パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか

2018年12月27日 08時36分11秒 | あれこれ考えること

相性が合わずほったらかしにしていた小説を読み始めたらその中に
「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」の言葉が目に入った

この本、大江健三郎の「雨の木(レインツリー)を聴く女たち」
を読むタイミングがやっと来たのかと啓示のような気さえしたが
これですぐに思いついたのは、感情的な嫌悪感を感じる「ヘイトデモ」に対する「反ヘイト」の直接的な行動のこと
ヘイトを繰り返す彼らに言わすれば何をしても自由じゃないか、、
それを封じようとするなら、表現の自由を奪いかねない行動で、そちらのほうがひどいじゃないか
となるのだが、寛容な立場を目指したい方からするとなかなか返す言葉が容易に見つからない

でも、残念ながらときには「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になる」
のも必要なのかもしれない
なんでも自由は世間の中では許されるわけでもない
だが、ここで公の利益という制限の言葉が入ったりすると、その先は少し不安を覚える
公とか国の立場が良いように使われそうで、、

ところで、急に思いついたことがあった
フランスではエリート層に対する一般市民の反発がデモにつながったとしているが
エリート層は本来の意味において忌み嫌われる存在なのかが少し疑問だ
エリート層を経済的に裕福な自らの利益を守りやすい立場の人間と考えるか
オルデガが「大衆の反逆」で定義した以下のようなもの

「エリート」すなわち「選ばれた少数派」とは、「自分に多くを要求し、自分の上に困難と義務を背負い込む人」のことである。
エリートは、「自分よりもすぐれた、自分の彼方にある規範にみずから訴えることが必要だと、心底から感ずる性格をもっていて、
その規範のために易々として身を捧げる」のである。
そのような自らに厳しい規律を課している人間であれば、寿司職人であろうがプロ野球選手であろうが、「エリート」と呼ぶことができる。
反対に高級官僚であろうと財界の幹部であろうと、「自分に何ら特別な要求をしない人」であれば、それは大衆的人間にすぎないのである。

とするなら、現在欠けているのはこの意味でのエリート層ではないのか
エリート層、あるいは教養のある人間 またあるいはノブレス・オブリージュがさっと簡単にできる人
こうした人々の相対的な不足が現在のややこしい世界状況を招いているのではないか

年齢を重ねると共感力が増すようになるのが人の一般的な傾向らしいが
最近は、この説すら少し疑わしくなるようなことが多くなってきている
ホント、なんでこんなに余裕がなくなってきているんだろう
子供が生まれたとき「優しい心の人間に育ってほしい」という親の希望は
いつの間にかたくさんのお金を手にする人間になってほしい
我が子だけは幸せで苦労なしになってほしいに変わってしまっているみたい
その気持はわからないでもないが、でも少しはぼんやりと感じるそうしたほうが良い
といった世間知のようなものに身を任せたほうが暮らしやすいと思うのだけれど、、、

相も変わらずまとまりのない話


 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする