パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

ウンベルト・サバの詩

2015年09月20日 09時01分21秒 | 

いくら連休中とはいえ、昨日は連続してブログをアップ
やはり安保関連法案の可決に精神的に興奮していたのかもしれない 

何やら気持ちに余裕が無くなって来ているようなので
本来のどうでもいいようなことに話題を無理やり移すことにする

ウンベルト・サバというイタリアの詩人がいる
須賀敦子さんの「イタリアの詩人たち」ある時偶然手にした
そこで出会ったのが、「トリエステ」と題されたウンベルト・サバの詩 

トリエステ

街を、端から端まで、通り抜けた。
それから坂をのぼった。
まず雑踏があり、やがてひっそりして、
低い石垣で終る。
その片すみに、ひとり
腰を下ろす。石垣の終わるところで、
街も終るようだ。

トリエステには、棘のある
美しさがある。たとえば、
酸っぱい、がつがつした少年みたいな、
蒼い目の、花束を贈るには
大きすぎる手の少年、
嫉妬のある
愛みたいな。

この坂道からは、すべての教会が、街路が、
見える。ある道は人が込み合う浜辺につづき、
丘の道もある。もうそこで終りの、石ころだらけの
てっぺんに、家が一軒、しがみついている。
そのまわりの
すべてに、ふしぎな風が吹き荒れる、
ふるさとの風だ。

どこにも活気に満ちた、ぼくの街だが、
悩みばかりで、内気なぼくの人生にも、
小さな、ぼくにぴったりな一隅が、ある。


この「イタリアの詩人たち」の触発されて購入した
ウンベルト・サバ詩集には
トリエステも言葉がはいった別の詩がある

三本の道

トリエステには、閉ざされた悲しみの長い日々に
自分を写してみる道がある
旧ラッザレット通りという名の
救貧院に似た、どれも同じな古い家屋のあいだに
ひとう、ただひとつだけ、明るい調べが
海が、交差する何本かの道のつきあたりなのだ
生薬とアスファルトが匂う道
人気のない倉庫のむかいには
網や、船舶に使う
縄を商っている。ある店の看板は
一本の旗。中では通行人に背をむけ、ふりむきも
しないで、血の気のない顔の女たちが
とりどりの国旗の色の上に
かがみこんで、人生の苦悩の持ち分を
減らそうとしている。無華の囚人たちは
暗い顔で陽気な旗を縫う

悲しいことも多々あって、空と
街路の美しいトリエステには
山の通り、という坂道がある
とばくちがユダヤの会堂で
修道院の庭で終わっている。道の途中に小さな
聖堂があり、墓地に立つと、人生のいとなみの
黒い吐息が聞こえ、そこからは、船のある海と、岬と
市場の覆いと、群衆が見える。
それから、坂の片側には、荒れはてた
墓地。僕の記憶のあるかぎり
絶えて、葬式も、埋葬もない
旧ユダヤ人墓地。そこにいるのは
ぼくの思いにとって大切な
苦労を重ね、商売にあけくれて
葬られた、たましいも
顔も同じな、ぼくの先祖たち 

山の通りは聖なる思い出の道だが
歓びと愛の通りは
ドメニコ・ロッセッティ街
街はずれの、緑につつまれたこの通りは
日一日と色褪せ
街らしくなり、田舎を忘れるが
よかった頃の魅力も、まだ、残っている
散在する、昔に建った家と
数少ない並木
すべての窓が開かれている夏の夕べに
ここを散歩すると、どの窓も見晴らし台で
縫い物をしながら、本を読みながら待っている
ここなら、愛するひとが、もういちど
むかしながらの人生の愉しさに、花ひらき
彼を、彼だけを愛してくれるかもしれないと思う
わが子には、もっと薔薇色の健康を、と 

 

 

イタリア語で味わうのではなく、翻訳された日本語で鑑賞する
韻やリズム、音から感じられる印象はわからないので
ただ翻訳された言葉からイメージするしかないのだが
これらの詩は何故かとても自分にとって心地よい

肝心なトリエステという街の情報も自分にはない
サバの生い立ち、人間性も知らない
でも、なにかしら惹きつける
何故なのか?
と突き詰めるのが 深く知ることになるとは思うが
今のところ、味わうだけで満足している

日本語に翻訳してもイメージの喚起力がすごい
それは詩人が描き出す世界が素晴らしいのか
それとも、須賀敦子さんの翻訳が素晴らしいのか
須賀さんのエッセイ等を読んだ時、その文章力には圧倒されたし、嫉妬してしまった )

最近、左脳を使う機会が多すぎるので
こうした右脳に栄養を補給するようなことを
しなくてはいけないかもしれない 




 

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どちらに言い分があるか?(安保法案反対と賛成)

2015年09月19日 10時18分02秒 | あれこれ考えること

世の中には本当に賢い人がいるもので、抽象的な事柄を
わかりやすく説明できる
その一人が、ある人のSNSの投稿で知った伊藤真氏
この方の国会参考人質疑での発言が、とてつもなくわかりやすく
説得力がある

その動画が これ

テキストに書き起こされた氏のオフィシャルのページは、これ
    ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
2015.9.8参議院 平和安全法制特別委員会
伊藤真 参考人意見陳述全文 

