この小説の読み方としては、私見では、① まず一読する、② 次に、作者の評論を読む、③ 併せて、この前後に書かれた作者の小説を読む、という作業が有効なのではないかと思う。
この、②と③が、前回述べた「外部参照」の作業となる。
つまり、「『罪と罰』を読まない」ではないけれど、「鏡子の家を読まない」ことが重要なのである。
さて、評論の分野でまず押さえるべきは、作者の書いた小説論の集大成である「小説とは何か」(昭和43~45年)である。
作者の晩年に書かれたもので、「鏡子の家」に直接言及しているわけではないが、稲垣足穂氏の当時の最新作であった「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」について述べた以下のくだりに注目すべきである。
「「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」は、決して寓話ではない。平太郎は単なる平太郎であり、化物は単なる化物である。それは別に深遠なあてこすりや高級な政治的寓喩とは関係がない。人は描かれたとほりのものをありのままに信じることができ、小説の中の物象を何の幻想もなしに物象と認めることができる。実はこれこそ言語芸術の、他に超越した特徴なのであるが、小説は不幸なことに、この特徴を自ら忘れる方向へ向かつてゐる。」(中略)
「「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」に登場する化物どもは、かくて、無数の現代小説にあらはれる自動車や飛行機や、女たらしのコピー・ライターや、退屈した中年男や、小生意気な口をきく十代の少女たちと、全く等質同次元の存在であるが、化物のはうがより明確でリアルな存在に見えるとすれば、それだけ深く稲垣氏のはうが言葉といふものを信じてゐるからである。そしてもしこれが寓話であつたら、読者はもはや化物を見ることはおろか信ずることもできず、言語芸術の本源的な信憑性は失はれて、そこには物象乃至人物と抽象観念との、邪魔な二重露出がいつも顔を出すことになるだろう。」(「決定版 三島由紀夫全集 第34巻」p698~699)
「寓話」(寓喩)、「物象乃至人物と抽象観念との、邪魔な二重露出」というキーワードに注目すべきである。
これは、決して村上春樹氏の小説に対する批判ではない!
当時、彼はまだ作家としてデビューしていないからである。
この批判は、私見では、自作である「鏡子の家」に対して向けられたものであり、いわば「自己批判」である。
なぜなら、「鏡子の家」においては、登場人物をはじめとする「物象乃至人物」について「寓話」(寓喩:アレゴリー)が多用されており、「物象乃至人物と抽象観念との、邪魔な二重露出」が出現しているからである。