パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「モーツァルトとの散歩」を読んで

2018年12月05日 08時34分41秒 | 

1791年の今日(12月5日)、モーツアルトが亡くなった
それを知ったのは、昨日読み終えたアンリ・ゲオンの「モーツアルトとの散歩」のなかのこと

モーツアルトの音楽は好きだが、彼の人生や手紙などにはどういう訳か大して興味はなく
購入後も積読状態になっていたこの本を、もったいない精神を発揮して先日から読み始めたのだった

この本は伝記によくあるように彼の一生をたどっている
彼の身の回りに起こったこと、手紙も絡ませてその時々彼が作曲した曲を、まるっきり信者のごとく
興奮気味にその完成度を楽譜を混じえて紹介している

読んでいてとても不思議に思えてきたことがあった
それは彼が作った曲と彼の人生上の(生活上の)変化とはあまりにも関係がなさそうに感じられたことだ
ベートーヴェンなら耳が聞こえなくなって、苦労して努力して作り上げた曲は、どこかそういうところが曲に感じられる
バッハでもヴァーグナーでも、そういう一面は聞き取れる
しかし、モーツアルトの場合は、何故、このような曲がこの時に作られたのか?との気持ちを拭い去ることができない
そんなことはない、K304のホ短調のヴァイオリン・ソナタやK310のイ短調のピアノソナタは、お母さんの死の影が
見て取れる、、との声があるかもしれない
でも、自分がこれらの曲に感じるのは死を悲しむという人間的なことよりも、もっと別の単に音楽の表現しうる何か
もしかしたら美というものをのみ恐るべき客観性のものとに表現していると思えてしまうのだ

この実生活と出来上がった曲のアンバランスな感じは
たくさん残された彼の手紙と、出来上がった曲との食い違いにも見られる
いや手紙だけでなく普段の生活ぶりも、映画「アマデウス」でサリエリが怒ったように、
こんな軽薄な男が信じられないほどの完成度の高い美しい音楽を作るのか、、
神が存在するのなら、何故こんな男に、、、という怒りとか絶望も納得できてしまいうそうだ

つまり、実生活とできた音楽はあまりにもかけ離れている
音楽はその人を表すのではなく、もっと別のものをさらっと表現してしまうモーツアルト
確かに彼は時を重ねて進化している
でもそれは人生を重ねて、ふっとそのニュアンスを曲に込めるテクニックと言うよりは
作曲上の技術の上達を表しているように思えてならない

出来上がった曲と彼の過ごしている時間、実生活とのイメージの違い
多分これは多くのモーツァルト好きの連中の共通認識だろう
この本「モーツァルトの散歩」はアンリ・ゲオンのモーツァルトへのラブレターだ
レクイエムまでの生き様の紹介が終わった後の最後の十数ページ
そこでは彼(アンリ・ゲオん)の思いの丈が一気に放たれる
モーツァルト好きからすれば、よくぞ代弁してくれた!
そのとおりだ、との思いが湧き上がる
音楽は音楽自体で、なにか大げさなことをするのではなく
控えめに、でも耳を傾けるととてつもなく繊細な美と楽しみと、そしておしゃべり(会話)
大げさに人間を語るのではなく、異性が好きで、冗談が好きで、誰かが偉くて誰かが偉くないと区別することなく
大きな間違いをする人間も、横着な怠け者の人間も、それらを全部ひっくるめて自分に与えられた「音楽」という分野で
決して過激になることなく、その完成のみを職人的な精神で作りあげたモーツァルト
次の時代の「大文字で書かれた人間の時代であり、大文字で書かれた芸術の時代」からは
忘れ去られたような存在となりつつも、、そのやはり天才としか言いようのない作品群は
それがないと生きててつまらない、、ものとなっている
天国とはモーツァルトの音楽がなっているところ、、と言った人がいた
子どもたちの声がいつも聞こえるところ  とも言われている
バッハの祈り、完成度、ベートーヴェンの人がどのくらい成長しうるものかを驚きの目を持って眺めても
やはり、自分にはモーツァルトがいないとつまらない

5年前、ウィーンのマルクス墓地にモーツァルトのお墓を訪ねた

可愛そうなヴォルフガング
お土産屋には彼の顔を描いたチョコレートが溢れ
巷には彼の音楽を奏でるコンサートが商業的に計画されていた
でも、かれの眠るここには、自分にはあまりにもひっそりしていた




コメント
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