パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

テレビを見なくなったのは、多分

2018年12月26日 08時54分05秒 | あれこれ考えること

子どもの頃、大人たちがタレントさんに無関心で名前すら知らないでいるのが不思議だった
だが四捨五入するとガッカリするような年令になった今、当時の大人たちの実感がよく分かる
何しろ今はテレビを見ないからタレントが誰だ誰だかわからない

TV番組は報道ステーションやらニュース23も、NHKのニュースも見ない
当然やたらと長いクイズ番組や健康関連の番組も見ないし、タレントさんたちの内輪の話も興味がない
一応新聞のテレ番組欄はちらっと見るが、触手が動きそうなものは大概なく
その時間は本を読んだり音楽を聴くといった自分の時間の過ごし方をしている

そのせいで多少偏屈な面があるかも知れない
でも、その偏屈な人間からすると、チラッと見る最近のテレビとか報道はとても違和感を感じる
犬が人間を噛んでもニュースにはならないが、人間が犬に噛み付いたらニュースになると言われるが
とにかく極端な、それも人間の攻撃性を刺激するような、そして同調圧力を加速させるようなモノが多い

頭のいい人、、の捉えからも違和感がある
確かに東大・京大出身の方々はポテンシャルが普通の人より数段上なのは感じる
でも発揮されているのは一種記憶力の分野で、自らどう考えてどう仮定してどう説明しようとする
といった分野の話は少しも見られないし、果たして癖として自ら考える行為が行われているか
少し不安になる

自分のニュースソースはインターネット絡みになる(テレビ・新聞のニュースがもとになっているが)
ところがインターネットの悪いところは必然自分好みのニュース・意見を求めやすくなり
それらに触れることによって自分が多くの意見の中にいると錯覚する傾向がある
全く公平中立な立場などというのは現実的には不可能で、人はなにかの情報に触れた時
既にその時点で何らかの方向性をもった捉え方をする
だから自分好みのニュースを集めてしまうのはある程度仕方ない事かもしれない
その危険性を廃除するために反対側の意見も見聞きする癖をつけないといけないわけ
(それがメディアリテラシーにつながる)だが、最近感じるのは、特に政治的な分野における意見の対立で
それが物事の対立というよりは、相手側の人格の否定につながるものが多いことだ

特にネトウヨを称される方々の投稿はすぐに敵対する人物の人格の否定から入る
一方、リベラルという方々も同様に安倍さんの人格の否定が多く存在する
今までの行動からすれば、個人的にはリベラルの方々の彼を良しとしない気持ちはわかる

報道の自由度がどんどん下がってきたり、ニュースの価値がないような首相の買い物や散歩を取り上げたり、
隣の国同士お互いに冷静になって円満な解決法を探ればいいのに
過度にお互い攻撃的になるような雰囲気作りをしたり
報道はなにかの気分を作り上げるが、戦前のメディア(新聞)のなしたことを振り返ると
現在の状況は少しそれに似ているような気さえする

そして不安を感じさせる報道の中に、あるいは報道のあとにバラエティ・スポーツなどのような
自ら考えることを要求しない番組がこれでもか、、いった感じに流される

大人になるとタレントさんの名前が覚えられなくなるのは確かに記憶力の低下もあるが、
それよりは大人たちにとって重要なことはタレントさんの名前や行動を覚えたり見聞きすることではなく
実体験に基づいてもっと大事なことに関心がいっているからで、それらが反映されないような番組は
見る気がしない、、ということではないだろうか

ということで、得意の毒にも薬にもならない話
でも、こんなんでこの国の(大げさに出たな)将来は大丈夫かな、、、
と不安を覚えてしまう(田舎のおっさんが愚痴を言っても始まらないが)



 

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