「ツァラトゥストラはこう語った。しかし、そのとき、かれはにわかに、自分をかこんで飛びめぐる無数の鳥の羽音と思われるものを聞いた。------多数の翼のはためき。かれの頭をめぐってのその殺到は、あまりにも激しかったので、かれは目を閉じた。そしてまことに、それは雲のように、新しい敵を目がけて降りっそそぐ矢の雲のように、かれに降りかかってきたのだ。しかし見よ。それは愛の雲だったのだ。新しい友の頭上に降りそそぐ愛の雲だったのだ。」(p529)
「ツァラトゥストラ」の最期の難所「徴(しるし)」の一節で、解釈が極めて難しい。
だが、私は、小倉先生の指摘を読んで、目からうろこが取れたように感じた。
つまり、「無数の鳥」は、ツァラトゥストラが内包する、無数の知覚像をあらわしていると解釈出来るのである。
「さきに述べた<第三の自己>、つまり「あいだの自己」には、哲学的な人間観の土台があるように思える。
それは、わたしが『創造するアジア 文明・文化・ニヒリズム』(春秋社、2011)で語った、多重主体主義(multisubjectivism)というものである。・・・
わたしは、「人間とは知覚像の束である」と考える。・・・
人間は、知覚ではなく知覚像を瞬時瞬時に意識上に生起させて生きている。・・・」(p53~56)
多重主体主義(multisubjectivism)は、小倉先生のオリジナルの用語のようで、おそらく、「間主観性(intersubjectivity)と対を成す概念のようだ。
ここでやや気になるのは、「間主観」に対置するのであれば「多重主観」となるべきところが、「多重主体」となっているところ。
subjektiv の翻訳を巡っては、民事訴訟法学における記念碑的な迷訳、「請求の主観的併合」というものがある(直訳の弊害)。
請求の「主体」の併合とすべきところを、「主観」(的)として違和感を抱かない、恐ろしい感覚なのである。
なので、小倉先生の「多重主体」という言葉にも、ちょっと用心したいと思うのだが、そのためには、「創造するアジア 文明・文化・ニヒリズム」を読まなければならない、ということになりそうだ。