パンセ(みたいなものを目指して)

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「神の見えざる手」には前提がある

2021年05月24日 10時55分04秒 | Weblog

有名なアダム・スミスの「神の見えざる手」は、少し誤解されて引用されていることが多いそうだ
需要と供給側が釣り合った時点で適切な価格が決められて、それはまるで人以外のなにかの力が
働いているかのように思えるから「神の見えざる手」と表現したらしいが、、、
よく引用されるのは、市場に任せておけば、適切な自動的な調整弁が働いてうまくいく
という説明に使われる
アダム・スミスが「国富論」の中でこの話をもってきた時、それには前提があるとしている
それは道徳とか共感とか同情とか、、そう言ったものを多くの人がもっているとすれば
と限定条件をつけているらしい
それは「国富論」の前に「道徳感情論」という著作を残していることから、道徳とか共感とかを
彼は欠くことができないものとしている

数値化できないために少しばかり曖昧な概念である共感とか道徳は、客観化できないが故に
効率優先の社会では居場所が見つけられないでいる
こうした傾向に拍車をかけているのが、現在の社会ではないか、、
と薄々感じるようになった人が増えつつあるとすれば、それはなんとなく腑に落ちる

いま日本に住む自分たちが生きているのは資本主義社会、民主主義社会とされている
そしてそれは当たり前に存在しているように思えるが、必然的に生まれてしまう弱者や
頑張れない人たちを見てしまうと、そもそも今の社会は適切なものだろうか
と考えてしまうことが最近の個人的な傾向だ

日本では疑問視されない資本主義がそもそも適切なものか?
現在を享受していても、この問は消し去ることはできない

話は変わって、アメリカのZ世代(1900年後半から2000年代に生まれた世代)の人々は
資本主義に肯定的が45%  社会主義に肯定的51%
と調査結果が出ていて、資本主義の本家のような国でも資本主義が万能だとは思っていないらしい
それはこの世代の人たちが現実に格差等の被害を受けて、明るい未来や展望も見られなくなっているから
と解説されている

それは日本でも同じではないか、、と想像するが、何故か日本はそうではないらしい
日本の社会の格差や不平等がそこまで(アメリカほどには)至ってないからなのか
それとも、見て見ぬ振りをしているのか、いつかは我がことと想像することができないのか
あるいは社会主義が無条件に唾棄すべきものとしての認識しかないからなのか

少し前に反知性主義のことを取り上げたが、よく考えると自然に浮かぶ「そもそもの前提を疑う」
(資本主義を疑う)といった思考法は、この国ではなかなかできにくいのだろうか

昨今のオリンピックに絡む報道を見ていると、現在の社会は資本主義のあるいは商業主義の暴走のもとに
成り立っているのではないか、、と思えてしまう
開催か中止か、この難しい選択を行うのは、自分たちが選挙で選んだ人たちだ(IOCに決定権があるというものの)

だが、その選ばれた人たちは、我々の代弁者か、、
庶民の近視眼的な意志が必ずしも正しいとは思わないが、それでも直感的に感じる不安とか選択の良し悪しは
なんとでも言いようのある説明よりは納得が行くような気もする

そうなると、長所短所を含めて、そもそもの代表制民主主義、直接制民主主義の意義とかあるべき姿を
考え求めなければならないと思うが、この問題は意識高い系の人の専門的な問題になってしまって
万人の問題とならない、、、

一体どうすれば良いのか、、、ストレスが溜まりそう、、、

 

 

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