先日、地元の店に、この秋市長選に出馬する人のパンフレットが置いてあるので
「本人が来て置いていった?」と尋ねると
知り合いが持ってきて断ることもできず、おいておくことにしたとのこと
地元の店は選挙には慎重にならざるを得ない
表向きに誰々を応援すると表明しない企業は多く、それがその場所で生きていく秘訣かもしれない
次に「この人(出馬表明した人)のこと、どのくらい知ってる?」と尋ねると
パンフレットに書かれたことは僅かに知っておられたが、人柄や今までの判断してきたこと
(そのような仕事の人だったので)などは、全く知らないと答えた
次に「市議会議員はどのくらい知ってる?」と聞いてみた(市議会議員選挙もこの秋あるので)
「5〜6人くらいかな」(新城市議会は18人で構成)
「地元の〇〇と、△△と、それから 近くにポスターがある、なんて名前だったかな」
おそらく、この方は特別にこの手の情報に疎いのではなく、大半の市民は同じようなものと思われる
住民投票が行われる前の自分も議員の名前も顔も知らなかったので、このような現実は大して驚きもない
だが、いろんな話が集まるようなこの店の方は、悪い噂の市議会議員のことも知っているので
「市議会議員はなって欲しい人に立候補してもらえず、勘弁して欲しい人が出て、議員になってしまっている」
と巷でよく聞かれるフレーズを口にした
なって欲しい人が立候補しないのは何故か?
の大きな理由の一つは、家族の賛同が得られないからのようだ
現にその例を数人知っている
もちろん、それだけでなくもっと根本的なところで、エイヤッと出られない何かがあるのだろう
いずれにしても、市議会(市政)のゴタゴタとか、いろいろ現実を見てきたものとしての印象は
市議会議員や首長は、選挙前に表明される勇ましいマニフェストや考え方よりは
数段低いところで日常の行動をしていると実感する
人が得意でなさそうな、しかし多くの人が選ぶという点で最悪の事態は避けられるとされる代表性民主主義だが
人が人を選んで、その人に任せるという行為が、本当に現実的かは少し不安がついてまわる
それは国を見ていてもつぶさに感じることで、能力のある人、共感力のある人、人間的な人として選ばれた人が
その面を発揮することなく、勝ち馬とか多数決の原理を都合よく解釈、利用して自らの立場を守っている
人が人を選ぶ時、その一番の根拠となるのは何だろう
一番間違いがなさそうなのは、選ぶ人が選ばれる人の人柄や傾向をよく知っていることだろう
だが現実には広くそれが可能になることはない
すると、次は信頼できる知り合いから勧められるということがあるかもしれない
「あの人のいうことなら信用できる」
として、判断を他人に委ねるという手だ
一般的に選挙では王道とされるマニフェストの良し悪しは、果たして本当に選択の基準となるのだろうか
マニフェストは対立候補もそれなりのものを出してくるので、それぞれ良いことが提案される
その良いことの優劣の判断を人は果たしてできるのだろうか
(そもそも庶民には必要な背景知識がない場合が多いのではないか)
実態として、より良いものを目指すとして制度は存在する
その制度を利用する庶民は、数年に一度、とりあえずしなければならない行為としての投票を行う
だが現実はそれで一旦終了だ
世の中に政治的なことに関連していないことはない
と諭されても、やはり面倒くさいと感じる庶民の気持ちもよく分かる
と、困ることの多い現実だが、この秋は市長・市議会議員選挙だ
なにかしら、運を天に任せるしかないような気分になりつつあるが
それじゃイカンと!と考えて、庶民は何をすべきなのだろう
困った(あの議員じゃ本当に困るという人がいるので)
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