現状をどう捉えるかで人の判断は随分違ってくる
世の中は少しばかりバタバタしているが、自分の生活には大して影響を被っていないから
なにか特別の変化はなくても良い!とする人たちと
ずっと続いているように感じられる社会の停滞は、一つだけの理由に留まらず
複合的なものから来ていて、それらを詳しく検証すると怒りを覚えるような
不公平とか情報の不均衡が見られて、現代の日本(あるいは市)は
既に危険ゾーンにいると考える人がいる
心配症の自分は後者の方に属していて、どうしても不安材料の情報が目に入る
少し前「わかりやすさの罪」武田砂鉄著をざっと読んだ
最近はわかりやすく説明されて、それでわかったような気にさせられることが
効率的で良いことの様に思われているが、その単純化された説明は
わかりやすいフレーズ依存故に、本当は大事な「わからないことをわからない」
と認めることすらできなくなっている危険性を繰り返して説いている本だ
例のごとく、本の中の本質部分とは違う部分で気になる箇所があって抜き出した
それが
これはトリエンナーレで騒動になった津田大介氏の事業に対するコンセプトを
説明する際に書かれたものだ
そしてこの現状認識は自分はその通りだと思う
だが問題は、自分のように感じない人は数多くいるという当たり前の現実だ
選挙の投票率然り、あべのマスク絡みのお金の使い方の杜撰さ
民主主義と言いながら実態は少数者の支配になりつつある世の中(これは衰退に繋がる要素だが)
それらはある人たちにとっては、単なるおせっかいな心配事、杞憂に過ぎないとしか認識されない
しかし、それは無関心の為せる技ではなくて、単に関心の優先順位が違うだけで
生活者としての個人は、日々追われる解決すべき課題の方に時間も気力も使わざるを得なくて
少しばかり実生活には結びつかないような抽象的な話は後回しにしたいだけなのかもしれない
いろんな生き方や、個性や、指向性はあっていいと思う
だが、一部の人の不安に共感したり、その理解ができるように改めて考えたりするきっかけ
を提供して、「自分の生活が大事!」とする生活者に少しでも優先度を変えてもらうことは
(それはとても良いことと思うが)本当に難しい
(それは誰がやるべきことか、、、)