Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

ピューリタニズムと抗命義務

2023年12月21日 06時30分00秒 | Weblog
 「アイバ・トグリ(戸栗郁子)は1916年にアメリカで生まれアメリカで育った日系二世。日本語の教育を受けることなく1920~30年代のアメリカで青春を過ごした。叔母の見舞いのために25歳で来日し、すぐに帰国するはずが、時代は第二次世界大戦へと突入、アメリカへの帰国も不可能となってしまう。そこでアイバは、母語の英語を生かし、タイピストと短波放送傍受の仕事に就く。戦争によって起こる分断や、離散、別れ。多くの人々を襲った不幸がアイバ自身とその家族の身にも降りかかる。
 やがてラジオ・トウキョウ放送「ゼロ・アワー」の女性アナウンサーとして原稿を読むことになったアイバ。その女性たちをアメリカ兵たちは「東京ローズ」と呼んだ。終戦後、アイバが行っていたことは、日本軍がおこなった連合国側向けプロパガンダ放送であったとされ、本国アメリカに強制送還され、国家反逆罪で起訴されてしまう。

 終演後、観客の一人が「厳しい人生だったな」と呟くのが聞えた。
 全く同感で、自分がアイバだったらとても耐えられないと思う。
 アイバが勤めていたラジオ・トウキョウを実質的に支配していたのは参謀本部に属する軍人(常石少佐)である。
 したがって、彼に睨まれれば大変な目に遭うことは必至である。
 そんな中でも、アイバはGIを音楽で励まそうとひそかに抵抗を試みていた。
 ところが終戦後、彼女はアメリカにおいて「国家反逆罪」の罪で有罪とされ、約7年間服役することとなる。
 どうやらこれは冤罪の可能性も高いのだが、彼女はあきらめることなくアメリカ国籍を求め続け、最後にはフォード大統領による特赦を勝ち取ったのである。
 一連の事実経過を見ると、「生きて虜囚の辱めを受けず」という日本とは異なり、アメリカ世論は「生きて、かつ反抗せよ」と命じているように見える。
 つまり、アメリカ国民に対して「抗命義務」を課しているわけである。
 これは、何となく、広田弘毅に対するGHQの厳しい見方に通じるところがあるように感じる。
 「落日燃ゆ」を読んでいると、彼はほぼ戦争には加担しておらず、”冤罪”であるかのように思えてしまう。
 だが、GHQはそのようには見ておらず、ジョージ・サンソムのように、軍部大臣現役武官制の復活を許した、つまり、極めて重要な局面で軍部への「抵抗」を怠った人物として、A級戦犯とされるのは当然という見方が強いようなのだ(時限爆弾)。
 こうした「抗命義務」を重視する考え方は、私見では、どうもアングロ・サクソンのピューリタニズムと結びついているように思える。
 そういえば、Wikipediaの「良心的兵役拒否」に、以下の記述があった。
  「良心的兵役拒否の現代における思想は、「すべての者は神の御前で個々の行動に対して責任を負う」というプロテスタントのキリスト教信仰に起源を有している。それゆえに最初の拒否法の規定が、1900年にキリスト教のプロテスタント教国のノルウェーで紹介されたことは驚くべきことではない(デンマークとスウェーデンが1917年と1921年に後に続いた)。

 「抗命義務」は、神に対する義務という位置づけなのだろう。
 そうすると、「生きて虜囚の辱めを受けず」という日本の思考にも何らかの宗教的な基盤があるのかもしれない。
 
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「山師」としてのエイジェント

2023年12月20日 06時30分00秒 | Weblog
 「郵便料金の大幅な値上げ方針が18日示された。総務省は、現行料金のままでは4年後に日本郵便の郵便事業の赤字が3000億円超に膨らむと見込む。ただ、想定通りの値上げが実現しても2026年度には再び赤字となる見通し。今後も郵便物の増加は見込めず、郵便事業を維持するには抜本的な対策が必要になる。

