Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

安心を与える人(2)

2022年09月10日 06時30分12秒 | Weblog
英エリザベス女王死去 96歳 在位70年
 「新型コロナウイルス感染拡大直後の2020年4月には、「私たちが団結し、強い意志を持ち続ければ、病を必ず克服できる」と国民を励ますテレビ演説を行い、英国内で約2400万人が視聴。危機の際に国民をまとめる存在感を世界に示した。

 「安心を与える人」の代表とも言うべきエリザベス女王が亡くなった。
 ちなみに、私見では、こういう場合に「共苦」という言葉を使うのはOKだと思う(「共苦」の正体)。
 こういう方の例を見ると、女系天皇に反対する理由が見つからないと思うのだが、”自民保守系”が力を持っている限り、実現するのは難しいだろう。
 合掌。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パンク状態は続く

2022年09月09日 06時30分46秒 | Weblog
【弁護士雑感】新型コロナウイルスによる裁判への影響(弁護士法人橋下綜合法律事務所)
 「家庭裁判所では、いわゆる「調停」手続きが事件処理の多数を占めることとの関係上、地方裁判所のように事件の審理をテンポアップするということが困難です。・・・
 そのため、家庭裁判所においては現在でも大量の事件を処理しきれておらず、上記のように1コマあたりの時間を短くしながらも次回期日まで2か月以降の間隔を余儀なくされるという事態が続いています。


 10年ほど前、ある離婚訴訟で当事者尋問の申し出をしたところ、裁判官から、「申し訳ありませんが、証拠調べ期日を入れるのが難しい状況です。双方代理人の先生が『反対尋問は不要』というご意見であれば、陳述書だけで判決を書きたいと思いますが、いかがでしょうか?」という電話がかかってきた。
 それまで、離婚訴訟で当事者尋問を行うことなく判決に至るケースを経験したことがなかったので、私はかなり驚いた。
 証拠調べ(尋問)期日を確保するのが物理的に難しいという説明だったのだが、当該事案では、離婚すること自体に争いはなかったこともあり、尋問を行うことなく判決が下された。
 同じころ、弁護士会の研修などで、「東京家裁の家事6部は、事件数が膨大なために『パンク状態』に陥っている」という指摘が、公然と行われるようになった。
 その状況は、今も続いているようで、裁判官は、単独事件だけで250~300件の事件を常時抱えているようである。
 上に引用したのは大阪家裁の実情についての記述と思われるが、都市部の家裁は似たようなものだろう。
 橋下先生も指摘するように、コロナ以降、離婚調停事件の遅延・滞留が著しいので、おそらく、「パンク状態」は今後も続き、さらに深刻化するおそれがある。
 対して、こういう状況に、最高裁はなかなか増員で対応するということをしない(出来ない?)ので悩ましい。
 離婚事件で激しく争われるのは親権と財産分与だが、前者については、共同親権の制度化によって争点として消滅することが期待されていた。
 だが、どうやら自民保守系(統一教会系?)に反対意見が強いらしく、難航している(離婚後の共同親権、法制審が試案取りまとめ延期 自民保守系が反発)。
 「パンク状態」の解消のためには、自民党内の改革も必要なのではないだろうか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

うしなわれたマイ・スイート・ホーム

2022年09月08日 06時30分54秒 | Weblog
竹内まりや「Quiet Life (30th Anniversary Edition) 」開封動画
 「バブル期まっただ中に作っていたこのアルバムのテーマを、あえて「静かな生活Quiet Life」にしたのは、その頃私自身が世の中に対して感じていた違和感へのささやかなアンチテーゼであったと同時に、浮かれ騒ぐ風潮に巻き込まれることなく、ごく普通の穏やかな生活を営みながら音楽を作り続ける自分でいたい、という姿勢の表明でもありました。

