パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

2号基準

2017年09月24日 15時02分49秒 | 産廃

久々に新城市の産廃についての投稿(別のものからコピペ)

最近、話題になっている言葉がある
それは「2号基準」
何だそれ?
多分、普通の人はそう思う
しかし、産廃企業の悪臭被害で悩む新城南部地区の人とっては
「何だそれ?」と思うもう一つの言葉「買い戻し特約」と同様に
とても無視できない言葉となっている

臭いというものはとても厄介なもので、その感じ方にかなりの個人差がある
おまけに、こちらの方がより重要と思われるが、臭いは物理量なのだが
その臭いの物理量(かたまり)は見えないので、その漂い方、移動がよくわからない
そこで、工場や企業から出てくる捉えがたい悪臭を防ぐために、基準を設けることにした
それが臭気指数ということになるのだが、新城市ではこの臭気指数が
何度か計測しているが基準値以内だと報告している

しかし、被害の声は続いている
どちらかが嘘を言っている、、ような捉え方もされそうだが
これが、臭いの厄介なところだ
ところで、市の計測し発表しているのは「1号基準」というもので
基準には実は3種類が設定されている(1号・2号・3号基準)

「2号基準」という言葉が出てきたのは9月の新城市議会の一般質問でのこと
そこで、今は便利な世の中でネットで少し調べてみると
「1号基準」とは敷地境界域の規制基準
「2号基準」とは気体排出口の規制基準
「3号基準」とは排出水の規制基準
この様に分かれているとあった
この様に分かれているのは臭いという厄介なものを実態に合うように計測するためだ
臭いは温度差で上昇しやすい、排出口から巻き込まれて下方向へも進む、
周辺建物の影響で遠くに運ばれる可能性あり、それから拡散によって希釈される、、
つまり、「1号基準」の敷地境界線だけを計測していただけでは実態を反映していないことになる

先の一般質問ではこのこの言葉が出るきっかけとなった八王子市の例が浅尾市議から紹介されている
これが新城市とよく似た状況で、住民は悪臭が出ていると訴えていたが、計測すると基準値以内との答え
そんなはずはない、、とその計測のことをよく調べてみると発表されて数字は「1号基準」だった
そこで、計測場所を「排出口」に指定して、つまり「2号基準」で判定をしてもらう事になったら
数字は、、アウトで、結局、住民の望む指導がなされることになった

実は、新城市でもまったく知らなかったが一回だけ「2号基準」で計測されていた
基準値は25以下だが、その時の計測値は18から19で問題はなかったとの判断をしたと
質問では答えていた
ここで問題は、そんな大事なことを肝心な地域住民は知らされてなかったということ
そして、それが行われたのはたった一回だけということ(それも被害届けが連発した時期でなく)

正直なところ、これはダメでしょう
聞かれないことは大事なことでも黙っている
被害の声が出ているのに、より現実的な「2号基準」の測定を一回しか行っていない(なんで?)
これでは森友・加計学園みたいに何かを隠していると思われても仕方ない
決して文句を言いたいわけでない
ただ、当たり前に普通の人が望むこと(2号基準の定期的な計測)をしてほしいだけ
そして、そもそも地元住民との臭気指数の感覚の相違はなんだろう?
(どっちが正しいかというのではなく)と真摯に立ち向かって貰いたい
なんと言おうと、悪臭被害にあっている方々は、それが現実なのだから

 

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知りたくなかったこと

2017年09月24日 09時30分47秒 | あれこれ考えること

知らない方が良かった ということはある
困っている人、緊急を要する事態の人を見かけたら
無条件に救いの手を差し伸べるのが普通だし
多くの人はそうするのもだと思っていた
しかし、残念なが心理学的には必ずしもそういう行動を取るばかりとは言えないようだ 
最近読んだ「ファスト&スロー」のなかに「人助け実験」を紹介したコーナーがあった

独立したブースに入った人たちは順番に2分づつ話すことになっていて
自分の話す番になるとインターコムのマイクがオンになって他の人は
話を聞けるようになっていた
話す内容は自分の近況や悩んでいることなどで、一通り回ったところで
仕込まれていたサクラが急に支離滅裂な事を話し出す
「発作がきた、誰か助けてくれ、死にそうだ、、」喉が詰まるような音のあとで沈黙
この状況で、それを聞いた他の人たちはどのような行動をしたかがチェックされた
随分意地悪な実験をするものだと思うが、それはさておき結果というのが
少しばかり喜べないものとなった
15人の参加者のうち、すぐさま行動を起こして助けを呼んだのはたったの4人
6人はブースに入ったまま何もしなかった
残り5人はサクラが窒息死した頃になってやっと重い腰をあげた

この実験は助けを求める声を聞いた人が他にもいるとわかっている状態では
人は自分の責任を感じないことを示していると結論づけている
ごく普通の真っ当な人間でさえ、発作を起こした人を助けるなどという
あまりゾッとしない仕事を他の人がやってくれそうと思ったら、自分は直ぐに
行動しないというのだ

この実験が15人ではなく、もっと多くの人になされたかどうか知らないし
15人が多いか少ないかも分からない(ひどい実験だからそんなに多く試験台になってほしくない)
ただ、この実験の導いた結論というのは残念ながら、なんとなくわかる
この様なケースに出会ったら自分もそうように行動する(何もしなかった)1人だろうと思う
(直ぐ動けたら自分で自分を褒めてやりたい) 

ここで話はいきなり自分の住む新城市の問題に変わる
新城市の南部工業団地には産廃処理企業が進出していて(本来ならば製造業と物流業に制限されていた)
操業前から懸念された悪臭が少なくない回数確認されており、地域の住民は以前の普通の暮らしを
気持ちよく過ごすことができなくなっている
この状況を聞き知った人がどんな行動を起こすか、、というのが先に上げた実験と被る

そしてその結果も、残念ながら実験結果と似たようなものになっているというしかない
当事者は当たり前だが、声を上げる
ところがこの声を聞いた当事者でない人(特に新城市では豊川右岸左岸で気分的にくっきり分けられ)
南部工業団地の地区ではない右岸の人たちは、この訴えにあまり反応していない
実際に当事者として感じていないこともあるが、そういう話を聞いても
自分の取り組むことではないと決めているかのようだ
それはまるで「自分でなくても誰かがやってくれる、、」 と思っているかのようだ
(当事者でない地区の何人かが地域の人達と行動している)

ただ、他人の苦痛には無関心でほったらかしと考えるのは人間的にも少しつらいので、
何かしなければいけないかもしれないが、誰かがやってくれるだろうから自分からは
行動しない  という考え方の方が救われる気がする 
わかっているけど、ごめん、自分がやらなくても他の人がやってくれるので、、、

これは話を展開すれば沖縄の問題にも通じる
確かに沖縄は遠くて、自分たちは当事者ではない
沖縄の人たちの事を考えると何かしなくてはいけない
でも、自分たちの代わりに今頑張ってくれてる人たちがいる、、
ついついこんな風に考えたくなってしまう

でも行動を起こした人、当事者は、何もしてくれない人たちに
内心怒りを覚えてしまうかもしれない
本当に人に共感し何か行動をおこすというのは、、、、難しい
あれこれ、ごちゃごちゃ言う前に、何かしなければ 、、と反省
(自分で自分が褒められたら良いと思うが、、その時の採点は甘いかな )

 

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