 決定的な破綻の前には、だいたいその予兆があるものだ。
  私見ではあるが、この企業グループは、このままでは破綻に至る可能性が高く、今回の件はその予兆の一つであると思う。
 破綻に向かう企業がよくやる「自滅策」は、「有休資産の売却と人員削減によるリストラ策」あるいは「特に理由のない主力製品の値上げ」であり、無能な経営者(特に銀行OB)においては定番の「経営改善策」といってよい。
 このやり方だと、顧客がだんだん離れていき、先細り型の破綻となるケースが多い。
 これとは対照的に、「一発当ててやろう!」というタイプの経営者が破綻の契機をつくることもある。
 いわば「山師」型の経営者である。

 「日本郵政は豪州の物流会社トール・ホールディングの資産を洗い直し、4003億円の損失(減損処理)を明らかにした。鳴り物入りの「戦略的買収」は、わずか2年で財務を揺るがす「お荷物」と化し、日本郵政の2017年3月期決算は赤字に転落する。
 「疑惑の買収」を主導したのは当時社長だった西室泰三氏。東芝を泥沼に引き込んだ米国の原発メーカー・ウエスティングハウス(WH)の買収を画策した人物だ。
 法外な値で海外企業を買い、やがて損失が露呈し、カネを外国に吸い取られる。そんな経営者が財界の顔役となり、老いてなお巨大企業を渡り歩く。日本の産業界は一体どうなっているのか。
 
 トールの買収失敗で生じた損失(実額)は6000億円以上にのぼるとされており、これは年賀状売上げの4年分に近い。
 この問題の根底に「私物化」(「私」による「公」の潜奪(1))があることは明らかだが、それだけでなく、経営者/経営陣の選抜の問題もあると思う。
 法人において、委任のロジックにより、経営者/経営陣は「エイジェント」の地位にあるわけだが、この国(の一部)には、「私物化」を極端な形でやってしまうような「山師」型の経営者を、あえて「エイジェント」として担ぎ上げるシステムがあるのかもしれない。
 その方が、「私物化」をやり易いという理由があるのかもしれない。
 トールの失敗について、意思決定過程を検証することはもちろん重要だが、それ以前の問題として、「山師」型の経営者を「エイジェント」に担いでしまうシステムを解体する必要がありそうだ。
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忖度、手打ち、本気(3)

2023年12月19日 06時30分00秒 | Weblog
 「自民党派閥の政治資金パーティーを巡る問題で、最大派閥の清和政策研究会(安倍派)が10年以上前から、ノルマを超えたパーティー券収入を議員側にキックバック(還流)するシステムを続けていた疑いがあることが判明した。同派に所属している複数の議員秘書が毎日新聞に証言した。2000年代から続いていたとの情報もあり、東京地検特捜部も経緯を調べているとみられる。

 échange が怖いのは、何といっても対価関係が不明確で、場合によっては対価が「無制限」となる場合もあることである。

 「échange、réciprocitéという道具概念に意味があるとすると、この相互干渉関係が agnati 相互間のそれとは区別され、限界づけられたものであり、少なくとも一方の負担は無際限ではない、ということを明らかにしうることにおいてである。しかし他方にとっては無制限であり、かつ、双方にとって選択的ではない。」(p94)

 「手心を頼む」というのが「無制限」に続くというのは怖い状況である。
 だが、私見では、échange の主体が不明確である点も重要だと思う。
 というのは、両集団の”首領”たちの間で取り交わされた「取引」は、”首領”の失脚、死亡あるいは代替わりの際の引継ぎの失敗などにより、反故にされてしまう可能性があるからである。
 すなわち、「取引」に関与した一方の集団の”首領”が失脚、死亡あるいは代替わりの際に「取引」の内容・成果物を後継者にうまく伝えなかったことなどによって「取引」が事実上失効した場合、両集団間の上下関係は消滅し、給付は途絶えることになるだろう。
 そうすると、例えば、一方の集団が他方の集団に対し「手心を加える」(=給付)ことはなくなってしまうかもしれない。
 これに対し、他方の集団において、集団の存続が危うくなったと認識した場合には、例えば、相手方集団のスキャンダルの暴露、人事権行使の警告(例「これ以上やればあいつを検事総長にしないからな!」)、さらには乾坤一擲の手段、すなわちポトラッチに打って出る可能性がある。
 ・・・かくして私は、(清和会から猛烈な圧力を受けた政権が、政権崩壊を覚悟の上で)”指揮権発動”というポトラッチを繰り出すかどうかについても、一応は注意しておこうと思うのである。
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忖度、手打ち、本気(2)

2023年12月18日 06時30分00秒 | Weblog
 さて、三井説の前提となっている「検察の裏金問題」であるが、裁判所も判決で一部認定しているし(三井環事件)、三井氏以外の複数の関係者もその存在を認めているようなので(ザ・スクープ もうひとつの裏金疑惑)、少なくとも過去において存在していたということなのだろう。
 だとすれば、検察の裏金問題について、当時の法務・検察幹部と自民党政権との間で「取引」、つまりéchange が行われたという「三井説」の前提自体は、一応信用してよいだろう。
 だが、ここで注意が必要なのは、échange の主体(誰と誰の間で?)と、その態様(何を・どういうやり方で?)という点である。
 主体の点については、法務・検察の幹部(検事総長や官房長など)は分かるとしても、自民党政権側の主体が誰かを特定するのは容易ではない。
 ただ、少なくとも、こうした「取引」を自民党全体で共有することは考えにくい。
 なぜなら、自民党議員は、周知のとおり基本的に派閥単位で集団を形成しており、党はその寄り合い所帯に過ぎないからである。
 なので、自民党政権側は、やはり清和会首脳クラスだけが「取引」の主体となっており、平成研究会をはじめ他の派閥(さらに清和会の中堅以下)はこの取引では蚊帳の外に置かれたとみるのが自然だろう。
 態様の点について言えば、三井説で言うところの「封じ込め」とは何であるかがそもそも問題である。
 これについては、普通に考えれば、この件を国会で取り上げない、例えば、法務・検察幹部に対する証人喚問などをしないということが考えられる。
 ちなみに、この取引が書面で行われたということはないだろう。
 のちのち書面が表に出てくればとんでもない騒動に発展してしまうからであり、特に法務・検察はそんな危ないことは決してしないはずである。
 そうなると、自民党政権側は、あくまで口頭で「この件は表沙汰にしない。与党側から証人喚問はしないし、野党にその動きがあれば国対が止めるから」などと、ごく少数の相手方に対して伝えた、ということなのかもしれない。
 もちろん、その代償として、「今後何かあった場合には捜査に手心を加えてくれ」という要求があるはずだが、これも言語化するのは野暮というものである。
 かくして、当面は、両者の間に「平和」(均衡)が訪れたのかもしれない。
 実際、その後、自民党の大物議員が特捜に逮捕されるような事件は見当たらない。

 「特捜検察には特に大きな問題がある。しかも、その特捜検察を看板にして社会的に存在価値を維持してきたのが、これまでの検察だった。だから看板を維持しようと思って無理が起きる。その無理が限界に近づきつつある。
 たとえば2000年以降、特捜が手がけた事件で胸のすくような成果を上げたというものはほとんどない。もう無罪判決が出たものもあるし、無罪判決に至らなくても実質ほとんど負けではないかという事件がたくさんある。特捜検察は限界にきているといって間違いがない。
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忖度、手打ち、本気(1)

2023年12月17日 06時30分00秒 | Weblog
 「実は2023年1月、衆院議員だった薗浦健太郎氏が複数の政治資金パーティーの収入を収支報告書に記載しなかったことで、政治資金規正法違反の罪で略式起訴され、罰金100万円・公民権停止3年の略式命令が確定しました。  
 このときの金額が4000万円だったので、『4000万円以下なら逮捕や起訴はない』というふうに捉えられています。いわば『薗浦基準』というべきものです」(自民党関係者)  
 元大阪地検検事の亀井正貴弁護士は、14日放送の『スーパーJチャンネル』(テレビ朝日系)で、「数百万円から1000万円ほどであれば起訴しないという前例ができている」とした。だが、明確な基準はないそうで、「不記載が1000万円程度なら、起訴されずに収支報告書を書き直して終わりになる可能性が高い」としている。

 三井環事件の際、三井氏によれば、法務・検察は、裏金疑惑の封じ込めに際し自民党に「借りを作った」という(これを仮に「三井説」と呼ぶとしよう。)。
 ここでいう自民党とは、おそらく当時の首相や官房長官(いずれも清和会)あたりではないだろうか。
 三井説によれば、法務・検察は、自らの”裏金疑惑”を清和会幹部に握られているため、清和会関係者の捜査について「忖度」してきたという推論が出来そうである(互酬性?)。
 このため、清和会を主なターゲットとする今回の裏金疑惑の捜査について、私は当初意外の感を抱いたのだ。
 もっとも、今回の事件は、東京地検特捜部が独自に捜査を開始したのではなく、捜査の端緒は「告発」である。
 なので、これを受けた検察としては、嫌疑がありそうであれば捜査を行うということになり、ここに「忖度」が働く余地は少ないだろう。
 また、週明けにも強制捜査が予想されるということなので、少なくともガサ入れ(捜索差押)は行うだろう。
 問題は、その後検察が議員の逮捕を行うか、また、その後の処分がどうなるかである。
 逮捕をすることなく報告書の記載訂正で不起訴にしてしまうようなら、「忖度」が働いたとみてよいと思う。
 事務方(秘書)の逮捕・起訴であれば、自民党と法務・検察との「手打ち」があったという見方が出来そうだ。
 そのいずれでもなく、議員本人を逮捕し、略式起訴ではなく公判請求を行うということであれば、一応「本気」と見てよいように思う。
 ・・・さて、どうなりますことやら?

 
 
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4000万円の響き

2023年12月16日 06時30分00秒 | Weblog
 「“ピアノの魔術師” フランツ・リストによる2台ピアノ版で再現される、ベートーヴェンの最高傑作。
 オーケストラをもしのぐ圧倒的なピアノの響きで、会場を熱狂へと誘います!

 そろそろ「第九」の季節だが、2台ピアノ版の「第九」というのも面白い。 
 清水さん×髙木さんのデュオは、ARKシンフォニエッタ GALA第1夜 で一度聴いているが、この時はモーツァルトの可愛らしいコンチェルトだった。
 今回はリスト編曲の「第九」なので、さすがに”音(音符)がいっぱい!”というのは事前に予測出来た。
 ちなみに、グールドもリスト編曲の「運命」をリリースしているが、これはソロ演奏である。
 意外に感じたのは、第2,3楽章は「ダンス」をモチーフにしているとみられることで、これはオーケストラの演奏だと見逃してしまいそうである。
 編曲もひねりが利いていて、第3楽章は、「こんな曲だったかな?」と思わせる編曲で意表を突く。
 もちろん目玉は第4楽章。
 2台のピアノで、オーケストラも4人のソロ歌手も「合唱」までも表現するという離れ業で、終演後はブラボーの嵐であった。
 ここでちょっと下世話な話題をすると、使用された2台のスタインウェイの値段が気になったので調べたところ、2台で3000~4000万円くらいしそうである(スタインウェイ&サンズ 新品ピアノ価格)。
 先日ブーニンが弾いていたのはファツィオリだが、これも1台1000万円を超えているようだ(ファツィオリのピアノのお値段)。
 ちなみに、ツィメルマンは、アメリカの航空当局によって愛用のピアノを没収・破壊されたらしい(アメリカに抗議するツィメルマン)。
 彼は愛用のピアノをコンサート会場に持ち込むくらい楽器にこだわるピアニストなので、これはプライスレスな次元の問題なのだろう。
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「子守歌」としての無旋律音楽

