パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

見える景色が違う

2020年10月19日 09時19分25秒 | サッカー

長友を始め右サイドでも左サイドでも、問題なくプレイできる
サッカー選手もいるが、普通はどちらかのサイドを専門職として任される

高校時代、自分は最初、右サイドのバックスだった
それが、途中で左に変わるように言われた
変わった最初の日、まるで景色が変わってしまって戸惑った
右と左に変わっただけで、印象として全く違う

サッカー選手の見ている景色
後ろにいる選手が練習ゲームで前目のポジションを任された時
彼は広大な(?)スペースを眼の前にして「何をしたらいいのか!」
と一瞬迷うかもしれない

後ろの選手は前で起きていることを見ながら次の展開を予想して
ポジション取りなり体の向き、走るコースの選択を行う
パスのコースの限定がチームとしてあるとしても、基本的には
前で起こっていることのリアクション的な要素が多い

ところが最前線の選手はリアクションではなく、自分で何か道を
あるいは得点の可能性のある場所を確保するためにしかけなけれればならない
この仕掛は約束ごとのようになっている場合だけでなく、多くの場合個人の
ひらめきとか思いつきとか感性によって行われる

ここからが本日の問題点だが
日本人(選手)は前で起きていることへの対処はできるが
自ら創造的な(ある意味自分勝手な)行動はできないのではないか
とずっと思っていた

日本人は釜本以来、純然たる点取り屋は生まれていない
釜本も今のサッカーでプレイしていたらそれほど得点はできなかったかもしれないが
それでも、得点の入ることの少ないサッカーにおいては、点を取る事ができるというのは
天から与えられた才能(タレント)だと思える
この才能の持ち主は、大概の場合性格的にも変人が多い可能性がある

この点はとるが少し変てこな性格の選手という存在を
日本という国の好みは(空気は)あまり評価しないのではないかと思ってしまう

岡崎慎司選手はそのひたむきさ故に心動かされるが、日本の前目の選手のあるべき姿は
こうあるべきとパターン化されていないだろうか(最近は南野もその部類に入りそう)
その原型を作ったのは中山かもしれない
エネルギッシュに走り守りにも貢献する
そしてその姿を見て日本人は感動する

でも、スポーツは結果が全てだ
そんなにひたむきに走らなくても、結果だけは残す選手がいる
例え結果が残せなかったとしても、彼に任されたプレイ時間においては
完璧に近いことをしそうなことをするそのポジションの職人みたいな人がいる
イブラヒモビッチとかレヴァンドフスキがそうで、
特にイブラヒモビッチは一つ一つの得点がやたらと印象に残るものが多く
そのスーパーな得点に笑ってしまうしかないが、どうも性格的には
変わり者の印象を受ける
だが、そのへんてこな性格ゆえにあのスーパーなプレイができると考えることもできる

現在いろんな所でよく言われる多様性は、サッカーの場でも実現されるべきと思うが
消えてる時間の多そうな「点を取るだけが上手い選手」は日本社会は育てられないような
気がしている

これは社会に通じることで、平均的であること、みんなと同じであること、空気を読むことが
要求される社会は、天才が生まれても育てられないのではないか、、と思ってしまう

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「枕草子」研究本

2020年10月18日 09時32分38秒 | 

去年は源氏物語を現代語訳で読んで「得した」と実感した
大半は忘れてしまっているとしても、頭に刻まれた何かは
何も刻まれていないかつての自分とは何かが違う

源氏物語は紫式部だが、まるで対のように連想するのは清少納言の枕草子
冒頭の文章は有名だがその先は殆ど知らない

先日、偶然ツイッターで藤原道長の有名な
「この世をばわが世とぞ思ふ望月(もちづき)の欠けたることもなしと思へば」
の歌に従来の解釈とは違う説が登場して議論になっていると紹介された方がいた