これは、安保関連法案に反対の立場の人の発言

ならば賛成側の方々はどんな考えのもとにいるかと調べてみた

ジャーナリストの櫻井よしこ氏ら保守系の有識者らが設立した「平和安全法制の早期成立を求める国民フォーラム」が
9日、国会内で緊急セミナーを開き、安全保障関連法案の速やかな成立を求める要望書を採択した。要望書全文は以下の通り。

 平和安全法制の早期成立を強く要望する

 現在、参院で行われている平和安全法制の審議が、今月27日の会期末を前に、大詰めを迎えている。

 平和安全法制に、反対派は「戦争法案」などというレッテルを貼り、国民の不安をあおってきた。彼らは、国民の理解は得られていないと非難するが、的外れの議論を展開して国民の理解を妨げているのが反対派である。このような現状を憂い、法案への理解促進と早期成立を目指して、私たちは学界、言論界、法曹界、財界などから広く賛同者を募り、「平和安全法制の早期成立を求める国民フォーラム」を立ち上げ、去る8月13日、安保法制の意義を訴える記者会見を行った。

 平和安全法制の成立が急がれるのは、わが国を取り巻く国際環境が劇的に変化したためである。北朝鮮は核ミサイルの開発を進め、わが国も標的にしている。また、中国は南シナ海の岩礁を次々と埋め立て、3000メートル級の滑走路を建設、軍事基地化を進めている。東シナ海ではガス田に海洋プラットホームを構築、軍事用レーダーなどの設置が懸念されている。尖閣諸島はすでに重大な危機にさらされており、沖縄も中国の侵略の目的とされている。軍事的脅威は増すばかりであり、北朝鮮や中国の脅威を抑止し、わが国の平和と安全を維持するため、平和安全法制の一日も早い整備が必要である。

 国際法を無視して世界秩序に挑戦し、力による現状変更の試みを露骨に進める中国の海洋進出を放置すれば、わが国存立の生命線であるシーレーン(海上交通路)にも危機が及ぶ。米軍の力が相対的に低下している中で、南シナ海から東シナ海にいたる広大な海洋の安全を維持し、これまで通り各国船舶が自由に航行しうるようにするためには、他国との連携が不可欠である。わが国には、日米同盟を中心に、オーストラリアやマレーシア、ベトナム、フィリピンなどの国々と協力して、抑止力を高め、中国の軍事的脅威から平和で自由な海を守っていく責務がある。

 南シナ海の航行の自由を守るため米軍が活動する中、万一不測の事態が生じた場合に、日本が後方支援も行えないとすれば、日米同盟が健全に機能し続けるとは思えない。北朝鮮によるミサイルの発射や朝鮮半島有事、さらに中国の軍事的脅威に備えて日本海に展開中の米艦が攻撃され、日本の存立が脅かされるような事態が発生した際、わが国が米艦防護のため、限定的な集団的自衛権すら行使できなければ、米国の世論の反発は必至であり、日米同盟は崩壊しかねない。

 今回の安全法制は、日米同盟の絆を強化することによって戦争を抑止し、わが国の平和と安全を守るためのものであって、世界の50カ国以上の国々が賛意を表している。

 平和安全法制の一刻も早い成立を願い、当フォーラムではこの度、新聞紙上に意見広告を掲載した。100万枚の啓発用チラシも作成し、全国各地で配布しているところである。当フォーラムは、国民の誤解を解消し、正しい理解を深めるため最大限の努力を惜しまない。平和安全法制の意義と必要性は、今後時間の経過とともに必ずや多くの国民が理解し、受け入れるものと確信している。

 政府および国会は、今こそ速やかに平和安全法制の早期成立を断行すべきである。

平成27年9月9日

平和安全法制の早期成立を求める国民フォーラム   ↑ここまで

両方をじっくり受け止めて、どちらに納得が行くのか?
実際には人は客観的な受け止め方などできなくて
予めどちらかの意見にシンパシーを覚えるものだが

需要な案件だけに本当は国会レベルだけでなく国民レベルでも
この手の比較が必要だったのではないかと思わざるをえない 
それを懇切丁寧に行うのがメディアの役割の一つではなかったか
 

さて自分の立場は、デモにも参加したことで明らかなように
反対の立場
そもそも安保法案の前に特定秘密保護法が出た時から
きな臭いというか、危険を感じていた
メディアが自由に取材できないとかの問題ではなく
勝手に秘密とすべき内容と判断され都合の悪いことは公にされないこと
時の権力による解釈による暴走が予想されるこの法が
安保法案とセットになればとてつもなく危険と思うのは
何も不自然なことではない 

それにしても、反対派のほうが理性的で
推進派のほうが感情的と思えてしまうのは
自分だけだろうか?

 

 

 

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日米協同宣言をぼんやりと思い出してみると

2015年09月19日 09時23分22秒 | あれこれ考えること

自分の関心は最近でこそ政治的な要素が多くなっているが
今までのブログの大半は、どうでもいいようなことの連続だった
政治に関心がなかったわけではないが、それほどではなかった

そんなわけで正確な記憶ではないが、
昨年オバマ大統領が来日した時の共同会見(?)をフト思い出した
この来日の際安倍さんが招待した寿司屋で
オバマ大統領はいくつか食べずに残したとかが話題になったが
肝心なことは記憶に残っていないのが情けない

ただ記者会見で大雑把に自分が解釈したのは(勘違いしているかもしれないが)
尖閣諸島の問題についての解釈について
日本よりの発言をしたのは
政治上の駆け引きの一つでTPPの問題を前進させるためのリップサービスで
実際に突っ込んで聞くと、尖閣諸島の問題についてはアメリカは
中国との軍事的緊張が高まることは望ましくない
お互いに協力して平和的に解決してほしい と続けて
必ずしも安保の適用対象を重視しているわけではない印象を受けた

それはそのはず、アメリカにとって中国は一番の輸入国
中国にとってアメリカは一番の輸出国
そして現実的に軍事大国であり、そんなに簡単に何かできるわけでない

そんな中で武力を前提とした抑止力の概念を
中国脅威論を感情的に掲げ、外交的努力の成果も見せず
推し進めていったのが今回の安保関連法案
その抑止力としての実効性は本当にどうなのか

中国は安保法案可決の知らせを受けて
自分たちはさらなる軍備を用意すると報道している
抑止力のはずがさらなるエスカレートを生んでいる
(理由などはなんとでもつけられるので
 必ずしもこれが理由というわけでないが )

そして多くの人が心配するように
アメリカと一体となった行動は早とちりする人にとっては
いくら政府がいう正確な表現を行っても、希望する通りとってもらえず
敵国の扱いを受ける可能性がある

物事はすべてが正確に伝わるわけでない
むしろ正確に伝わらないことのほうが多い
このリスクを踏まえたうえでの法案だったのか
審議だったのか
やっぱり、その実効性についても多いに疑問の残る
つまりは審議不十分な法案だったと言わざるを得ない


 

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デモは無力だったのか?無駄な行動だったのか?

2015年09月19日 08時34分27秒 | あれこれ考えること

本日未明(9月19日)に参議院本会議で安保関連法案が可決された
数カ月前から国会前には多くの人びとがデモに参加し
抵抗の声を上げた

しかし、参議院における与党野党の構成比はいかんともしがたく
野党の考えうる抵抗も虚しく原案どおり可決となった
ここで、「法案反対!」と叫んだデモは結果的に
何も成し得ていないから無駄な努力、無力だったのか
と考えると、そうではないと言える(負け惜しみではなく)

まずは、デモに参加する人びとは参議院の与野党の構成比を
知っていないわけではない
普通なら常識的に可決されることは分かっている
しかし、その上で「廃案」と叫び続けたのは何故か?

デモの声が大きくなれば与党側も無視できないはず
と期待した面もある に違いない
また結果はどうなるにせよ、いてもたってもいられず
なにかせざるを得なかったというひとも少なくない

デモは結果的に目に見える成果を収めることはできなかった
しかしあれだけの人数が活動し続けたことはメディアの注目を集め
その様子が全国に伝えられた
それが無関心だった人にも興味を向かせるきっかけとなったのは
多くはないかもしれないが、無駄ではなかったといえる

はじめから一気にうまくいく
廃案にできると考えるほど、当事者は甘い認識ではなかったと思う
(それを口外するかどうかは別にして)
本当は、これからが始まりなのだ
そのきっかけをつくったのがデモの功績なのではないか

それにしても、世論調査で審議不十分、今国会での採決は否とする
数字が出ているのに無視して採決を強行して
国民の間に自虐的に
そのような議員を選んだのが失敗だったとか
そのような議員を選んだ国民(自分たち)が悪かったのだ
と思わせるような状況にしたのは、
やはりまともな姿ではないのではないか

今の政治の進め方
議会が採決装置となって多数決主義が幅を利かす
これは成熟した民主主義とは言えないのではないか

より良い民主主義を実現するためには、結局国民は
更に痛い思いをいなければならないとしたら
我々は過去から何を学んできたというのだろう 

とにかく、デモはそれなりの意味はあったと信じたい
これからが始まりだ
国民一人ひとりが、考え知恵を持つようにしなければ! 


 

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民主主義と多数決主義

2015年09月18日 15時19分57秒 | あれこれ考えること

デモのシュプレヒコールに「民主主義ってなんだ」があった
そして国民が選んだ議員による採決で、安保関連法案が可決し
この多数決の結果が民主主義の現れだと
何かやりきれない思いでいた

恥ずかしながら多数決イコール民主主義と思っていた
新城市で5月に行われた住民投票で結果が出て
その結果に従うのが民主主義というものだと思っていた

しかし、それはどうやらそうばかりではなさそうだ
多数決というのは、多く採用されている便利な意思決定システムで
民主主義と関連は深いが、それでもって
多数決イコール民主主義ではない
との説明がネットで調べると当たり前のように出てくる
(今更こんなことに気づくのは恥ずかしいが) 

例えば採決の結果が51対49となった時
51の方に従わなければならないというのは
民主主義ではなくて全体主義、独裁主義と認識とのこと

つまり敗者側の、あるいは少数派の意見が切り捨てられるシステムは
不完全であり、多数決はそのことを理解したうえでの
便利な意思決定システムということ 

民主主義のもっとも理想とするのは
いかに多数決をしないか
全体一致 みんなが同じように選択すること
その為に話し合いを行っていくのだが
現実にはこれは不可能
だから仕方なしに、多数決という決定システムをもちいている
だけのこと 

なるほど、こういうことなら政治のプロである新城市長の
住民投票の結果を受けて、メディアに向けての発言
負けた側の意志も深く汲み取り、、、
の意味も分からないではない

ただこの場合(新城市の場合)敗者側の意志は汲み取られても
一番大事にされるべき住民投票に勝利した側の意志は
形だけに終止し、本質的に反映されていない
様に思えてしまうところに問題がある

それにしても、自分は何も知らなかった
と反省する次第 

※とても参考になったページ

「民主主義=多数決」じゃないよという話

民主主義の基本はいかに「多数決」をしないかだと思うんだよね

 


 

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強行採決

2015年09月18日 08時05分07秒 | あれこれ考えること

奇妙な風景だった
テレビ画面では何回か目にしたことのあるシーンだが
実際にリアルタイムで見ることなると
最初は何事かと思い、飲み込めてくると
それはとても恥ずかしい行為の様に感じられた

参議院特別委員会での安保関連法案についての採決シーンのこと
鴻池氏が議長席に戻った瞬間、とっさに数人が議長席を囲む
慌てて別の人がそれを阻止しようとする
議長席はもうぐちゃぐちゃで何が起きているかわからない
怒号が飛び交う
その内に着席していた議員が声は聞こえないので
議長を囲んでいる人物からの合図で何事なかったかのように起立する

そうしたシーンが数回あってテレビ画面に速報で
「安保関連法案 参議院特別委員会で可決」が流れる

こうして法案は決まっていくのか
少しあっけにとられた
最初から委員会のメンバーの人数構成から結果はわかっていたが
なにか割り切れないものが残る

今朝のテレビでは数人が議長席を囲んでバタバタしている時に
「審議打ち切り」の動議が出され、それが可決され
いきなり今まで審議していた法案の採決になったとのこと
「審議打ち切り」の瞬間は与党関係の議員さんは聞こえなくても
わかったかもしれないが、野党の人たちは聞こえなかったに違いない

こうした行為を強行採決と表現するのかと理解しようとすると
そうではないとの考えがある
強行採決とは与党が単独で行う時を言うのであって、今回は
元気、次世代、改革が参加しているので強引な採決ではない
との説明 

しかし別の捉え方は、審議が十分になされていない状態で
しかも審議をすればするほど前に発言したことと
最近発言したことの食い違いが出たりして
またこれはややもすると憲法以上の権限を持つ可能性を示唆しており
時の政権の判断に依存して法的安定性を欠いたものになり
そもそも憲法を土台とした民主主義の根幹が揺るがされることになる
もっと審議を尽くすべきだ
安倍首相自ら国民の理解は進んでいないことを求めているのではないか
そんななかで行われる採決を強行採決とは言わないのか
ということになる

審議時間はトータルで何十時間も費やされており
物理的には審議は尽くされたと理解できる、、、

ものは言いようだ
ああ言えばこう言う 
肝心なのは説得力を持つのはどちらか という点だが
それを決定するのは議決権をもつ議員さん
結局はシンプルな結果、数がモノを言う

しかし、昨日のあの中での採決は、何時、何の採決が行われたのかは
わからない(採決すべきことは分かっていても)
単に手続き上の問題とはいえ、聞こえない状況下で採決をするのは
いかがなものか
もっとも、野党側は野党側で違う状況ではやはり過激な方法を
とったかもしれないが

この強行採決のシーンは夜のニュースで何度も流されて
採決が行われた瞬間を見ることが出来ないサラリーマンも
結果だけは知ることができるが、それはやっぱり結果だけ
ハイライトシーンだけ、そしてテレビでは識者がこのシーンの説明をする
そしてなんとなくわかった気がする

このわかった気になるというのがまた怖い
テレビを見る人は自ら考える当事者ではなく、評論家になってしまう可能性がある
採決の経過を、また与野党のそれぞれの戦術をテレビでは面白おかしく
説明するために決められた内容よりはそちらの方に関心がいってしまう

関心をもってもらいたい事柄を、そのまま一般の人に伝えるのは難しい
真面目に取り組んでいる人であればあるほど
「何故わかってくれないのか!」と焦りを感じたり
絶望感を感じたりすることも少なくない
今回デモに参加した人、この結果に失望感を覚えてしまうのか
それとも新たな始まりと考えるか

ただ個人的な印象だが
日本全国で「人任せの民主主義」ではなく
自らが情報収集し、考え、行動する人びとが増えてきたように思う
そんな時代に必然的に移りつあるのを感じる

それにしても、先の選挙で自民党を選挙で選んでしまった人も
今は「しまった、こんなはずではなかった」
とつぶやいている人、少なくないのでは!




 

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何も言えなくなる前に!

2015年09月16日 19時33分56秒 | あれこれ考えること

ある人が自分の親にこう聞いた
「始まる前に何故戦争に反対しなかったのか?」 
答えは
「あの時はとてもそんなこと言える雰囲気、状況ではなかった」

これはその人だけでなく、おそらく多くの人が経験した思いに違いない
そんなことを叫べば非国民の烙印を押される
近所との付き合いもできなくなる
変な人だと思われる
家族にも迷惑がかかる、、、


2015年9月の今はまだ大声で自由に「戦争反対!」(あるいは反政府的な発言)を叫ぶことができるが
ある時期を境にして、空気が変わってこの様に「何も言えなくなる」可能性がある
そんな事は杞憂、想像上の世界のことと思う人がいるかもしれない
しかし、もしなってしまったら、その時はもう全くの手遅れになってしまう

だから物事はなんでも言える内に、危険な方向に行くことを想像力をもって阻止しなければならない
まだ間に合う!と言っている内に外堀はどんどん埋められていって
そんなはずではなかった!となってしまうのは避けなければならない

おそらく大衆は感情的な扇動に弱い
なにかプライドを傷つけられることがあれば、理性よりも感情が先立ってしまう
そして自分でも想像した以上の行動をしてしまう
人間は実際には理性的な生き物 ではなく、自分のなかで理性と感情が戦えばいつも感情が勝利する

この人間に対する、いい意味での不信感を担保するために
人間は想像力を働かして最悪の状況を作らない知恵を発揮しなければならない
なんでも言えるうちに、 

 

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組織の中の個人

2015年09月16日 05時56分12秒 | あれこれ考えること

中日新聞の社員のなかにも多分ジャイアンツが好きな人がいる
阪神ならなんとなく許せそうでも
仕事上競合する読売新聞がメインスポンサーのジャイアンツが好きだと
社内で口にするのは少し空気を読まないと難しそう 

スポーツの事ならまだいいけれど
日本テレビや読売新聞で安保関連法案に反対する人がいたら
その人達は一体どんな態度をとるのだろう
個人の心情的と仕事とは関係ないと、
堂々とあの組織の中で自分の意見を押し通せるか? 

また安保関連法案反対のデモの警備をする仕事の警察の方々はどうなんだろう
仕事として警備を行っているがデモをする人の心情も理解できる人もいるに違いない
しかしデモする人が警備の仕事に負担をかけるようなことをしたら
その時点で、デモを何故行っているかどうかはどこかに行ってしまって
感情的に反発心を持つかもしれない

そんな個人個人の心情のことを想像していた時に、昨日の参議院の公聴会での
『SEALDs』の代表の発言をネットで見つけた
これがなかなかのもの

正直なところ、安倍さんの70年談話よりはわかりやすいし、理性を感じる
安倍さんの70年談話はスピーチライターの作品の出来を判定するなら
必要字句は入っているし、無難にまとめて一定の評価はできるかもしれないが
メッセージとしてはある一部分を除いてまるっきり他人事
何が言いたいかわからない

ネットに出ていたこの公聴会の発言をコピー&ペーストしてみると------------------------------------------------------------------------

「ご紹介に預かりました、大学生の奥田愛基といいます。

 『SEALDs』という学生団体で活動しております。

 すみません、こんなことを言うのは非常に申し訳ないのですが、先ほどから寝ている方が沢山おられるので、もしよろしければお話を聞いていただければと思います。僕も二日間くらい緊張して寝られなかったので、僕も帰って早く寝たいと思っているので、よろしくお願いします。

 初めに『SEALDs』とは、”Students Emergency Action for Liberal Democracy-s”。日本語で言うと、自由と民主主義のための学生緊急行動です。

 私たちは特定の支持政党を持っていません。無党派の集まりで、保守、革新、改憲、護憲の垣根を超えて繋がっています。最初はたった数十人で立憲主義の危機や民主主義の問題を真剣に考え、5月に活動を開始しました。

 その後、デモや勉強会、街宣活動などの行動を通じて、私たちが考える国のあるべき姿や未来について、日本社会に問いかけてきたつもりです。

こうした活動を通して、今日、貴重な機会をいただきました。今日、私が話したいことは3つあります。1つは、今、全国各地でどのようなことが起こっているか。人々がこの安保法制に対してどのように声を上げているか。

 2つ目はこの安保法制に関して現在の国会はまともな議論の運営をしているとは言いがたく、あまりにも説明不足だということです。端的に言って、このままでは私たちはこの法案に関して、到底納得することができません。

3つ目は政治家の方々への、私からのお願いです。

まず第一にお伝えしたいのは、私たち国民が感じている、安保法制に関する大きな危機感です。この安保法制に対する疑問や反対の声は、現在でも日本中で止みません。つい先日も国会前では10万人を超える人が、集まりました。

しかし、この行動はなにも東京の、しかも国会前(だけ)で行われているわけではありません。

私たちが独自にインターネットや新聞などで調査した結果、日本全国2000ヶ所以上、数千回を超える抗議が行わわれています。累計して130万人以上の人が路上に出て声を上げています。

この私たちが調査したものやメディアに流れているもの以外にも、沢山の集会があの町でもこの町でも行われています。まさに、全国各地で声があがり人々が立ち上がっているのです。

また、声を上げずとも、疑問に思っている人はその数十倍もいるでしょう。

強調しておきたいことがあります。それは、私たちを含め、これまで、政治的無関心と言われてきた若い世代が動き始めているということです。これは誰かに言われたからとか、どこかの政治団体に所属しているからとか、いわゆる動員的な発想ではありません。私たちはこの国の在り方について、この国の未来について、主体的に一人ひとり、個人として考え、立ち上がっているのです。

SEALDsとして活動を始めてから、誹謗中傷に近いものを含む、さまざまな批判の言葉を投げかけられました。
例えば『騒ぎたいだけだ』とか、『若気の至り』だとか、そういった声があります。他にも『一般市民のくせにして、何を一生懸命になっているのか』というものもあります。つまり、『お前は専門家でもなく学生なのに、もしくは主婦なのに、お前はサラリーマンなのに、フリーターなのに、なぜ声を上げるのか』ということです。
しかし、先ほどもご説明させていただきましたように、私たちは一人一人、個人として声をあげています。不断の努力なくして、この国の憲法や民主主義、それらが機能しないことを自覚しているからです。
『政治のことは選挙で選ばれた政治家に任せておけばいい』。この国にはどこか、そういう空気感があったように思います。
それに対し私、私たちこそがこの国の当事者、つまり主権者であること、私たちが政治について考え、声を上げることは当たり前なんだということ、そう考えています。
その当たり前のことを当たり前にするために、これまでも声を上げてきました。そして2015年9月現在、今やデモなんてものは珍しいものではありません。路上に出た人々がこの社会の空気を変えていったのです。

デモや至るところで行われた集会こそが『不断の努力』です。そうした行動の積み重ねが基本的人権の尊重、平和主義、国民主権といった、この国の憲法の理念を体現するものだと私は信じています。
私は、私たち一人ひとりが思考し、何が正しいのかを判断し、声を上げることは、間違っていないと確信しています。また、それこそが民主主義だと考えています。

安保法制に賛成している議員の方々も含め、戦争を好んでしたい人など誰もいないはずです。
私は先日、予科練で特攻隊の通信兵だった方と会ってきました。70年前の夏、あの終戦の日、20歳だった方々は、今では90歳です。ちょうど今の私やSEALDsのメンバーの年齢で戦争を経験し、そして、その後の混乱を生きてきた方々です。
そうした世代の方々も、この安保法制に対し、強い危惧を抱かれています。私はその声をしっかりと受け止めたいと思います。そして議員の方々も、どうかそうした危惧や不安をしっかり受け止めてほしいと思います。

今、これだけ不安や反対の声が広がり、説明不足が叫ばれる中での採決は、そうした思いを軽んじるものではないでしょうか。70年の不戦の誓いを裏切るものではないでしょうか。
今の反対のうねりは、世代を超えたものです。70年間、この国の平和主義の歩みを、先の大戦で犠牲になった方々の思いを引き継ぎ、守りたい。その思いが私たちを繋げています。
私は今日、そのうちのたった一人として、ここで話をしています。つまり、国会前の巨大な群像の中の一人として、国会にきています。

第二に、この法案の審議に関してです。
各世論調査の平均値を見たとき、初めから過半数近い人々は反対していました。そして、月を追うごと、反対世論は拡大しています。『理解してもらうためにきちんと説明していく』と現政府の方はおっしゃられておりました。
しかし説明した結果、内閣支持率は落ち、反対世論は盛り上がり、この法案への賛成の意見は減りました。

選挙の時に集団的自衛権に関してすでに説明した、とおっしゃる方々もいます。しかしながら自民党が出している重要政策集では、アベノミクスに関しては26ページ中8ページ近く説明されていましたが、それに対して、安全保障関連法案に関してはたった数行でしか書かれていません。
昨年の選挙でも、菅官房長官は『集団的自衛権は争点ではない』と言っています。さらに言えば、選挙の時に国民投票もせず、解釈で改憲するような違憲で法的安定性もない、そして国会の答弁をきちんとできないような法案を作るなど、私たちは聞かされていません。
私には、政府は法的安定性の説明することを途中から放棄してしまったようにも思えます。憲法とは国民の権利であり、それを無視することは国民を無視するのと同義です。

また、本当に与党の方々は、この法律が通ったらどんなことが起こるのか、理解しているのでしょうか、想定しているのでしょうか。先日言っていた答弁とはまったく違う説明を翌日に平然とし、野党からの質問に対しても国会の審議は何度も何度も速記が止まるような状況です。

このような状況で一体、どうやって国民は納得したらいいのでしょうか。
SEALDsは確かに注目を集めていますが、現在の安保法制に対して、その国民的な世論を私たちが作り出したのではありません。もし、そう考えていられるのでしたら、それは残念ながら過大評価だと思います。
私の考えでは、この状況を作っているのは紛れもなく、現在の与党のみなさんです。つまり、安保法制に関する国会答弁を見て、首相のテレビでの理解し難い例え話を見て、不安を感じた人が国会前に足を運び、また、全国各地で声を上げ始めたのです。

 ある金沢の主婦の方がFacebookに書いた国会答弁の文字起こしは、瞬く間に1万人もの人にシェアされました。ただの国会答弁です。普段なら見ないようなその書き起こしを、みんなが読みたがりました。
なぜなら、不安だったからです。

今年の夏までに武力行使の拡大や集団的自衛権の行使の容認を、なぜしなければならなかったのか。それは、人の生き死にに関わる法案でこれまで70年間、日本が行ってこなかったことでもあります。
一体なぜ、11個の法案を2つにまとめて審議したか、その理由もよく分かりません。一つひとつ審議しては駄目だったのでしょうか。まったく納得が行きません。
結局、説明をした結果、しかも国会の審議としては異例の9月末まで延ばした結果、国民の理解を得られなかったのですから、もう、この議論の結論は出ています。
今国会での可決は無理です。廃案にするしかありません。

私は毎週、国会前に立ち、この安保法制に対して抗議活動を行ってきました。そして沢山の人々に出会ってきました。その中には自分のおじいちゃんやおばあちゃん世代の人や、親世代の人、そして最近では自分の妹や弟のような人たちもいます。
確かに若者は政治的に無関心だといわれています。しかしながら、現在の政治状況に対して、どうやって彼らが希望を持つことができるというのでしょうか。関心が持てるというのでしょうか。
私は彼らがこれから生きていく世界は、相対的貧困が5人に1人といわれる、超格差社会です。親の世代のような経済成長も、これからは期待できないでしょう。今こそ、政治の力が必要なのです。

どうかこれ以上、政治に対して絶望をしてしまうような仕方で議会を運営するのはやめてください。
何も賛成からすべて反対に回れと言うのではありません。私たちも安全保障上の議論は非常に大切なことを理解しています。その点について異論はありません。しかし、指摘されたこともまともに答えることができないその態度に、強い不信感を抱いているのです。

 

 政治生命をかけた争いだとおっしゃいますが、政治生命と国民一人ひとりの生命を比べてはなりません。与野党の皆さん、どうか若者に希望を与える政治家でいてください。国民の声に耳を傾けてください。まさに、『義を見てせざるは勇なきなり』です。
政治のことをまともに考えることが馬鹿らしいことだと思わせないでください。現在の国会の状況を冷静に把握し、今国会での成立を断念することはできないのでしょうか。
世論の過半数を超える意見は、明確にこの法案に対し、今国会中の成立に反対しているのです。自由と民主主義のためにこの国の未来のために、どうかもう一度考えなおしてはいただけないでしょうか。

私は単なる学生であり、政治家の先生方に比べ、このようなところで話すような立派な人間ではありません。もっと言えば、この場でスピーチすることも、昨日から寝られないくらい緊張してきました。政治家の先生方は毎回このようなプレッシャーに立ち向かっているのだと思うと、本当に頭が下がる思いです。
一票一票から国民の思いを受け、それを代表し、この国会という場所で毎回答弁をし、最後には投票により法案を審議する。本当に本当に、大事なことであり、誰にでもできることではありません。それは貴方たちにしかできないことなのです。

では、なぜ私はここで話しているのか。どうしても勇気をふり絞り、ここにこなくてはならないと思ったのか。それには理由があります。
参考人としてここにきてもいい人材なのか分かりませんが、参考にしてほしいことがあります。

 ひとつ、仮にこの法案が強行に採決されるようなことがあれば、全国各地でこれまで以上に声が上がるでしょう。連日、国会前は人で溢れかえるでしょう。次の選挙にも、もちろん影響を与えるでしょう。
当然、この法案に関する野党の方々の態度も見ています。本当にできることはすべてやったのでしょうか。私たちは決して、今の政治家の方の発言や態度を忘れません。
『三連休を挟めば忘れる』だなんて、国民を馬鹿にしないでください。むしろ、そこからまた始まっていくのです。新しい時代はもう始まっています。もう止まらない。すでに私たちの日常の一部になっているのです。私たちは学び、働き、食べて、寝て、そしてまた路上で声を上げます。できる範囲で、できることを、日常の中で。

 私にとって政治のことを考えるのは仕事ではありません。この国に生きる個人としての不断の、そして当たり前の努力です。私は困難なこの4ヶ月の中でそのことを実感することができました。それが私にとっての希望です。最後に、私からのお願いです。SEALDsの一員ではなく、個人としての、一人の人間としてのお願いです。

 どうか、どうか政治家の先生たちも、個人でいてください。政治家である前に、派閥に属する前に、グループに属する前に、たった一人の『個』であってください。自分の信じる正しさに向かい、勇気を持って孤独に思考し、判断し、行動してください。
みなさんには一人ひとり考える力があります。権利があります。政治家になった動機は人それぞれ様々あるでしょうが、どうか、政治家とはどうあるべきなのかを考え、この国の民の意見を聞いてください。

 勇気を振り絞り、ある種、賭けかもしれない、あなたにしかできないその尊い行動を取ってください。日本国憲法はそれを保障し、何より日本国に生きる民、一人ひとり、そして私はそのことを支持します。
困難な時代にこそ希望があることを信じて、私は自由で民主的な社会を望み、この安全保障関連法案に反対します。

2015年9月15日、奥田愛基。ありがとうございました」-----------------------------------------------------------------------------------

 奥田氏のメッセージの一番のポイントは別の部分だったかもしれないが
自分にとっては、赤色の部分が、冒頭あげたように組織の中の個人のことを
考えていたのでとても気になった

これは波風を立てないように、空気を読んで、長いものには巻かれろ
またはあるべき組織論
といった日本人が多く持つ傾向とは少し違う印象を持つ

組織の中の個人 組織の中であっても個人は個人
生活のため組織人として振る舞うか
人として個人として振る舞うか
どちらが正しいなんてわからない
ただ言えるのは、どちらを選択するにしても一度自分の中にある
自分の声と向かい合うこと その上で決めることが肝要と思われる

ところがこの自分の「内なる声を聞く」訓練が
果たして政治家の方々にできているのかがとても疑問に思えてならない
(その容貌で判断するしかない、しかし生き方は表情に出るものだ)

政治家はその立場から「偉い」のではなく
他人から行いをもって「偉い」と評価されるのも
他人から自分の内なる声を聞いて行動していると判断され
無条件に「偉い」と感じられる政治家さんはいるのだろうか
実はこれが一番の心配事  
政治屋さんはいても政治家はいないような、、、



 

 

 

 

 

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世論調査と決断の乖離(国と新城市)

2015年09月15日 19時36分52秒 | あれこれ考えること

最近は安保関連法案に関する報道もメディアによる違いが明確になってきて
出てきた数字をそのまま鵜呑みにするのは危険になってきているが
NHKの世論調査によると安保関連法案について

審議は尽くされたか
  はい 6%

  いいえ 58%

  どちらとも言えず 28%

今国会で成立

  賛成  19%

  反対  45%

  どちらとも言えず  30%

と明らかにされた
NHKがどちらの立場に立っているかは別にして、公にされた結果は
審議は尽くされていないし、今国会で成立することは好ましくない
と数字に出ている

しかし、17日には与党は強行採決をしてでも決めてしそうな様子

国民は待て!と言っているのに、国民に選ばれた(?)議員は
国民の意志を反映しない行動を取ろうとしている
(それは国民の意志ではなく、少数の意見と解釈すると彼らは口にする) 

この構図は、余りにも新城市の市庁舎に関する事柄とそっくりなので
少し呆れてしまった
新城市でも、市庁舎建設を見なおせと市民の声が多数を占めた
しかし、市民に選ばれた決定権のある市長、
議決権のある議員は(市民の声を聞くふりをして)
実際には 自分たちの決めた方針を変える気持ちはなさそうに思えてしまう
(この予想が外れればいいのだが)

いったい代議員による民主主義とは何なのか
それはまともに機能するシステムなのか
ついそんなことを考えざるを得ない

こんな状況が予想されるので新城市では
少しづつ市民が自分たちのために(人任せではなく)
市政に関与しなければならないと考える人が増えつつあるが
国においても議員任せではなく、自分たちもしっかり勉強して
モノを言う人達が増えたきたように感じる 

おそらくこうした傾向は日本のいたるところで見られるに違いない
肝心なのはそれが間に合うこと、手遅れにならないこと
国も地方も、、

それにしても、人間が考えつくシステムというものは
何をやっても完全なものはできないようだ
代議員による民主主義に代わって世論をベースの人気取りの政治は
それはそれで危険な方向に進む可能性がある
ほんと、つくづく人間というやつは、、、

※ 吉田拓郎の歌を思い出した
 人間なんてララーラ、ラララララーラ
  人間なんてララーラ、ラララララーラ 

この歌、井上陽水が吉田拓郎のつくった歌の中で
嫌いな曲と話してたYOUTUBEの動画があった
(井上陽水から見れば人間なんて!と言うテーマが壮大すぎるとか
何とか言ってたような気がするが 、記憶違いか)

ホント、人間なんて、、、

 

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レコードを聴いた後にCDを聴くと

2015年09月14日 20時15分36秒 | 徒然なるままに

我が家にはレコードプレーヤーがある
今まで集めたものを無駄にしてしまうのはもったいない
との思いでレコードを残しているのだが
最近は中古レコードの安さにひかれて増えるのはレコードばかりになっている

もちろん音の良さも忘れることはできない
ところで、自分の部屋で
CDを聞いた後レコードを聴く
しばらく何も聞かなかった後CDを聴く
レコードを聴いた後CDを聴く
このそれぞれの場合の印象が随分異なる 

最初にCDを聞いた後にレコードを聴くと多くの人が言うように
何かしらあったかいホッとするような気がする
そしてそれは気のせいかもしれないとも思ったりする

次にしばらく聴かなかったあとCDを聴く
別に問題は感じない 便利でそれなりのスッキリした音
特に便利さがありがたいと思う

一番困るのは、レコードを聴いた後CDを聞いた時のこと
なにこれ!
音がスカスカ、情報量が圧倒的に少ない、中音部の迫力がない
そんなガッカリした思いになることが多い

レコードとCDで同じものを持っている場合はレコードを優先して聴く
CDしか持っていない時はレコードからCDに切り替えるのだが
レコードを聴く耳が出来上がった後のCDは本当に最悪
音量をあげても増えるのは音量だけで
音楽の情報量は空虚なまま

これはレコードとCDの規格の違いによるものか
それとも自宅のシステム自体が
レコード再生の方に費用をかけているせいなのかが分からないが
現実の話、それなりのレコード再生の機材を用いたものは
CDよりもずっといい音(自分にとって)がする

CDは今の技術のことだからそんなはずはなかろうと
時折オーディオショップで高価なCDプレーヤーなどでの
再生音を聴くと、静寂からの立ち上がりとか一つの楽器、声の
削ぎ落とされたきれいさは感じるが、どうしても音楽的な感動には至らない

それでもCDプレーヤーにレコードプレーヤー並みの金額を投資してみれば
CDでもこんな不満足にはならないかもしれないと考えたりするが
もうオーディオに費用をかける余裕がなくなってきている
もともと、オーディオの病気にはならないつもりでいた
何かを変えると変化があり、それはそれで面白い世界かもしれないが
自分が聴きたいのは音響ではなく音楽
そして身の丈にあったシステムで諦めることにしている 
そしてそれで良いと思っている

しかしそれにしても、レコードを聴いた後のCDの音
この落差を考えると、技術は本当に進歩しているのかとさえ思う
(CDが便利なのは認めるけど、大事なのは音楽の方、それを犠牲にまでして
 推し進めるのは豊かなことなのか?と思ったりする)

ちなみにシステムはレコードの方の入力部は
カートリッジ DENON 103
プレーヤー ノッティンガムハイパースペース
フォノイコライザー EAR 843P 

CDの方はプレーヤーが
MUSICAL FIDELITY  A3.2CD

アンプは一緒なので省略

確かに比較するには不公平な価格差
価格差からすればレコードの方にそれなりの実力を
発揮してもらわなければ吊り合わないのだろうが 

 

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