電車に乗るのが好きだ
車窓に流れる風景を見てボーッとしたり、脈絡もなく浮かんでは消えるいろんな思いに身を任せる
この時間は本来の自分自身との対話のようで、時に大いなる気分転換をもたらす
音楽の生演奏を聴いている時も、勝手気ままにいろんな思いが頭の中をよぎる
多分一番いいのはその演奏に集中できて、耳に入る音が物理的な楽器の音ではなくて
頭の中にある楽器が鳴りだすような、ただただ音楽の流れに身を委ねるような感覚を持てること
そうした瞬間は一瞬のことであっても、まるで永遠のような気さえする
だがいつもいつもそうした感覚になれるわけではない
大概はとりとめのない思いが浮かぶ
まるで電車の窓から風景を見ているときのように
昨日の演奏会 「悠久の第九」 セントラル愛知交響楽団
これは演奏中に様々な思いが浮かぶタイプの体験だった
年末は第九の季節
でもベートーヴェンは聴くには覚悟とか勢いとか、そういったものがないとなかなか気が進まない
少しばかり押し付け気味な印象が、どうしても二の足を踏ませてしまう
ベートーヴェンで押し付けがましさを感じないのは後期のピアノ・ソナタ(30.31.32)とか
弦楽四重奏曲(12.14.15)などで、これらはいつでも聴きたくなるのだけれど
先日のフルトヴェングラーの「運命」を聴いて以来、ちょっとばかりベートーヴェンモードになっていて
たまにはいいか!と当日券のある上記のポスターの演奏会に足を運んだ
第九の生で聴くのは今回で3回目
1回目は新城市の文化会館で東京フィル、田中良和の指揮で合唱団は市民の方々
その当時流行った「第九を歌う会」の流れに沿ったもの
この演奏会で覚えていることは田中良和の導き出す音がとても清潔なスッキリした感じであったこと
まるで小澤征爾のそれのよう、、とその時感じたのは今でも覚えている
2回目は浜松アクトシティでロリン・マゼールとどこかのオーケストラ
多分、この施設のオープニングの祝祭的な意味もあったんだろうが、この演奏会のことは
悲しいくらいなんにも覚えていない
マゼールとの相性が良くないのか、、ただ、無理やり思い出そうとすると、冷たい音楽だな、、
といった印象があったような、、
そして3回目の昨日
プログラム前半のベートーヴェンピアノ協奏曲で耳慣らしはできて、集中しやすい環境はできた
聞き手ばかりだけでなく奏者も、どこかしら勢い込んでいる感じ
冒頭の神秘的な和音から、鋭い音型のモチーフが奏される
フルトヴェングラーの闇の中を音がストンと落ちるような印象を与えるのとは違ってスピーディーな感じ
この指揮者はこの感覚で行くのか、、と、なんとなくわかったような気がする
オーケストラは前半のプログラムの4番のピアノ協奏曲よりも練習が充分にされているような
自発的な、自分のものになっている感じがした
生の演奏は時に意外な部分とか音が印象に残る
昨日はファゴットとホルンが、楽譜にはそう書かれているのか、、と感じさせるような瞬間が幾度かあった
そのうち気ままな連想が浮かんだのは、、この曲はブルックナーの8番に似ているな、、ということ
第2楽章のスケルツォ、第2楽章のアダージョ、第4楽章の全部をひっくるめた終わり方などは
この曲がお手本になっているのだ、、、とつくづく感じた
でも、そのニュアンスはだいぶ違う
ベートーヴェンは人間讃歌だがブルックナーのそれは交響楽という音の建造物による
響きの中に快感をもたらす音、、そのもの、、
話はベートーヴェンに戻って、第一楽章の途中のフレーズでフルヴェングラーならここはもう少し
絶妙なニュアンスで音出ししたのにとか、あのバイロイトの演奏はこのあたりから気合が乗り始めて
それ以後はスピードアップするのだが、それは音楽的に必然なんだな、、とか
ついついフルトヴェングラーのレコードと比べていた
この比較は第2楽章でも同じこと
木管楽器が表に出たり入ったりする音型のところは、もっと立体的のほうがいいとか
でもこの楽章の若さに溢れる演奏は、なかなか良かった
3楽章になって合唱団が舞台に現れた
登場に拍手がなされたが、曲全体の集中が途切れそうで、自分的にはあまり肯定的とは言えないかも
3楽章は、押し付けがましくないベートーヴェンが感じられる
内生的な考えるアダージョで、最近ではこの楽章が一番の楽しみになっている
だが、ここでもついついフルトヴェングラーと比較してしまった
フルトヴェングラーの演奏は音を慈しみように、ゆっくりと深く流れ、指揮という行為のもとに音楽があるのか、
それとも音楽はもともとある形で勝手に流れているのか、そして忘我としか表現のしようがない一瞬を
今回は味あわせてくれるのだろうか、、と
でも名人芸のような奇跡的な瞬間は訪れず、若い音楽家の音楽解釈の一つのパターンとしてこの楽章は表現された
フルトヴェングラーの指揮によるファンファーレのあとの寂寥感は、それを望むのは酷なことか、、、
第4楽章
ベートーヴェンは晩年になっても枯れるということはなく、力技で全体をまとめる力があったり
それを望んでいるのだと改めて感じる
前の楽章のテーマの否定、それではなく肯定的なあの歌を、もっと、、とするストーリー展開は
ブルックナーのまとめ方よりはわかりやすいかな、、とまた気ままな連想がチラチラ訪れる
フルトヴェングラーの第九の印象の残る2つの部分
歓喜の歌がいつ始まったのかわからないような最弱音から奏される効果
そしていつまで続くのかと思わせるような合唱のフェルマータとその後のトルコ軍の行進のようなテーマが
これまた最弱音から始まる、、この圧倒的な効果 これはレコード作成の時に講じられたものとの説もあるが
いすれにせよ、その効果は、一度聴いたら忘れられない
第九はプロの人の安定した演奏もいいかもしれないが、この演奏会(市民合唱団による)のような
その日のために気張った演奏もその勢い・熱気に負けて全体として何かを感じることはできる
ということで、聴いてる最中はあれこれいろんなことが浮かびすぎたが、それをも含めて
久しぶりの第九は、、なかなか楽しかった、、というところ
それにしても、思うのはフルトヴェングラーの第九の凄さ
(でもこの演奏(1951年 バイロイト祝祭管弦楽団のレコード)は何度も聴けないでいる
聴き直したら今度はさほど感動しない自分がいたり、その感動自体が錯覚だったのだ
とがっかりしてしまうのが怖くて)