 Quiet Life がリリースされたのは1992年、バブル末期である。
 竹内まりやさんは、その頃の「浮かれ騒ぐ風潮」に違和感を感じていたというが、30年経ってみて、その正体が明らかとなった。
 冒頭の曲は、「家(うち)に帰ろう(マイ・スイート・ホーム)で、当時のドラマ「木曜日の食卓」の主題歌である。
 騒がしい街を逃れて静かな「家」で過ごそうというのが、バブルへの抵抗手段の一つであった。
 だが、バブルの名の下に進行していたのは、「新階級社会」、分かりやすく言うと、「家を持てる正社員」と「家を持てない非正規社員」との階層分化だったのであり、別名「自己犠牲強要競争」だったわけである。
 今や多くの若年・中年層が、「マイ・スイート・ホーム」という逃避の場所すら失っているという、惨憺たる状況である。
 ・・・そういえば、リリースの約一週間前に、「木曜日の食卓」で”二世帯家族”(なんと昭和的な言葉!)の家長を演じていた古谷一行さんが亡くなっていた。
 二世帯家族などという、サザエさん的な世界は、もはやドラマかアニメの中にしか存在しないようだ。
 古谷さんに合掌。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

関根勤しかいない世界

2022年09月07日 06時30分00秒 | Weblog
水ダウ「次は化け物」紹介で板尾創路が登場 関根勤選手権V最右翼もラストにやらかす
 「そして始まった板尾の挑戦。「フェレットを飼っている」「家の前がバス停」「座右の銘は金輪際」など、短文での紹介に関根は大笑いするも、最後に「2025年には祖国が海に沈みます」と紹介してしまったことから「ダメです!これは。こんなマイナスなこと…」「出ちゃった、結局我慢できずに板尾ワールド」と1点採点。関根勤選手権では、人を傷つける言葉やマイナスイメージの言葉は絶対タブーであることから、これで優勝を逃し、飯尾の連覇が決まった。

 TBSの藤井健太郎プロデューサーのつくる番組はどうやら私の”ツボ”のようで、彼が手掛ける番組には注目している。
 今で言えば、何といっても「水曜日のダウンタウン」だが、なかなかじっくり視る時間がない。
 上に引用した回も視ていないのだが、「関根勤選手権」という切り口が斬新である。
 近年、対象となる人を傷つけたりネガティヴな言葉で評したりすること、つまり「イジる」ことによって笑いをとることが盛んだが、これはやはり悪趣味だし、後味が悪い。
 「関根勤選手権」はそのアンチテーゼであり、「相手をイジらなくても、良質の笑いをとることが出来る」ということを実証したのである。
 「人を傷つける言葉やマイナスイメージの言葉を使わない」というだけで、争いごとは大幅に減るのではないだろうか?
 もし仮に、世界中が関根勤氏のような人間に満ち満ちて、「関根勤しかいない世界」が出現したとすれば、その時おそらく、あらゆる街角で笑い声が絶えなくなるだけでなく、人類史上初めて世界平和が実現されることだろう。
 ウクライナのゼレンスキー大統領がコメディアンであったことは有名だが、私などは、関根勤氏には、日本初のコメディアン出身の総理大臣になって欲しいと思うのである。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一点だけ盛り合わせ演奏会

2022年09月06日 06時30分31秒 | Weblog
ミューザ川崎ホリデーアフタヌーンコンサート2022後期《詩情》 ジャン・チャクムル ピアノ・リサイタル

 売れ行き好調のためチケットが当日発券ではなく事前発送となったシリーズのトップバッターは、2018年浜松国際ピアノコンクールの覇者、ジャン・チャクムルである。
 私が彼の演奏を聴くのはこれが2回目。
 1回目は、紀尾井ホールで行われた第10回 浜松国際ピアノコンクール入賞者披露演奏会で、見た目のとおり繊細なピアニストというイメージである。
 今回はヒゲをはやして登場したが、若き日のブーニンを彷彿とさせるものがある。
 さて、曲目を見るに、”前菜”のモーツァルトは別として、シューベルト、ショパンという、「ロマン派のピアノ曲」というテーマで括れそうな選曲である。
 だが、ラストのジョルジェ・エネスク「ピアノ・ソナタ第3番 二長調」が異彩を放っている。
 解説によれば、「ルーマニア民族音楽の影響が強く映し出されている」そうであるが、これだと「盛り合わせ音楽会」(盛り合わせ禁止)と言われてしまいそうである。
 チャクムルさんのために弁解しておくと、彼は、「国境なきピアノ曲」というCDを出していて、祖国ルーマニアからパリに逃れたエネスクの曲もこれに収録されているのである。
 こういうたぐいの、「一点だけ盛り合わせ」であれば、丸山先生も許して下さるのではないだろうか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