2023年12月15日 06時30分00秒 | Weblog

 3年前にブリテンの「夏の夜の夢」を聴いている際、やたらと眠くなるという経験をした。
 おそらく3分の1くらいは眠りに落ちていたと思うのだが、その時は、「自分は無調音楽(らしきもの)を理解出来ないので、眠くなるのだ」と推測していた。
 だが、この推測は半分当たっており、半分外れていたことが最近分かった。
 というのは、ストラヴィンスキーの「詩篇交響曲」を聴いている際にも全く同じ感覚を覚えたのだが、この曲はいわゆる「無調音楽」には分類されていないようなのだ。
 調べてみると、ブリテンの「夏の夜の夢」も、「無調」とはされていないようである。
 そこで、「夏の夜の夢」と「詩篇交響曲」の共通点を抽出し、「子守歌」に感じてしまう理由を探ってみた。
 2つの音楽の共通点としては、表現するのが難しいが、ヴォーカルにいわゆる「旋律」らしい「旋律」が存在しないことが挙げられる。
 専門的には、おそらく音の動きが独特ということなのだろうが、私にはうまく説明が出来ない。
 そこで、便宜的に、不正確であっても「無旋律音楽」と名付けておきたい。
 この種の「音」(ないし「音の動き)に対して、どうやら私の脳は「理解出来ない」という反応を示すようなのだ。

 「・・・かし面白いことに、覚醒しているヒトの脳と、寝ているヒトの脳とでは、消費するエネルギーがほとんど違わない。
 ・・・じゃあ、寝ている間、脳はなにをしているのか。・・・
 この根本は簡単なことだと私は思っている。意識とは秩序活動だからである。秩序の反対は無秩序、つまりランダムである。意識はランダムなことをすることができない。」(p96~97)
 
 なるほど。
 養老先生の指摘を踏まえると、人の声が「無秩序=ランダム」と認識されると、「意識」は活動を停止し、情報を整理して「秩序」を回復するための「眠り=無意識」へと移行してしまうのだろう。
 考えてみれば、「子守歌」も赤ちゃんにとっては理解出来ない「無秩序=ランダム」と認識されているのかもしれない。
 ・・・むむむ、これは高校時代の数学の授業と同じではないか!
 先生は、一生懸命「秩序」を教えようとしているのに。
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ブリント博士の弁護過誤?

2023年12月14日 06時30分00秒 | Weblog
 「【第1幕】アイゼンシュタインは公務執行妨害で刑務所に入らねばならず苛立っているが、収監前の気晴らしにと友人ファルケからオルロフスキー公爵邸の夜会へ誘われる。小間使いアデーレも妹イーダから夜会に誘われ、「重病の叔母を見舞うため休みがほしい」とひと芝居打つ。アイゼンシュタインの妻ロザリンデは夫の不在を寂しがるが、その間に昔の恋人のテノール歌手アルフレードと情事を楽しもうと企む。みな表向き悲しみに暮れているが、本心はウキウキ。夫の外出後ロザリンデがさっそくアルフレードと楽しもうとすると刑務所長フランクが来て、人違いでアルフレードを収監してしまう。

アデーレ「でも私、いまだにわかりません。そもそもなぜ、だんな様が刑務所に入れられてしまうのか。」
ロザリンデ「下っ端役人を乗馬用のムチでひっぱたいて、ウスノロ呼ばわりしたからよ」
アデーレ「そんなささいなことで?」
ロザリンデ「ウチの人、しかるべき部局には全部申し立てをしたのよ、でも、そうしても良くはならずに、むしろ悪くなるだけなのよ。」(p19)

 アイゼンシュタインは、公務執行妨害罪で起訴され、判決で5日間の拘留が宣告された。
 これにアイゼンシュタインが雇った弁護人のブリント博士が抗告(rekurrieren)又は控訴(appellieren)したところ、彼が法廷でどもった(Dr.Stotterbock。p33)ために、3日間の拘留が追加されてしまったというのが、アイゼンシュタインの言い分である。
 これにブリント博士は反論する。

ブリント「もっぱらあなたの態度のせいで、裁判官たちの心証が悪くなったのんですし、あなたが私を、こ、こ、混乱させたんですからね。・・・」(p34)

