パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

今でも怒りを覚えること

2021年11月15日 10時30分47秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

怒りの力は侮れない
それは行動に直結するパワフルさだけでなく
いつまでも人の心に通奏低音のように沈潜してしまう

我ながら情けないが、忘れられない怒りがある
それは新城市の住民投票に関する2つの出来事だ
(住民投票は、身の丈に合わない豪華な庁舎建設の縮小を求めた
 市民の呼びかけがきっかけで、紆余曲折の後、議会提案で決定した)

選択肢1 市道東新町桜淵線の路線の変更を伴わない現計画の見直し
選択肢2 市道東新町桜淵線の路線の変更を伴う現計画の見直し

2015年、新城市の新庁舎建設に関して住民投票が行われることになったが
その時の選択肢がこの2つだ
これを見た人(市民)は直感的に何を言っているか分からない
何を言っているか分からない状態で、どちらかを選べ!というのは随分乱暴な話だ

最近出版された前の市長が登場する本では
「住民投票などの制度の原則は、全住民が直感的に判断し、選択できる問いを用意しなければならない」
と評論家風に答えている
だが前の市長の時代に行われたのは、直感的に解りにくいこの選択肢だった
彼は「自分は分かる」と言って、この選択肢による住民投票に異議を感じなかった
(言ってることと、やってることが違う)

だが当事者である市民の自分らは、まずはこの解りにくい選択肢を変更するように働きかけた
住民投票は議会提案で決まったから、当時行われた議会報告会でそれを訴えた
だが議会は何も変更しなかった

この住民投票が行われる条件として前の市長は、この2つの選択肢の比較ができるように
「市民まちづくり集会」を開く様に求めた
ここまでは良いとしても、その先がひどかった

2つの選択肢の良し悪しを比較するのなら、双方(住民投票を求めた側と求められた側)の
言い分の発表時間は同じでなければならない
あるいは、同等の立場で意見を言い合うというのが当たり前のことだ
会場にいた人は、無条件にそのように行われるものだ、行われていたと思ったかもしれないが
全くそうではなかった

選択肢1は行政が決めたプランを実行するというもので、
選択肢2が住民投票を求めた側のプランだが、それぞれの案を発表する時間、
発表する人はとても奇妙なものだった
選択肢1は当然の様に行政が説明、そして選択肢2は市民が発表すると思いきや
なんとこれも行政が説明した
そして「選択肢2は自分たちの計画ではないからよくわからない」と会場で平気で口にした
更に選択肢2を発表する行政の人は、選択肢2の欠点を会場で発表した
(この欠点はデマで、その後調べてみるとそのような事実はなかった)

何故、そんなでたらめなことがおきてしまったのか?
それを追求してみると、そこには玄人にしかわからないようなルールがあったからとされた
つまり「まちづくり集会」そのもののあり方とか運営方法は
市民に公平にジャッジするための機会を与えるものではなく
決められた規則内で行われる集会に過ぎないというのだった
その運営方法によれば、発表時間も発表する人の選択も問題はないとされるものだった

だが会場にいた人の多くは、公平に情報提供がされるもの(されたもの)と無条件に思ってしまう
それは、勘違いするかもしれないが、勘違いするほうが悪い、自分たちはルール内で行ったに過ぎない
との弁解で、この理不尽な行為はいつの間にか市民の記憶から忘れさられるようになっている

ルールを知っているということは、抜け道を知っていることに繋がる
その抜け道をフル活用すれば、合法的に理不尽なこともできるようになる
残念ながらこの事実を知ることになったのは、これがきっかけだ

いまでも思い出すと怒りが沸々と湧いてくる
と同時に、世の中は随分いい加減なところで回っているものだとも感じてしまう
そしてこれは市だけでなく、国政でも似たようなものかもしれない、、と思うと
心配性は不安になってしまう






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レコードの音、CDの音

2021年11月15日 09時08分01秒 | オーディオ

物理的な要素からではレコードの音はCDにかなわないとされる
歪とか雑音のみならず、その他の要素もCDのほうがデータ的にも良く
CDの弱点と言われる高音域・低音域のカットは、そもそもその音は
人間に聞き取れないから問題ないとされる

でも、依然としてレコードの音のほうが良いと言い張る人もいる
その場合はいい音という基準ではなく、好きな音か否かに過ぎないと
結論付けられることが多い

最近の自分は圧倒的にレコードを聴くことが多い
それは、その方が好きな音というだけの事かもしれない
だがうまく言語化できないどこか違うところがそこにはある
感覚的な言い方になるが「ふわっとした雰囲気、音の熱っぽさ」
それがレコードからは感じられるがCDからは感じられない

この差は再生装置のレベルの違いから来ているかもしれない
レコードの方はちょいとプレーヤーにもフォノイコにもお金をかけている
CDの方はべらぼうに高くはないがそれなりの価格のプレーヤー
この金額の差がもしかしたら聴く時の印象に違いを与えているのかもしれない

でも、他の場所(素晴らしいオーディオ装置を揃えた喫茶店)などでCDを聴いても
やっぱりCDの音だな!とテンションが下がることがしばしばだ
バッハのマタイ受難曲などを始めとするレコードの面を替える無駄な手間も忘れて
その世界に没入するという経験は、CDでは残念ながら今のところない

レコードとCDの同じ演奏のものを持っているというのは、マニアにはありがちなことで
例外にもれず自分もいくつか重なっている
だがフルトヴェングラー指揮の「トリスタンとイゾルデ」
バッハの「音楽の贈り物」などはいくらCDが便利でもレコードを聴いてしまう
それは何かが違う!と感じるからだ

この感覚の違いは生活とか生き方に違いを生じさせるものではない
むしろほとんど影響はないだろう
でも何かに違いを感じるということは、実は何も感じないでいることよりは
些細な分野だとしても大切なことのような気がしている

まずは感じること
人は考えるよりも前に何かを感じる
感じることは想像以上に大事なことかもしれない、、と思ったりする

 

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