代償を求めない

2022年09月05日 06時30分20秒 | Weblog
牧阿佐美追悼公演 「飛鳥 ASUKA」(全幕)
 「舞台は、いにしえの大和の都・飛鳥。美(芸術)と権威の象徴として人々の信仰を集める竜神と、竜神に仕える舞殿の中でも特に美しく一番の舞の手であった、春日野すがる乙女。
 すがる乙女は竜神に舞を奉納する舞女の栄誉を与えられますが、それは竜神の妃として捧げられ、二度と地上に戻れないことを意味します。すがる乙女は終生を芸術の神に仕えることを決心します。
 一方、幼なじみの岩足は、美しく成長したすがる乙女の舞を見て思いを抑えることができず、春を告げるこぶしの花と共に愛の心を伝えますが時すでに遅く、すがる乙女は竜神と共に昇天してゆきました。


 牧阿佐美先生の追悼公演。
 だが、しばらく前に同じ東京文化会館で観た・聴いた「パルジファル」を思い出してしまう。
 飛鳥の人々は、乙女を竜神に捧げることによって「権威と権勢」を手に入れる。
 ここで既に réciprocité (レシプロシテ:互酬性、相互依存)の構図が出ている。
 すがる乙女は「権威と権勢」の代償であり、 échange (エシャンジュ)の客体とされたことが明白である。
 対する岩石(いわたり)は、すがる乙女に「こぶしの花」」を捧げようとするが、「花」は周知のとおり、「代償を求めない」贈り物であり、échange の対極にあるもの(ここでは「愛」)を象徴している。
 ・・・という風に、この物語には、(集団間での)人身供犠と、それに対する(個人の)抵抗という、普遍的な構造があらわれているのである。
 だが、「パルジファル」と同じく人身供犠がテーマではあるものの、「パルジファル」がréciprocité (ないし人身供犠)についておよそ批判的でなかったのに対し(「共苦」の正体(2))、「飛鳥 ASUKA」は全くそうではない。
 作者は、おそらくギリシャ神話(特にソフォクレス)や「ウェルギニア伝承」にシンパシーを感じるタイプの人間ではないかと思う。
 ・・・まあ、いずれにしても、東京文化会館という所は、人身供犠が繰り広げられる「カマリナ沼」のようなところだ。
 改めて牧阿佐美先生に合掌。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再生のための全否定

2022年09月04日 06時30分31秒 | Weblog
第15回 渋谷の午後のコンサート 〈コバケンの名曲アラカルト〉
 コバケン先生「10歳のときにベートーヴェンの第九を聴いて、涙をポロポロ流して感動しました。そして、作曲家になりたいと思って、夜も寝ないで作曲の勉強をしてきました。・・・ところが、その頃(東京芸大作曲科に入った頃)、『現代音楽』などという得体のしれないものが流行っていて、『私にはこんなものは必要ない!』と思って、東京芸大の指揮科に入り直したんです。

 このくだりのところで、私は思わず爆笑した。
 コバケン先生の「現代音楽」に対する全否定が、余りにも清々しかったからである。
 この言葉を発したときの先生の身振りからは、「現代音楽」に対する生理的な嫌悪感があふれ出ていた。
 コバケン先生のような妥協を許さぬ芸術家に限らず、一般の人でも、退学・転学、転職や離婚などの環境を一変させるような人生の転機においては、「生理的な嫌悪感」を覚えるかどうかが決め手なのではないかと思う。
 そして、こういう「全否定」が、再生のために必要な場合もあるのではないかと思うのである。
 ・・・「コバケン先生」と言えば、「木庭顕」先生も、「コバケン」先生と読めなくはないことに気付いた。
 お二人は、風貌も似ている(似てきた)し、「マエストロ」の称号がふさわしいところや、話し出すと止まらないところもそっくりだし・・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二世問題

2022年09月03日 06時30分55秒 | Weblog
旧統一教会、現行法で対応 葉梨康弘法相インタビュー
 「「2世(信者)」については、財産権だけでなく、虐待や子供の親権をどうするかという問題もある。厚生労働省など関係省庁が連絡を取って幅広く相談に応じなければいけない。9月の初旬から集中相談期間も始まるので、被害の状況をしっかり見ていきたい。

