なのよ!」(p102)
久雄「あしたの旅立ち、・・・・・・あなたのお母様はこう言っておいででしたね。朝八時四十五分に新橋を発つ汽車で横浜まで行き、横浜で二三日待っていれば、そのあいだにお母様が奔走されて、アメリカか、それとも香港を経てヨーロッパへ行く飛脚船の切符を手に入れて、それを私たちに届けて下さるって。」
顕子「どこか見知らぬ外国で私たちは時をすごして、お父様の結婚のおゆるしをいただけばいいんですわ。」(p75)
総合的に判断すると、おそらく結論は、「パクリとまでは断定出来ない」ということになるだろう。
他方、「星は光りぬ」の前のチェロの二重奏は、殺人行為の直前に意図的に置かれているところだけでなく、メロディからして「仮面舞踏会」と似ており、こちらこそパクリではないかと思われる。