「フランスで今週、トランスジェンダーの同級生をいじめたとされる少年(14)が授業中に逮捕された。いじめに対する取り締まりは同国で広い支持を得ているが、異例の措置に生徒や保護者からは怒りの声が上がっている。」
「政府のオリビエ・ベラン(Olivier Veran)報道官は20日、今回の逮捕は政府のいじめ対策に「従った」ものだと主張。いじめを行っている生徒たちに「非常に強いメッセージ」を送ることが目的だとし、「まん延するいじめを撲滅する手段であり、子どもたちを守る手段でもある」と語った。」
後半の記事からは、逮捕が「見せしめ」として行われたことが推測できる。
これに対し、わが国では、「加害者の人権」という言葉で、以下のような、ズレた議論が出て来ることがある。
「母親は、当時の教頭とのやり取りを克明に記録していました。
「加害者にも未来があるんです」
「10人の加害者の未来と、1人の被害者の未来、どっちが大切ですか。10人ですよ。1人のために10人の未来をつぶしていいんですか。どっちが将来の日本のためになりますか。もう一度、冷静に考えてみてください」」
カント先生だったら、フランス政府が行なった措置に対しても、旭川の中学校の教頭の発言に対しても、「間違っている」と断定するだろう。
いずれも、人間を「手段」として扱っているからである。
「一切の被創造物のなかで、我々が欲しまた意のままに処理しうる一切の物は、手段としてのみ使用され得る。ただ人間だけは、また人間と共に他のいかなる理性的被創造者も、目的自体である、誠に人間は、道徳的法則の主体である。・・・
それだから理性的存在者は、決して手段としてのみ使用せられるものではなく、同時にそれ自身目的として使用せられねばならない、ということである。」(p181)
「見せしめ」にせよ、「1人の被害者の未来よりも10人の加害者の未来の方が大切」(「最大多数の最大幸福」?)にせよ、人間を「手段」として扱う思想に基づいている。
それこそ、「イジメ」に近づく危険のある思想である。
これほどの矛盾に、どうして気づかないのだろうか?