年齢を重ねていろんな経験をすると
世の中とはそういうものなのだと
人生訓として思う事が増えてくる
「世の中には一方的にうまい話は存在しない」
もその一つだ
詐欺師が言い寄ってくるようないい話、
都合に良い話は、ある事自体が不自然なのだ
だから、そのような話を聞いた時には、まず疑ってかかる
これが一番だろう
ことわざ的には
「類は友を呼ぶ」がまさしくその通りだと思う
「その人を知るには友達を見よ!」
これはあながちハズレではないようだ
さて、人は嘘をつく時、物事を誤魔化そうとするときは
案外饒舌になるのではないだろうか
少なくとも自分はどのような傾向にあるのは事実だが、、、
この饒舌状態、話す人にとっては説明のつもりでも
聞き手にとっては言い訳に聞こえる事が多い
言い訳と説明、いったいどこがどのように違うかと言えば
聞き手の気分だけの違いに思える
聞き手が聞ける精神状態にあるときは説明としてとらえられるし
受け入れられないような精神状態のときは、
同じ話が見苦しい言い訳に感じてしまう
だから話し手は話の論理的な部分だけでなく
聞き手がどんな精神状態でいるかを
察知して話すべきなのだが
論破されてしまうような不安感を持って討論する
オエライさんがたは、結局みんながみんな言い訳の話を続けようとしたり
話を自分の得意分野の方向に持っていこうと無理矢理変えてしまう
確かに多くの事を彼ら(議員さん)は知っているし
それなりに真剣であるようには見える
しかし、討論にはなっていない
言ったら言いっぱなし、いい訳ばっかりになっている
それが朝からのテレビ番組
月末の選挙に向けての討論の感想
これでは
印象以外に判別し難い感じがしてならない
世の中とはそういうものなのだと
人生訓として思う事が増えてくる
「世の中には一方的にうまい話は存在しない」
もその一つだ
詐欺師が言い寄ってくるようないい話、
都合に良い話は、ある事自体が不自然なのだ
だから、そのような話を聞いた時には、まず疑ってかかる
これが一番だろう
ことわざ的には
「類は友を呼ぶ」がまさしくその通りだと思う
「その人を知るには友達を見よ!」
これはあながちハズレではないようだ
さて、人は嘘をつく時、物事を誤魔化そうとするときは
案外饒舌になるのではないだろうか
少なくとも自分はどのような傾向にあるのは事実だが、、、
この饒舌状態、話す人にとっては説明のつもりでも
聞き手にとっては言い訳に聞こえる事が多い
言い訳と説明、いったいどこがどのように違うかと言えば
聞き手の気分だけの違いに思える
聞き手が聞ける精神状態にあるときは説明としてとらえられるし
受け入れられないような精神状態のときは、
同じ話が見苦しい言い訳に感じてしまう
だから話し手は話の論理的な部分だけでなく
聞き手がどんな精神状態でいるかを
察知して話すべきなのだが
論破されてしまうような不安感を持って討論する
オエライさんがたは、結局みんながみんな言い訳の話を続けようとしたり
話を自分の得意分野の方向に持っていこうと無理矢理変えてしまう
確かに多くの事を彼ら(議員さん)は知っているし
それなりに真剣であるようには見える
しかし、討論にはなっていない
言ったら言いっぱなし、いい訳ばっかりになっている
それが朝からのテレビ番組
月末の選挙に向けての討論の感想
これでは
印象以外に判別し難い感じがしてならない