 この問題について、私はブリント博士の肩を持ちたい気がする。
 「不利益変更禁止の原則」の点はひとまず措くとして、抗告審・控訴審で刑が重くなったのは、ブリント博士の弁論がまずかったからではなく、アイゼンシュタインの態度が悪かった可能性の方が高いと思うのだ。
 日本特有の話かもしれないが、実は、口頭でのプレゼンが苦手な法曹(裁判官、検察官、弁護士)は、驚くほど多い。
 これが嘘だと思うなら、法廷を傍聴してみるとよい。
 それに、これも日本特有の話かもしれないが、刑事裁判は書面(供述調書)重視というのが実態で、多くの裁判官は書面だけで心証を形成してしまう。
 なので、弁護人の口頭でのプレゼンが下手だからといって、そのことだけで刑が重くされてしまうというのは、通常は考えにくいのである。
 ・・・まあ、オーストリアの刑事裁判は日本のそれとは違うのかもしれないけれど。
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人生の旅

2023年12月13日 06時30分00秒 | Weblog
【第1部】
バッハ:ゴルトベルク変奏曲 BWV988(全曲)
ヴィキングル・オラフソン(ピアノ)
【第2部】
バッハ:ゴルトベルク変奏曲 BWV988(清水靖晃編曲 5サキソフォン 4コントラバス版)
清水靖晃&サキソフォネッツ
清水靖晃(テナー・サキソフォン) 林田祐和、田中拓也、東 涼太、鈴木広志(サキソフォン) 佐々木大輔、中村尚子、高橋直人、出町芽生(コントラバス)

ヴィキングル・オラフソン、≪ゴルトベルク変奏曲を語る≫
「最初の<アリア>はいわば人間の誕生のようなもので、すべてト長調で書かれた最初の14の変奏は、楽しく軽やかな子供時代を彷彿とさせます。ところが第15変奏になると、音楽はト短調に変わり、それまで知らなかった感覚に突然襲われます。つまり、親しい人を突然喪った時に必ず襲われるような、心の大きな喪失を人生で初めて経験するのです。
 そして<ゴルトベルク変奏曲>はト長調に戻り、全曲のちょうど真ん中にあたる第16変奏から、あたかも人生を仕切り直すように後半の変奏が始まります。その後、やはりト短調で書かれた第21変奏と第25変奏で再び悲劇に見舞われますが、音楽がまたト長調に戻ってくると、バッハの力強さが再び甦り、民謡を演奏することで家族のもとに戻ってくるという、驚くべき人生の旅を終えるのです。
 そして、最後の<アリア・ダ・カーポ>が演奏されると、人は人生の終わりに到達したような気分になり、それまでの浮き沈み、喜びと悲しみの起伏を思い出すように、それまでの30の変奏を振り返るのです。」

 14時に始まり、途中で2回の休憩を挟んで、終演時刻は17時45分となっていた。
 終始エンドルフィン(又はアドレナリン?)が出まくるコンサートで、私としては大満足だった。
 ヴィキングル・オラフソンは、"人生の旅"、つまりアリアからアリア・ダカーポまで一気に演奏するのだが、清水靖晃&サキソフォネッツの方は、第15変奏の後でいったん休憩に入る(なので、休憩は、第1部の後の休憩を含め2回となる)。
 第15変奏の後の休憩は、”人生の仕切り直し”なのだろう。
 オラフソンの演奏は実に端整なものだっが、それにしても、彼の解説は見事で、付け加える言葉がない。
 対する清水靖晃&サキソフォネッツは、パワフルで時に賑やかな演奏。
 見ていると、楽器が”生き物”であることを実感する。
 特にテナー・サキソフォンは、小さな猛獣で、清水さんが懐柔しながら歌わせていたという印象である。
 私は、CELLO SUITES ゴルトベルク・ヴァリエーションズも持っているのだが、アンコールで演奏された「フーガの技法 コントラプンクトゥス」もCD化してくれないものか?

