今、直接会って、第一印象からどんな印象を持つか確かめたい人がいる
人というのは年齢を重ねるとどういう訳かその生き様が表に出る
歌舞伎の悪人の隈取までしていなくても、「なんとなく」警戒しなければならない人はわかる
その道ふうのわかりやすいファッションをしているひとは、その衣装をしていなくても
眼光の鋭さ、暗さ、雰囲気が普通の人と違う
この第一勘の間違いはあるかもしれない
自分の見たものが全て、、という偏りの危険性はある
でも年令を重ねて多くの人を見てきた人は、何故かそれほど間違いのないということを
経験から知っている
その人のことを知りたい、でも会って自らは確かめることは出来ない場合
解決方法は会ったことのある人に「第一印象のイメージ」を聞くことだ
話の内容よりは全体的な印象としてどうだったか、、を聞くことは無駄ではないかもしれない
もう一つはその人の周りの人間、親友がどんな人たちか見ることも(聞くことも)有効かもしれない
(「類は友を呼ぶ」この諺は、本当にその通りだ、、というのが自分の生きてきたなかでの実感)
これらの方法が取れない場合はどうするか
当たり前だが、今までしてきたこと、しなかったことを確かめることだ
ところが、このしてきたことの情報を得ることが意外に難しい
公にされるものは、どこか丁寧な作文がなされている
森友、加計学園でもハッキリしたように公式文書なるものと
ひっそりと交わされていた内部文書とは受け取る側の印象は随分異なる
歴史家の方々は、一次資料というオリジナルな情報を重要視し、一次資料をもとに
書かれた二次資料を慎重に扱うように気をつけている
(例えば坂本龍馬について司馬遼太郎のは二次資料、本物の手紙は一次資料)
しかし現実的な話、二次資料のほうがわかりやすく面白いし
結果的に多くの人がこれによって共通認識を持つようになる
公的なものが全部が全部作文ではないかもしれないが、
一次資料では重要なある部分が変形されている
してきたこと、しなかったこと
大事な判断の根拠に関することが、今 この町では選挙を前に評価が割れている
一般的には表に出たもので判断するのは当たり前だが、
そこには本来は大事なそれこそ人間性を如実に表すようなエピソードが
表現されていなかったり無視されている
それは、一部の人にとっては(聞きたくない、無視したい)噂話
でも別の一部の人たちにとっては実際に被った被害
してきたこと、しなかったこと
自分は自分が経験した公になっていないこの2つの事柄ゆえに
ある人を支持できないでいる
公になっていない、してきたことは何か
しなかったことは何か、、
しなかったことは、この地区の人なら容易に思いつくかもしれないが
自分の頭にあるのは少し別のこと、、
何をゴチャゴチャと訳のわからないことを、、(だろうな)
でも、その人のしてきたこと、しなかったことに対する怒りが
いつまでも消えないでいるし、多分消えることはないだろう
ところで、冒頭の人となりを実感してみたい人物とは
新城市の南部工業団地のあの会社のあの人