<ケース1>も<ケース2>も、オブジェクト(「物」)を「主体」(animus を備えたもの)と妄想してしまうところは、コッペリウスやプーチンと共通しているようだ(「主体」化、あるいはコッペリウスとプーチン)。
ただ、「エス」の発現形態について、(外界に対する)「復讐」なのか、それとも一種のフェティシズムなのか、という違いがあるだけである。
もっとも、この違いは本質的なものではなく、フェティシズムも(怒りとして表現された)「原初的な拒否」も、実は同一の起源に発しているのだった(おやじとケモノと原初的な拒否)。
さて、「怒り」は、アントニオ・ダマシオによれば、「感情」ではなく「情動」であって、「一次の情動」又は「普遍的情動」と位置づけられる。
そして、「情動」の発生メカニズムには、次の2とおりがある。
「情動はつぎの二つの場合の一つで生じる。第一の場合は、有機体が、その感覚装置の一つを使っていくつかの対象や状況を処理するとき---たとえば、よく見慣れた顔や場所の光景を取り込んだとき---情動が生じる。第二の場合は、有機体の心が、記憶をもとにいくつかの対象と状況を構築し、それらを思考のプロセスの中にイメージとして表象するとき---たとえば、友人の顔とその友人がつい先日死んでしまったという事実を思い出すとき---情動が生じる。」(p79)
私見では、ダマシオが言うところの第一の場合が<ケース1>に、第二の場合が<ケース2>にそれぞれ対応していると思われる。
<ケース1>では、電車のお気に入りの座席に老人が座る映像を少女の感覚装置=目が捉え、「怒り」という情動が誘発された。
<ケース2>では、ある記憶(おそらくトラウマ体験)を基にある人物が攻撃してくる映像が老人の心=大脳の中で構築され、「怒り」という情動が誘発された。
そして、この違いは、フロイト先生が指摘したところの「神経症」と「精神病」(統合失調症)の発症メカニズムの違いにも対応していると考えられるわけである。