「この世」が「この夜」で、「欠けたる」云々は数日前に行われた結婚式での
器のこととか(いい加減に読んだので忘れてしまったが、こんな様な内容だった・)
つまりは、小市民的な生活感にあふれた歌というのだ
紹介された方は、「それはない!」との立場の人だが、これが専門家会議で問題と
なっているのならば、専門家同士の熱い討論を聞いてみたいと思う

そこでツイッターでこの方のプロフィールを覗くと、中世の研究者らしく著作に
「枕草子」があった
そこで、急に枕草子が気になって、以前購入したままで積読状態になっている
枕草子を引っ張り出してみた(もちろん読むのは現代語訳)

この方はもっと専門的な分厚い研究本を出しているようだが、それを読むには前提となる
知識量が圧倒的に足りないので、とりあえず手頃な価格の彼女の「枕草子」の研究本をアマゾンで購入した

現代語訳の枕草子を読み終わる前に、研究本が家に届きそうだが
すぐにでもこの研究本の方を読みたい気分
でも、読んでなきゃわからない部分が多く出てくるだろうな、、
(出てきたところを、追いかけて読むしかないか)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大切にしている(昔の)漫画

2020年10月16日 09時13分00秒 | 徒然なるままに

「鬼滅の刃」が大人気だそうだ
先日は炭治郎のイラスト入りのハンカチの奪い合いの兄弟喧嘩をして
登校が遅れそうになったこともあった
(月木のあいさつ推進運動で校門まで付きそいボランティアの時)

「鬼滅の刃」もそうだが少し前の「ワンピース」も自分の守備範囲から外れている
「ドラゴンボール」はギリギリ引っかかっている
おっさんになって、少しづつこうした課題クリアの上昇志向的な物語がしんどくなってきた
のかもしれない
あるいは、パソコンで描かれる絵に対して親しみを感じられないためなのかもしれない

でも以前は夢中になった漫画があった
そしてその漫画の全巻を持っている
それが


「がんばれ元気」小山ゆう作だ
これも一種、ビルドゥングス・ロマン的(教養小説的)な一個人の成長の物語

ボクサー堀口元気の物語だが、登場人物は強い人ばかりじゃない
むしろ弱さを内蔵している人たちが多い
この漫画、「火垂るの墓」みたいに絶対泣きそうになる場面があるので
読み返す気分になれないでいる
でも手元に置いておきたいということで大人買いしたのだった

自分は読み返さなかったが、ある時、帰省した妹と一緒に付き添った義理の弟は
最初から最後まで夢中になって読んだ
読み始めるとそうなる気持ちはよく分かる

鬼滅の刃も読んで見れば「ビルドゥングス・ロマン」なのかもしれない
ただ床屋さんで一巻目を見て、もうこれ以上はいいや、、、と感じたのだった
(歳のせいかな?)

漫画ではもう一つ大事なものが本棚にある
「共犯幻想」真崎守/斎藤次郎原作
これは漫画アクションに連載されたもので、ヘッセの小説を読んだくらいの衝撃を受けた
これは時々読み直す
年齢による感じ方の違いを確認するように

感じやすい時期に何に接するか
これは想像以上に(後の人生に)影響力があるかもしれない
総合的・俯瞰的に見れば、学生時代は受験勉強のみを優先的に行うのは
将来にとってあまり良くないと思う(個人にとっても社会にとっても)

ということで、新しいものにはついていけないおっさんの思い
昔はよかったではなく、昔のものでもいいものはあるということ、、

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

センサーの働くタイミング

2020年10月16日 09時13分00秒 | あれこれ考えること

ミツバチは巣が暑くなりすぎると、ある数のミツバチが羽で風を起こし温度を下げるらしい
だがミツバチがみんな真面目にその行為をするかといえば、一見サボっているように
見えるミツバチも存在する
どうやら温度に反応するセンサーがミツバチにより差があって、低い温度で活動を
開始するもののあれば、もう少し高い温度でないと働かないものがあるらしい
それは遺伝子から引き継いでいる性質で、こうしてセンサーの温度差があるのは
自分たちの生存の確率を高めるためだそうだ
(一気に同じ温度で全てのミツバチが同じ行動をすると、ミツバチは疲れて死んでしまうとか、、)

同じ刺激とか環境変化に対して、早めに反応するとかしないというのは
ミツバチの世界のことだけではなく、人間社会でも似たようなことが見られると思われる

痛い目をすれば分かるとか、当事者となれば分かる
これは誰もが認めること
しかし、人の中には痛い目をしなくても、当事者でなくても「想像力」というセンサーを使って
未来を予想し、好ましくない未来をさけようとする(力が働く)人たちがいる

現在の日本の社会に対し、ある一定数のセンサーが働く人たちがいる
それは批判勢力といった政局絡みで理解されるものだけではなくて
むしろ、なんとなく!といった一種無意識の感覚のようなもので
無意識的なものだけに明確に言語化されず、他人に対しての論理による伝達は
少しばかり難しくなっているかもしれない

例えば最近の政府に対する恐怖感(例えば学術会議の介入、中曽根さんの弔意を示すことへの要望)
それを感じる人、特に違和感も感じずにいる人
センサーが働くスタート時点が違っているだけかもしれないが、
センサーの働く人々にとっては重大な問題だが、そうでないひとには大した問題ではなくなっている

現在の群衆あるいは大衆の無意識的な意志とか空気
小市民的でセンサーが働きやすい人々にとっては、不安が多い世の中になっているような気がする
(これが杞憂であれば良いのだが、少しばかりストレスを感じている)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「あんた、一人でつらかったやろなあ」

2020年10月15日 08時49分48秒 | あれこれ考えること

「あんた、一人でつらかったやろなあ」
この一言で、彼女は弁護士の変更を決意したのだそうだ

知人から借りたこの本は森友学園騒動の中、公文書改ざんを命じられ、
自ら死を選んでしまった赤木俊夫さんの奥さん赤木雅子さんの心の変化、行動変化を
時系列にそってジャーナリスト相澤冬樹氏の筆で紹介されている

週刊文春のスクープ記事にするタイミングの選択やら、その時のジャーナリストの功を焦る
気持ちみたいなものが人間的でリアリティがある
誰でも理解できる感情的・人間的な面では冒頭の「「あんた、一人でつらかったやろなあ」
の言葉が一番印象に残った

赤木雅子さんは裁判を起こす覚悟をした
その時の弁護士は現在の弁護士さんとは違う
前の弁護士さんは穏便に処理しようとする作戦を選んだ
その方法もあり得たが、セカンド・オピニオンとして別の弁護士の話を聞いた時に
その弁護士からでたのがこの「「あんた、一人でつらかったやろなあ」という言葉

人の心を動かすとか納得するというのは、実は感情の力だと実感する
理性で理詰めで説得されても反論できないほど完璧であっても
人にはどうしても、もやもや感は残る

「カラマーゾフの兄弟」ではイワンの凄まじい大審問官のエピソードでは
キリストを想像される人は黙って大審問官に口づけをする
そしてアリョーシャもイワンに口づけをする
理屈の上の議論・討論は新たな諍いを生むだけ、、
まるでそう語っているかのよう

「あんた、一人でつらかったやろなあ」は、おそらく弁護士の感情的な理解ではない
彼女の話をしっかり聞いたうちで、人としての専門家としての弁護士の判断で
つい出てしまった言葉だと思われる

確かに、この本には当事者しか知りえない驚くべきこと
(それは大手メディアでは報道されていないこと)が記されている
赤木さんのパソコンには改ざんの支持の明細(内容・時系列)のファイルが残されていて
それを見ればどのように改ざんが行われたか一目瞭然で理解できるようになっている
この資料は検察の手に渡っている
しかし、何故か検察は改ざんについて刑事的な佐川さん等の起訴を断念した
(この時の検察のお偉いさんが黒川さん)

