パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

同じ土俵にあげるという戦術

2021年11月14日 09時12分29秒 | あれこれ考えること

最近よく使われる「論破」という言葉に違和感を持つ人はいるようで
今読んでいる「わかりやすさの罪」(武田砂鉄)にもこれは出てくる
この本の中に思わず納得する部分があった

保守論壇が対話や討論ではなく「ディベート」という形式にこだわるのは
ディベートは、複数の論点から話し合う対話や討論と違い、二項対立図式のコミュニケーションである。
それが好まれる理由は、一方に歴史学の通説を設定し、他方に特殊な少数意見を扱うことによって
あたかもマイナーな説を二大通説のひとつのように地位を底上げすることができ
同じレベルで議論することができるからだ
すなわち、ディベート論題は設定の時点で、すでに「俗説」「傍流」を格上げする
イデオロギーを発揮していることになる

つまりはディベートの対立軸として扱うことによって、意図的な勘違いを利用しているということで
この勘違いによる例として、昔、資生堂とカネボウの化粧品のCM合戦が行われた際に
会社規模とかその実力を知らない人は、無条件に資生堂とカネボウは同等な力を持つものだと思い込んだ
だが販売規模は圧倒的に資生堂が上だった
同等に扱われる様に広告展開をしたカネボウは賢かったが
得した企業のもう一つはCM収入を狙ったテレビ局だった

これは少数者あるいは弱者の戦術なのだろう
同じ土俵に上がって戦う機会を得る
戦術としては真面目に考えられた方法かもしれない
だが、気をつけないといけないのは、それを批評し判断の材料とする一般人の意識だ
ついつい、取るに足らない(かもしれない)説を大真面目に取ることで迷うことばかりが増える
そして当人はそれ故に冷静な判断をしうると思っている、、、

最近の世の中を見ていると、このようなことが至るところで多いような気がする
「論破」という言葉が出てくると、つい首を傾げてしまうが、違和感を持たない人も多そうだ
それがなんだか不安

コメント
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