パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

違和感を感じることの大切さ、わかりやすさの弊害

2025年01月20日 11時27分10秒 | あれこれ考えること

昨年の大河ドラマ「光る君へ」は、わざわざ説明しなくても
フィクションだと理解している人が多かった
道長と紫式部の関係は、歴史資料にもそれを匂わせる部分があるので
まるっきり作り事と言えないにしても
清少納言との接点はそれぞれが勤めている期間が違うので
ドラマのようなことはなかったとされている

実はドラマを楽しむのは想像の作り物を楽しむだけ
というような気持ちで向かわないといけないかもしれない
紫式部は「蛍」の中の物語論で、物語から導かれる真実は
歴史書よりも優れている面もあるとしていたが
こと感情に関わるところなどは確かにそうだとも言える

だから物語を楽しむのは、歴史的事実の把握とか理解を楽しむのではなく
人が持ちうる感情や情熱の不可思議さ楽しむべきだと思われる

だが人は自分が理解しやすいことを真実と思いたがる
兵庫県の公益通報から百条委員会、知事選、公職選挙法違反に関する告発
そして昨日報道された前県会議員の自死につながる一連の騒動は
オールドメディア対SNSと言われがちだが
むしろ事実対妄想との戦いのように思う

問題はその妄想が人の感情を強く惹きつけるという事実
特に下半身のことになると、人は結局は動物的な行動とか興味に振り回され
本質的なものは蔑ろにされるのが定番のようだ

昔、毎日新聞が大スクープをとった
西山太吉という記者が政府の人物(女性)から沖縄返還に関する秘密の条約を
聞き出してそれを表に出したのだった
ところが、そこから世論とか社会の空気となったものは(報道の量的に多かったものは)
スクープの内容自体の秘密の条約の良し悪しとか是非ではなく
この情報の聞き出し方が、記者と女性が男女関係にあり、それは倫理的に許されるか
情報の漏洩は法令違反ではないか、、という問題にすり替えられてしまった

このすり替えの世論醸成は都合が悪かった組織が意図的に行ったのかもしれない
だが、それがまんまと上手く行ってしまったという事実は
兵庫県知事選で一気に広がった県民局長の不倫の噂話の広がりを連想させる

困るのは人は何が真実かというより、自分が理解できるものを
理解したいように理解するということだ
それはいろんな情報を持って自分たちに批判的な人たちに対しては
「上から目線」の言葉でその知見をカットして受け付けない

最近、読んだ「赤松小三郎ともう一つの明治維新」では
歴史は記録と忘却によって作られるとの言葉の紹介があった
記録に残されたものはわかりやすいストーリー化され
その流れで教育され、ついには一般化される(長州中心の明治維新解釈)

ところが同時進行していたそれ以外の歴史(幕府側の民主主義の提案)などは
忘却という選択を意図的に取られてしまった

物事はわかりやすいという価値観だけで進められるのは良くないかもしれない
確かにわかりやすいことは気持ちがスッキリする
でも世の中にはわかりにくいことに満ちている
アインシュタインですら理解できなかった(認めたくなかった)
とされる量子論は勿論のこと、経済学も影響する要素が多すぎるので
再現性がなく科学ではなくむしろ信仰だとされている

わからないことを認める覚悟 
それはネガティブ・ケイパビリティとの言葉で語られるが
そうしたものは、本当に必要だと思われる

個々の人間がある問題に対して感じる違和感のようなものは
その時に自分に説明(理解)でなきなくても
後にハッと気づくこともあるだろう
肝心なのはその違和感を感じる感覚とか経験をもつということ
特にそれなりの年齢の人はそうあるべきと思う


コメント
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