心配性な小市民のおっさんは、現在のこの国が知らないうちにとても危ない方向に
舵を切っているような気がしてならない
問題は「知らないうちに」ということ
知らないというのは「知らされていない」のか「知る気がないのか」の両面がありそうだが
この部分の検証をしっかりしていかないとまた痛い目にあいそう

人は左脳による理解には時間がかかるが、感情による(あるいは視覚・第六感による)理解は
一瞬で行われるようだ
それは危機に対して時間をおかずに対応するための、生き物として本能のようなものらしい
早い判断、熟考の判断、、これは以前読んだ「ファスト&ロー」にも書かれているが
政府のどこか他人語のような説明よりも「あんた、一人でつらかったやろなあ」
のたった一言のほうが、ひとの心に響く
でも、現在はこうした叫びすら心に響かなくなっている世の中になっているのではないか
との不安も頭をよぎる

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

総合的・俯瞰的が使われた当初の意味

2020年10月14日 09時29分59秒 | あれこれ考えること

流行語大賞になると良いな!
と意地悪な気持ちを込めて思うのが「総合的・俯瞰的」という言葉
世間を賑わしている学術会議の6名の学者さんの任命拒否に菅さんが使用して言葉だ
これは抽象的な言葉で使い勝手が良さそうで、実際のところ何を意味しているかわからない
こうした都合の良い言葉は、官僚さんや地方自治体では職員の独壇場で
いつも煙に巻かれる気がしてしまう

ところで「総合的・俯瞰的」の言葉は2003年に学術会議で使われていて
それを踏まえて菅さんが使ったらしいが、2003年の時のこの言葉は
学者の研究範囲が専門分野のみに偏らないようにする意味で使われたらしい
人文系分野はその性質上専門分野だけで完結することはなく多方面に関連してくる
個人として専門バカになる傾向は仕方ないとしても、
組織としてバランスを取るように気を配るための方針だそうだ
現在想像されるような政治的な意図のバランスを図るというのとは違うらしい

前例に従って自動的に行なっていいものか?
(後任を自分の仲間内から選び、選出自体が形骸化しているのではないかとの疑いで)
と菅さんが言う学術会議員の選出は、過去に何度か選び方が変更になっているとのこと
最初は公選制
だがこれは多数派工作的な危険性があるので、分野別推薦制に変わったらしい
でも人のやることはどうしても欠点が生まれる
ここでも分野ごとの勢力争い生じる
そこで学術会員の推薦制にしたらしい
それはまず各分野の領域の方々に2000名の候補者を出してもらい
分科会か何かで絞り込みをしていくらしい
この絞り込みを多くの人で行うので「誰かの後任」などということで
選ばれることは現実的には不可能ということだ
(選出者と選ばれた人の利害関係を明らかにすることは現実的には無理ということ)

ということで、内部の歴史とか事情をよく知っている方(前任者の大西さん)の話を聞くと
どうも政権側の理屈のほうが説得力を持たないものになっている(と思う)

今回政権は少しばかり学者さんを舐めていたのではないか
学者さんの理屈や法則性を大事にする身についた考え方は
政治屋さんの抽象的な実態のわからない進め方に異論を唱えるのは
感情的というよりは、筋が通っていない(理屈にあっていない)気持ち悪さから
来ているような気がしている

だが現実の話、いつも思うことだが田舎のおっさんがなにか言ったところで
何かが変わるわけではなさそう
でも、少しは変わるかもしれない、、、と思っっていることも事実

それにしても、どこか薄気味悪く感じる今回の案件
成り行きは注視しなければ、、、
そして、できることをしなければ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

筒美京平さんの好きな曲

2020年10月13日 11時17分06秒 | 音楽

名前はよく目にしたが、顔は全然知らなかった気になる作曲家
筒美京平さんが亡くなった
朝からテレビではこの話題を取り上げている
そこで出てくるのが「ブルー・ライト・ヨコハマ」「また会う日まで」「魅せられて」などのヒット曲

