2つのノンフィクションを一気読みした
「ロッキード」 真山仁
「キツネ目」 岩瀬達哉
ロッキードは1976年
グリコ森永事件は1984年の出来事で
まだ生まれていなかった今の若い人は知らない出来事かもしれない
と言っても現実的にその時代に生きていた自分でさえ
知っていることはメディアを通しての報道によるもので
それらはすぐに忘れられ、なんとなく印象として残っているに過ぎない
こうして、幾多の資料を元に書かれた調査を読むと
2つとも奇妙な事件だったとの思いが残る
確か田原総一朗氏の本だと記憶しているが、ロッキードのことを書いた中に
2つの不思議なことが書かれていた
そのことはこの本にも書かれていたが、とても重要な証拠となる種類が間違って
よりによって一番行ってはいけない先に郵送されたということ
そして裁判ざたになった田中角栄氏への金銭授受(ホテルオークラでの)が、
当日の東京は雪の日の交通渋滞で、その時間には行えない出来事だったとするものだ
この本の最後の部分に書かれているが、ロッキード事件の少し前、立花隆氏の記事によって
田中角栄氏は金権・汚職まみれの人間的なイメージが世間にできつつあった
少し前までは今太閤として、コンピュータ付きのブルドーザと言われて絶大な人気を
誇っていたが、まるでその反動のように今度は嫌悪の対象となっていた
あの金に細かい人物(田中)は、ロッキードでもそうするに違いない
との全国民的な思い込みがあったのではないのかとしているが
とにかく、有無を言わさず悪いのは田中という空気ができていた
もし仮に裁判が丁寧に行われたいたならば、この件に関しての田中角栄氏の疑いは
正当性を欠くものだったとなったかもしれないとしている
だが、肝心な関係者は(本人も)もうこの世にはいない
民間機の導入に総理大臣が口を挟むというのは、少し変なことで
本当のロッキードの目的はP3ーCだったとの説が書かれているが
当時P3-Cという言葉を聞いた記憶がかすかに残っていて
この本を読んで、事件の全体像は(この人の解釈によるが)わかった気がする
しかし、それも今や想像の域を超えない
キツネ目の男の肖像画は今でも思い出すことができる
きつい印象で、悪いことをしそうな、、とすぐさま感じさせるものだったが
今回この本を読んでつくづく感じたのは、犯人はものすごく頭の良い人間ではないのかという点だ
頭が良いと書くとそれは違う!とお叱りを受けそうだが
彼の残した手紙・指示・皮肉は背景知識としての総量がかなり大きなものとして感じられる
それは勢いで物事を行う感じの人間ではないように思える
彼は結局、内密にどこかの企業から多額の金額を手に入れたかもしれない(それはわからない)
ただあれだけの事件を起こして、事件関係者に死んだ人間がいないというのは
驚くべきことかもしれない
いや、亡くなった方はいた
警察の方で、捜査ミスというか手続きミスで、せっかくの逮捕のチャンスを失った方が
その責任を負って焼身自殺された
また、最初のグリコ事件の際に、車でデートしていた若い男女は犯人たちに脅されて
ある役割を果たさざるを得なくなった
もう少しで結婚というところまでいた彼・彼女は、この事件がトラウマのようになって
お互いがかつてのように付き合う事ができず、別れることになった
そしてある日、偶然、二人は顔を合わすことになった
それぞれが子どもと一緒にいるところを確認した
時間は戻らない
キツネ目の男が現実的には誰も殺人を犯していないとしても
間接的には一人の死・二人の人生に大きな影を落としたのは事実だ
この2つの人フィクションを読んで、一般人の知りうることは
つくづくホンの少しだと感じる
大半はニュースとかそこから醸し出される空気に支配されている
そしてそれを自覚していない
我々はあのとき何を知っていたのか
何を感じたのか?
時間が経つということは、過去を冷静に振り返ることができるようになるかもしれない
この2つの事件は、時間がたった今こそ再検討されるべきかもしれない