パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

海外視察報告会

2024年01月21日 10時07分28秒 | 新城・地元に関すること

昨日、新城市庁舎で行われたイベントを見聞きしにいった
昨年秋ごろにチェコで行われた「ニューキャッスル・アライアンス会議」
に参加したユース2名、一般1名の視察報告がそれだ

ニューキャッスル・アライアンスとは「新城」と名前がつく世界の都市同士が
連携を持って何か行動を起こしたり、共通認識を持とうとするもので
言い出しっぺはなんと地元の新城市
現在参加しているのは20都市くらい(だったかな)

あまり大きな都市は環境が違いすぎるので、比較的似たような規模の都市に
声がけをしているようだ
言い出しっぺは最初「ニューキャッスル・サミット」という名で
政治的にトップ同士の関わり合いを目的としたようだが
現在は名前をサミットからアライアンスと変え
若い人、一般の人同士の交流等がメインとなっている

ニューキャッスル・アライアンス会議は2年に一度行われ、参加している都市の持ち回りで
数年前は新城市、今年はチェコの都市、次回はラトヴィアの都市となっている

「若いってことは良いなあ!」
視察報告をした高校生、大学生の話を聞いて思ったのはこのことだ
興奮気味に話す彼らは、確かに異文化での暮らしとか同世代の生き方に刺激を受けたようだ
数年前もイギリスのニュー・キャッスル(武藤が所属していたサッカーチームのある都市)に
視察した若い人たちの報告会があったが、その時も高揚感のような気持ちが現れる報告だった

報告された内容は予想されたように
英語の重要性、自分の意見を話す意志の力(英語力が力不足でも)
素早い行動を起こすことの意欲、コミュニケーションを取ろうとする気持ち
自分たちの国とか街とか歴史を知ることの重要性が
本当に身にしみて感じらたことがわかるものだった

参加した3名の渡航費用は市が負担
この人数は割当の数字ではなく、市が財政等を考慮して独自に決めた数で
参加予定者を募たところ、17名の応募があったとのこと

動画とか本とか映画で何となく見聞きして知っている様なヨーロッパの国々とか習慣
だが実際に行って生身で感じることは、その切実感が違う
そしてその強烈な印象は、もしかしたらその後の彼らの生き方すら変えてしまうかもしれない

市の税金を使って単なる会議に旅行に行くことに、抵抗感をおぼえる人がいるのは事実だが
可能性という意味において、自分はこれはもったいなくない出費と考える

海外旅行をしたことのある人は、それが単にお遊びのためだとしても
そこでの時間を過ごすうちに自然発生的に「自分の国、自分の街」との比較をしてしまう
つまり外に出るということは、凝り固まった自分の世界を広げる効果がある
ただこのショックは大きくて、必ずしもヨーロッパ等の先進国優先の価値観とはならないようだ

どこで読んだか忘れてしまったが、明治時代にヨーロッパとかアメリカを訪れた人の中には
その圧倒的な法とか秩序優先、科学優先の生き方についていけない人もいて
帰国したら途端に、日本の文化とか伝統とか生き方こそが唯一無二のものとして
いわゆる保守派(伝統主義者)になってしまった人もいたそうだ
(大半は進んだ欧米の概念とか法を取り入れるよう身にしみて感じたようだが)

自分の疾風怒濤の時代にヨーロッパを放浪した時、知らず知らず自分の国との比較をしてしまった
普段考えることない自分の国のこと、それが誰かに命令されたわけでもないのに国や街のことを考える
これは海外に行くと、きっと誰にでも起こる心理的な作用だと思われる

その変化が彼らにも起きた!と思われるような3名の報告だった
若い人にはこの経験を活かす時間がたっぷりある!
それがとても羨ましく思えるのだった

自分が感じた何か、ついつい頭ごなしにこうだと言いたくなってしまいそうになるが
彼らの感じ方は時代背景も知識も違うから、自分と同じように感じるとは限らない
結果的にいつかは自分と似たような到達点になるかもしれないが
その到達点は彼ら自身が手にするもので、教える必要もない

だが明らかに何かを感じた若い人、活かす時間がたっぷりある人に
何かを感じる機会を与えるということは、実は大人のすべきことではないかと思ったりする

大人は答えを教えるのではなく、若い人が自分で考え、行動する機会を与える
その答えが大人と違っていても無闇に口を挟まない
彼らがリアルタイムで感じていることを大事にし、なにか行動を起こすのを期待する
そうしたことも市のお金の使い方としてありだと思う
(反対する人もいるだろうし、反対の意見があることは正常な社会だとも思う)

ところで、こうした視察に出かけられた人々は、比較的恵まれた家庭の人たちを思われる
応募されていることを知る家庭、海外経験をさせる気持ちになれる家庭
言い方は悪いが、生活に切羽詰まっている家庭はこのようなことはその機会すらない

経験の機会の不公平性、そうしたものが現実には絶対存在すると思われる
「親ガチャ」の勝ち組は、これらの機会を得ることができるが、負け組は全く縁がないだろう
問題は、それで良いのか?という点
視察希望者は恵まれた家庭の人や、やる気のある人だけでなく
少し恵まれない家庭の人、物事に対する意識の低い人にも
抽選で機会を与えることも考える意味はあると思う

どんな人も、現地に行けば、自分の中のなにかが変わる
その変わることが、いつか地元にもなにかの形で戻ってくるに違いない
それなりの年齢の自分が、今の世の中とか市のことを考えていても
実際にこれから生きるのは若い人たち
その若い人たちが適切な判断をすべく機会を与えることは、無駄ではないと思う

とういことで、自分の経験を踏まえて昨日の報告会で感じたこと
それにしても、時間がたっぷりある若い人は良いなあ、、とつくづく感じる

ただし、新城市で行われている若者政策の「若者会議」については
個人的には安易に肯定できない気持ちでいるが、、


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 完敗(アジア杯 イラク戦) | トップ | 「資本主義は私たちをなぜ幸... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

新城・地元に関すること」カテゴリの最新記事