でも自分は、これらの曲じゃなくて
南沙織の「色づく街」、太田裕美の「雨だれ」(木綿のハンカチーフではなくて)
麻丘めぐみの「悲しみのシーズン」(麻丘めぐみは好きじゃなかったけど)
郷ひろみの「よろしく哀愁」、野口五郎「甘い生活」、小泉今日子の「夜明けのMEW」
が好きだった
全部、短調に傾く切ない感じの曲

こうして思い出すとあの当時の歌謡曲は良いのがあったなと思う
現在はジャンルも聴く人も細かく分かれて、誰もが知っているという曲はない
妙にポジティブ傾向で、、ちょいと、違うぞ、、、と言いたくなってくる

いかんいかん、「今の若いもんは、、、」に通じるお説教は嫌われるだけか

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

知の支配が生んだ格差(あるいは知の格差が生んだ分断)

2020年10月12日 09時46分15秒 | あれこれ考えること

時代はイデオロギーの東西問題から経済の南北問題に主要課題が変化している
現在はそれに加えて「知」の問題が密かに台頭しているのではないか
と紹介していたのが昨日の中日新聞の視座

以下が10月11日付けの中日新聞「視座」の内容

個人的にはこれで今まで疑問に思っていたことが少しクリアされたような気がしている

モノゴトの極端な単純化、自分がわからないことに対する不当な怒り(専門家の話はわからない)
そして自分の(勝手な)理解を無条件に信じようとし、その仲間の存在を知ることによる安心感
これらは反知性主義ともいわれる(かもしれない)

反知性主義は、上記の考え方によれば「反知性主義」なのかもしれない
教養人は、理屈の上では否定しようもない正論を語る(自由・平等・民主主義のあるべき姿・人種問題など)
しかし、「正しい人は怖い」の例があるように、原則論で原理主義のように語られると
それを窮屈と感じる人がどうしても出てくる

この人たちはある時は(アメリカでは)隠れトランプ支持者となったり
ある時は反動的に知識人を目の敵にする
例えば学術会議のメンバーの人となりや研究成果を知らずとも意味のない組織と断定する
そして問題はここで、同様な判断を下す人が一定数存在する
それは人の考えることは自由といった余裕のある態度とは全く違い
彼らは自分たち以外の考え方を認めようともしない傾向がある
(もっとも一部の教養人も相手の言い分を真っ向から聞こうとしない傾向もあるが)

偶然かどうかはわからないが現政権に否定的な姿勢を示すのは、いわゆる知識人が多い
彼らを「反日」とか「パヨク」と決めつけて攻撃する人たちは
ツイート等の発言から判断するに、広範な教養を持っているとは感じられない
彼らの行動は知識人に対する「ルサンチマン」のようにさえ思えてくる

新聞記事にあるように「知の分断」は明らかに存在する
しかし、その分断を生み出している原因は経済格差と関係がありそうで
自助・共助・公助などとのんびり言ってられる状態ではない、、、と思う

イデオロギーの違い、意見の相違
それは個性に起因することもあるが、知識の絶対量の違いも存在しそう
知の格差は、もしかしたら経済格差以上にヤバイかも
(経済格差が知の格差なんだろうけど)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

正確な情報より、好みの情報を信じているのではないか

2020年10月11日 09時08分52秒 | あれこれ考えること

正確な情報が伝わらない時代なのかもしれない
相反する情報は受け手が自分の好みのみを収集しがちだ
今はインターネットという文明の利器があるが、その傾向に拍車をかける

政治は数だ!と開き直って現実論を公言し、巷に流れる情報も
自分の都合の良い方を意図的に多くしようとする戦術が
取られることがないとは言えない

日本学術会議のメンバーは6年勤めるとルールで学士院になり、終身250万円の年金をもらえる、、
というデマは、発言をしたフジテレビの平井氏が謝罪して訂正したにもかかわらず
やはり、いつまでもそれを信じている人が相当数いる

