パンセ(みたいなものを目指して)

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「民主主義の死に方」(柔らかいガードレールはどうなるか)

2018年12月18日 08時50分27秒 | 

本は自分の力以上のものに取り組むほうが面白い
楽に読めて楽しむのはいいが、それでは少し物足りない気がしている
もっとも、集中と想像力を過度に要求する本は気分がノラないと
なかなかその世界に入っていけないのは事実だが

少し前の「ショック・ドクトリン」に続いて、どちらかといえばレポートに近い印象をもつ
この本「民主主義の死に方」(スティーブン・レビツキー、ダニエル・ジブラット)を読み始めた

現在まだ真ん中あたり、扱われている各国の歴史の部分は知識が無いので
少しばかり飛ばし読みで理解にはちょいと不安が残るが、
それでも一般論として納得できそうな部分がいくつもある

その中で比較的最初の部分に出てくる「独裁主義的な行動を示す4つのポイント」
は現在の日本をイメージするとどうなのか(読む人はみんなそう思って読むだろう)
気になるところだった

4つのポイントとは
1.ゲームの民主主義的ルールを拒否(あるいは軽視)する
 憲法に従うことを拒む、あるいは憲法違反も辞さない態度を示す
2.政治的な対立相手の正当性を否定する
 なんの根拠もなくライバルを外国のスパイだと決めつけ、敵対する外国政府にこっそり協力している
(あるいは雇われている)と訴える
3.暴力を許容・促進する
 過去に国内あるいは世界のほかの場所で起きた政治的暴力事件を褒め称える(あるいは非難することを拒む)
4.対立相手(メディアも含む)の市民的自由を率先して奪おうとする
 市民的自由を制限する法律や政策を支持する。例として、名誉毀損法・文書誹毀法の運用範囲の拡大
  抗議活動・政府への批判、特定の市民・政治組織を制限する法律の推進
 過去に国内外で行われた政府の抑圧的な施策を褒め称える

現在の日本のどの部分がこの4つのポイントと被るのかは、
ある程度関心を持って政治(世の流れ)を見ている人とまるっきり無関心の人とは大きな差があるだろう
それはある程度仕方ないと思われるが、無関心の人でもおそらくは大前提として
人はそんなに無茶なことはしない、極端な行動には自ずと(常識的に)ブレーキをかけるだろう
との思い込みがある

ところが、残念なことに最近は必ずしもそうでなくなっている
法の解釈を持ち出し法には反していないと、以前ならブレーキを掛けていた(それは市民感覚と似ている)事柄を
強引に押し進めて問題ないとする人たちが増えてきている

この部分を著者は「柔らかいガードレール」が機能しなくなっていると説明している
「柔らかいガードレール」とは、アメリカの例でいうと、合衆国憲法はよくできているが、憲法があるから
民主主義が守られているわけではない。競うあう同士が「相互的寛容」と「自制心」をもっていたから
守られていたのだ、、としている
でもこれは簡単に考えると、人として「そういう人のほうが良い」とか、社会は実は無意識的にぼんやりとした
良いと思われる方法を選んでいる  ということなのではないか

法律に詳しい人が、法の穴を利用して、それでもって方に反していないとする
法に穴があったのは知っていたが、あえてその穴の不備をつかない、それが社会の知恵と言うものだ、、
というのが昔から続いていた感覚
この2つの力関係が最近では前者に大きく偏っている
人はどこまで残酷になれるか、、という点については、ナチスの例だけでなく新自由主義の名のもとに
南米で行ってきたグローバル企業(あるいはそれを支持する国家)のやりくちを見ると
少しばかり人という存在の怪しさに不安を覚えてしまうが、今真に恐ろしいのは、人間性の影の部分
人が自発的にブレーキを掛けていた悪に近い部分を、おおっぴらに法に反していないといい切ってしまう
ひとが増えていることのように思えて仕方ない

ということで、抽象的な話になってしまったが現時点で自分が何となく思っていること
このようにブレーキが効かなくなってしまったのは、お金が唯一の価値あるものとして捉えようとする
(ごちゃごちゃ言っても、結局はお金)とする人が多くなっているということかな
少しばかり気の滅入る話

コメント
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