 
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ショパン・コンクールの覇者(2)

2023年12月12日 06時30分00秒 | Weblog
 ショパン
 ノクターン 第5番 嬰へ長調 作品15-2
 ポロネーズ 第1番 嬰ハ短調 作品26-1
 プレリュード 第15番 変ニ長調 作品28-15「雨だれ」
 3つのマズルカ 作品50-1~3
 ポロネーズ 第7番 変イ長調 作品61「幻想」
シューマン
 色とりどりの小品 作品99より 他
(追記)
メンデルスゾーン
 無言歌集 第1巻より「甘い思い出」作品19-1

 ツィメルマンが優勝した年から10年後の1985年に開催されたショパン・コンクールの覇者は、スタニスラフ・ブーニンだった。
 当時、日本では、今でいうと藤井聡太八冠のような”ブーニン・フィーバー”が起こった。
 なので、50歳代以上の日本人で彼の名前を知らない人の方が少ないと思う。
 ところが、彼は、2013年から約9年間演奏活動を休止していた。
 その理由については、「それでも私はピアノを弾く ~天才ピアニスト・ブーニン 9年の空白を越えて~」が詳しい(もっとも、私は観ていない)。
 病気と大けがにより、一時は左下腿切断の危機に瀕していたそうである(私も糖尿病性壊疽で脚を切断した方の事件を担当したことがあるので、この状況の大変さがある程度分かる。)。
 その彼が、昨年ようやく復活し、今回晴れてサントリー・ホールでリサイタルを開催することとなった。
 かつて「若き天才」と呼ばれていたブーニンは、杖をついて、左脚には分厚い特製の靴(壊死部分を切除して脚が短くなったため)を履いて登場した。
 背筋も曲がっており、とても57歳には見えない。
 だが、演奏が始まると、鼻歌交じりの(!)リラックスしたスタイルで、さすがに力強さにはやや欠けるものの、さほどブランクを感じさせないまずまずの出来栄えのようだ(もっとも、細かいミスはあるのかもしれないが)。
 また、かつては「テンポが速すぎる」と一部で批判されていた(らしい)ショパンは情感たっぷりにゆったりと弾いているし、ラストのメンデルスゾーン「甘い思い出」では、万感の思いとともにピアノを「歌わせて」いる。
 ちなみに、私が彼の生演奏を聴くのは、高校1年生のとき以来、実に35年ぶりである。
 その前年(中学3年生のとき)の11月、フランクフルト放送交響楽団のマーラー1番(か3番)を「音楽の先生が誘ってくれているので、一緒に聴きに行きたい」と頼み込んだにもかかわらず、父からは「クラシックのコンサートなんぞに1万円もの大金を出す余裕はない! 」と冷たく拒絶され(英才教育)、翌月のスロヴァキア・フィルのチャイコフスキー・ピアノ協奏曲1番&ドヴォルザーク「新世界」も、今度は(多少理解があるはずの)母から「高校受験が近いからコンサートなんてダメ!」と止められたという”事件”があった(私の実家はとんでもない僻地にあるため、クラシックのコンサートを聴きに行く場合、電車とバス又は路面電車で2時間近くかけて県立劇場まで行く必要があった)。
 翌年、高校受験に合格し、4月から親元を離れて高校に通うことになったのだが、“聖地”ともいうべき劇場は高校のすぐそばで、当時の住まいからも歩いて10分くらいのところにあった。
 そして、その年の12月、ブーニンが九州の片田舎にやって来るというので、小さいころからピアノを習っていたという同級生が、最前列中央の席のチケットを手配してくれたのである。
 私にとっては、クラシック音楽に理解のない/理解の乏しい両親の制約を受けることなく初めて行った本格的なクラシックのコンサートが、当時人気絶頂だったブーニンのリサイタルだったのだ。
 前年の”事件”がトラウマとなっていただけに、この時の感激はいまだに忘れることが出来ない。
 ・・・こんな風にブーニンの思い出がよみがえってくると、今後は毎回ブーニンのリサイタルに行きたい気分になってきた。
 それと同時に、会場に若い人の姿を殆ど見かけないので、ちょっと不安を覚えた。
 クラシック産業は衰退の一途を辿っているというが、その原因の一部は、大人たちが、「敷居の高さ」を解消する努力を怠ってきたことにあるのではないかと思う。
 「大人になってからの音楽の好みは14歳の時に聴いた音楽で形成されている」そうだが、中学生や高校生にとって、クラシック音楽(特に生演奏)に触れる機会はどんどん減ってきていると思われるからである。
 なので、私は、自分の経験からも、学生割引の拡大や学生向け無料入場券などの工夫が必要だと思うのである。
 

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