パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

情報の伝わり方、把握の仕方について

2018年12月08日 09時58分59秒 | あれこれ考えること

12月6日、中日新聞の朝刊(三河版)にこの記事が掲載された

以前から取り上げている、地域自治区の活動交付金絡みの記事で市としては恥ずかしい内容だが
今日のテーマは、対象議員の問題ではなく、この新聞報道と情報の伝わり方について

この記事が掲載された日の昼頃、ある人(今年は区の役員になっている人)にこの記事を見たかと聞いた
彼いわく、忙しかったし新聞自体をまだよく見ていないから見ていない とのこと
ひとりそういう人がいるということは、多数いるということ、、現実はそんなもんだろうなと感じる
それに読んだとしても、これが実際にはどんな話なのかをしっかり理解できている人がどれくらいいるかが疑問だ

既に何回か記事になっているが、それでも記事を読んで理解していることといえば、支払っていないにもかかわらず
領収書を業者に書かせてそれを使い市から交付金を受け取り、その判断が信義則に反するから交付金の取り消しになった
ということくらいだろう
市からの判断(交付金取り消し)のあとに、政治倫理審査会が市民からの要請で開かれ、しかも23回も開かれ
その委員会では、およそ一般社会ではめったに見られない不可思議なことが行われたことが明らかになったのは
多分、知らないでいるだろう

多くの人はとりあえず新聞でいろん事を知る(地方のことはテレビで扱ってくれない)
ところがそれを批判的に見る癖・習慣がないから書いてあるそのまま信じてしまう
そして、それが全てだと思いこんでしまう
市民が求めた政治倫理審査会の開設に署名を求めた時、ある人物は新聞に書かれたことだけを基準に
我々がこまめに調べた情報・証拠から導き出される疑いに聞く耳を持たなかった

新聞はスペースの関係で、全部を書ききれるわけでない
ポイントだけ、結果だけを、リリースされたまま報道している
リリースされたままというのが、少しばかり肝で、報道の方向性、受け取った側が受ける印象は
この時のリリースの仕方に依存する場合が多い
これは住民投票が終わった後の行われた実務協議についての報道の時に強く感じたことで
新聞は必ずしも公平・中立、正確なことを報道しているのではないと実感した

今回の場合でも、多くの人が知ったかも知れない内容だが、一番の問題は政治倫理審査会で
問題となったような、とてもありえない話が、そこには何も書かれいない
審議内容と直接関係ないといえばそれまでだが、対象議員の行った行動は、
彼に投票した人たちへの今後の選択に大いに影響する

それでも新聞に掲載された以上は、人は何らかの印象を彼に大して持つ
ところが新聞を見ない人は、購読していても見逃した人は、何も知らない
そういう人たちにとっては対象議員は、市の18人の市議会議員の中のひとり、よく顔を見たり
耳にする少し偉いひと、、、くらいの印象しか無いだろう

知っている人と何も知らない人の判断の違い
知ってる人と知らない人は判断どころではなく怒りの有り無しにもつながる
知らないでいるために、自分にとっても不利益になりそうなことが粛々と行われてしまう
誰かが自分たちのためにきちんとやっていてくれているというおおらかな(本来はそれが理想)
考えが基本だが、実際はそうではない例は現在の我が国の政治の進め方でも多く見られる

知らないでいるということを新聞を読まない人が多くなったとすると
新聞がなくなった地域に起こったこと、というアメリカのどこかの大学での調査ではゾッとする結果が出ていた
投票率が下がる、現役の当選率が上がる、議員の給与が上がる、縁故が優遇される、汚職が増加
もっと何かあったが、忘れてしまった
でもとにかくヤバイ状況になったのは間違いない

ということで、便りになるのは地方ではまだ新聞だが
その新聞も読み取り方に気をつけないと正確な把握はできないということ
やっぱり現実をきちんと把握しないと、自分たちが自分たちで損してしまうということ

でもいつも四方八方に目を配るのは、、、正直、、面倒
誰か真面目にやってくれないかな、、


コメント
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