パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

専門家の話

2022年04月24日 09時40分24秒 | あれこれ考えること

どの本だったか忘れてしまったが、とても印象的なエピソードが記憶に残っている

それは、ある人が馴染みのない戦いに関する部署に入った時
そこで話されている仮空の議論(そこに出てくる戦術的な用語とか武器の話)を耳にして
この人たちはなんと世間ずれしたことを話しているのだろうと違和感をもった
ところが一週間そこにいるうちに、自分もその議論に違和感を覚えるどころか
それに染まってしまった、、、というのだ
この「慣れ」というものはとても危険だと思う

人はわからないことは専門家に聞く
これはよく有りがちな当然と思われることだ
だがこの専門家の視点とか思考というのは気をつけないととても危ない
専門家の視点はいつの間にか、理屈が現実よりも優先する世界になり勝ちとなるのではないか

専門家が考え経験し作り上げた体系は、その範囲内では正しいかもしれないが
他の要素がふんだんに入ることの多い世間という社会では、実践的・現実的ではない
のではないかとする考えがある
詳しく知らないので大きなことは言えないが、近代経済学は今や数学の分野になっていて
進むべき方向も数学的に導かれる方向に進むべきとされている世界観があるそうだ
だがその行き過ぎに対し、倫理観とかを元にその呪縛から逃れるべきだとする学派もあるようだ

最近の気の滅入るウクライナの話とかは、この専門家の戦術的な話が多すぎる気がする
そして何よりもプーチンは軍事的な発想以外の他の要素を考えたのだろうか?
と思えてならない
例え現時点である程度の目的を果たしたとしても、世界のロシアを見る目は
もう取り返しのつかないほど不信感に満ちたものになっている
また主権国家を力によって破滅されているウクライナの人々の感情をともなう内面は
残念ながら憎しみの感情を捨て去ることはできないのではないか
(占領地でいくら教育しても他の地区にいる人には)
つまりはトータルな視点からすればとても合理的とは思えないことをしている

ところが、専門家は事情をよく知っているがための落とし穴に入ってしまうう
専門家の陥る罠は「学問的な正確さ」由来のもので、どこか原理主義的な硬直さが見られる
ところが現実社会は多様な要素をもつ集合としての人間社会は、プログラムされたようには動かない
むしろ「適度な正確さ」くらいの結果にしか落ち着かない

専門家の、それはその深さ故に価値あるものとしても、そこに留まるのを良しとしなかったのは
ヘッセの「ガラス玉演技」の名人ヨーゼフ・クネヒトだった
ヘッセが最後に行き着いた場所が、個人の内面だけにとどまらず社会に働きかけるところ
までなったのは、最近の自分の考えが自己完結しているだけでは駄目だと言われているような気がする

例のごとく話は逸れた
ただ、防衛の専門家の方の話をそもまま聞くと、その「学門的な正確さ」故に
どこか切り捨てられた大事な部分があるのではないか、と思ってしまう

コメント
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