 旧統一教会の件でクローズアップされた「二世(三世)問題」。
 法相が指摘するように、「親権」(の濫用)、「虐待」というカテゴリーに入る事案もあると思う。
 怖いのは、知らず知らずのうちに親の価値観が子どもに刷り込まれてしまう事態である。
 これについては、例えば、「親は、●●歳未満の児童を、特定の宗教的施設に立ち入らせたり宗教的行事に参加させたりしてはならない」などといった制度を設けることも考えられる。
 ところで、「二世問題」は、おそらくカルト的な宗教だけではなく、基本的には、キリスト教や仏教のような従来型の宗教にも当てはまることだろう。
 というのも、イングマール・ベルイマン監督のように、父親が牧師で、その権威(あるいは親権)を振りかざして、家族に虐待を行っていたような例もあるからである。
 ベルイマン監督は、幼いころからその被害を受けていたらしいのだ。

ベルイマン生誕100年映画祭
 (町山智浩氏)「ベルイマンのテーマは『神の沈黙』である」と、よく言われます。なにやら難しく偉大な芸術家の大先生のように聞こえますが、そうではないと思います。ベルイマン本人はコンプレックスと欲望に勝てないダメな自分を映画のなかで赤裸々にさらけ出してきた人でした。厳格な牧師の息子に生まれ、母を虐待する父を憎み、それが神への不信になりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

玉虫色のお金

2022年09月02日 06時30分02秒 | Weblog
<独自>「森元会長に200万円」青木前会長供述
 「関係者によると、青木容疑者は調べに対し、2回に分けて森氏に現金を直接手渡したと供述。趣旨については「がん治療をしていた森氏へのお見舞いだった」としている。

 故田中森一氏の”迷言”に、こんなものがある(表現は私流にアレンジした)。

 「政治家に賄賂を渡す場合には、小分けにして時間をかけて渡すとよい。そうすると、金銭と職務との対価性が不明確になり、検察が起訴をためらうだろう

 例えば、スポンサー決定の直前に高橋氏に1000万円を渡すとすれば、賄賂であることが明白になるが、髙橋氏が主宰する会社に「顧問料」名目で長期分割で交付すると、「賄賂」という認定に障害が生じる。
 森元首相への現金交付についても、やはり賄賂性、とりわけ金銭と職務との対価性が争点となるものと思われるが、青木氏は、おそらくこうした点を熟知していて、あえて2回に分け、「お見舞い」という名目(もちろん、後付けの説明かもしれないが)にして金銭を渡したものと思われる。
 こういう風にすると、金銭の趣旨があいまいになり、「玉虫色のお金」になってしまうわけである。
 東京地検は、これにどう対処するのだろうか?
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神様の教訓

2022年09月01日 06時30分54秒 | Weblog
稲盛和夫氏が京セラを世襲にしなかった理由 「自分の子どもに厳しい経験をさせることはできない」〈dot.〉
 「―稲盛会長は、京セラを世襲にされませんでした。なぜでしょうか?
 一つ目の理由は、子どもが娘だけだったからです。二つ目の理由は、京セラは全従業員の幸福を追求するための会社で、稲盛家のものではないからです。三つ目の理由は、世襲してもうまくいくわけがないと思ったからです。
―なぜですか?
 私自身、もともと経営者の素質があったというよりは、必死に会社経営をしていく中で、厳しい環境に育てられました。そこで経営者としての技量や人をまとめていく力を身につけていったと感じています。苦労していない人間が、世襲制で後を継いだとしても、それは私のDNAを引き継いでいるだけのことです。


 カリスマ的経営者である稲盛和夫氏が亡くなった。
 こういう人は大事なポイントを決して外さないのだが、上に挙げた「非世襲主義」という教訓はまさにそれだろう。
 「経営者の資質はDNAによっては承継されない」という当たり前のことを指摘しているが、そうでない経営者(政治家、医者、弁護士も!)がなんと多いことだろう。
 もっとも、こうした話を「稲盛塾」でもなさっていたのかどうかまでは定かではない。
 「若手経営者」には、二世・三世が多いので、塾生から反感を買ってしまいそうだからである。
 合掌。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする