パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

なにも残らなかった(ボケの始まりか?)

2018年12月02日 08時43分35秒 | 徒然なるままに

11月25日は新城市の文化会館で「公共政策フォーラム2018in しんしろ」見学
11月28日は議場で「女性会議」の傍聴
12月1日の昨日は「市民まちづくり集会」への参加
少し真面目な市絡みの行事で正直なところあまり気乗りしなかったが
それでも誘われた件もあって、とりあえず出かけた

昨日が終わって振り返ってみるとびっくりした
呆れるほどなんにも覚えていない
心に響くとか残るものが一つもない
一気に過去の出来事として追憶の彼方に消えてしまいそうだ
(覚えているのはその場所にいただけということだけ)

ボケが始まってしまったのか、、と不安にもなるが
11月24日の「スクープ野郎の逆襲」〜市民とメディアを考える
はまだ記憶に残っていて、今でも2.3の点についてはあれこれ考えたりするから
個人的・肉体的な問題だけではなさそう

その催しが成功したかどうかを評価するには、参加者の総数ではなく
「もう一度この行事を体験したいか?」の問に「はい」と答えた人の数とするならば
冒頭の3つの行事は、「もう一度行くか?」と聞かれたら、首を傾げてしまう

何故面白くないと感じてしまったのか?
自分はこの分野に関心がある方ではないこともあるが、
それ以上に、「思考のプロセス」が把握できなかったからではないか、、
「公共政策フォーラム2018in しんしろ」ではデータをもとに次に行うべき施策が
提案されたが、これが「考えた」というより、よく見かける解決策の抜粋のようなもので
「新鮮味とか考えている過程」が感じらなかった

「女性会議」は8人のメンバーが、15分の持ち時間で(市議会における)一般質問のような形式で
それぞれがテーマ・関心のあることを市長に尋ねたり提案を行っている
ただ、これが予定調和のように卒なく過ぎていっている
あまりにも卒なさすぎて、引っかかるところがなくて、やっている本人たちはなれない場面で大変だとは思うが
質問が終わったらその時点で自分の頭の中から消えてしまう
やはり、この場面でも素人の人間が、あっちにぶつかり、こっちにぶつかりして考えた実感みたいな
その過程が充分に感じられず、無難にことがすぎることが優先されていた気がしてならない
(ただ一人、女性会議がパフォーマンスに終わってはいけないと訴えた方がいたが)

そして昨日の「市民まちづくり集会」
こういうイベントは裏方さんは大変だと思う
その苦労は認めた上で、一言言うなら、やっぱりこの行事の意図がよくわからない
そして参加したにもかかわらず「やった感」が少しもない
もしかしたらグループワークで発表した人はそれなりに充実感はあったかもしれない
でも、、、そう、、でも、、

もしかしたらこの手の行事はうまいかないのが当たり前で、
上記のことがらのような印象に陥るのは特別ではないかも知れない
だからこそ、やること、やり続けることが必要だ、、、ということかもしれない
でも、またもや「でも」だが、参加者が想定数より少ない現実は
告知方法の問題のみならず、このことに意味があるのか?までも問われるべきだと思ってしまう

しかし、それにしても、な~んも残っていない(ちょいと不安)

 





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