デマはデマを信じるというより、信じたいと思うことで成り立っているのではないか
今朝のTV番組で甘利氏が「学術会議員の中には中国の千人計画に参加している学者がいる」
とした自身のブログを紹介したが、出演者に「それは本当か?」と聞かれると
確かめてはいない、、とのことだった
しかし、巷では甘利氏のこの手の発言が既に一部の人達に一気に拡散して学術会議批判の根拠となっている

確かな情報でないにもかかわらず発信力のある人がこのようなことを広める(意図的に?)
甘利氏は同席した対立する方の追求を受けて
「学術会議にはいないかもしれないが、ならば学術会議は千人計画に参加しないように
 宣言したり提言すべきでなないか」と話をそらした

情報は、ぼーっと受け取るだけでは危険になってしまう時代になったようだ
日本学術会議はここ何年も答申をしていない、、との批判がある人から投げかけられ
存在意義を問われることになったが、そもそも答申は諮問という依頼があって行われること
だいいち政府からの諮問がない、、、というのが今度は当事者の言い分

そもそも日本学術会議は何をしているのか、、素人にはわからない
との批判も割合多いようだが(自分も知らないが)
昨日のTV番組(報道特集)では、国立公文書館の設立を提言したり
現在進行中のものでは疫学的に最高度の施設を作るような提案をして
それは建設中だとのこと
(現実的に役立つ提言をしてるじゃないか)

つまりは、情報を丁寧に調べたり情報チャンネルを増やしていけば
巷に広がっている情報が絶対的に正しいとは言えないことがわかってくる

ただ問題は、それが面倒くさいということ
それができないから人は自分が信用できそうな人の話を聞く
そしてそれでパッとわかった気になる

学問とか科学というのは、何かを安易に信じないというのが基本的な姿勢と思われるが
どうも科学を信じている割には、この前提の「疑う」行為自体がおろそかにされている気がする
(疑う癖ができていれば意識的に相反する意見の収集も行う)

「疑うという作業」はある種の知識人には常識的なものかもしれないが、一般人にはそこまでの認識はない
今朝の中日新聞には、知識人のこうした方が良いとする発言は、ある人々にとっては圧力とか強制につながり
それを煙たいと感じるひとの反知性主義的な運動に繋がっているかもしれないとしていた
(そうかもしれない)

人は一人で何もかも理解できるわけではない
どうしても誰か別の人に情報の提供や判断を依存することになる
この大事な誰か別の人を信じる、、という行為が、当たり外れのないようにするには
一体どうしたら良いのだろう

人は選挙において正しい選択をしうるものだろうか、、と不安になる
多数の意見は大枠に置いて正しいとする前提が、最近は少し疑わしく思えるので

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

印象に残る総量が違うフルトヴェングラーの音楽

2020年10月10日 09時38分24秒 | 音楽

やはり「すげーな!」と声が出た
どう表現したら良いのかわからないが、とにかく「すげーな」という感覚だけは強烈に残る
フルトヴェングラー指揮、ウィーンフィルの「エロイカ」1944年録音を昨晩聴いた

記憶に残っているはずなのに、そしてわかっているはずなのに、またまた圧倒されてしまった
でも以前と感じるところは少し違う
前は熱気の凄まじさに驚いたが、昨日はなぜこんな音が出るのだろう?
と不思議に思えた(例えば弦楽器主体のフォルテの音色)

指揮者は自分で音を出すわけではないのに、なぜ音が違うのだろう
気合が入った音と感じられるのは何故なんだろう

クラシック音楽をよく聴く人は、このようなことがあるのは理解している
だから多くの聴き比べをして楽しむのだろうが
何故音色が違うのかは、どうもスッキリと納得できる解説を聞いたことがない

量子力学は確率で表される
何故それが使われるかは、使うと結果とうまく繋がって便利だからで
演繹法による必然的な道具ではないらしい
これと同じで、何故音の印象が違うかはわからないが、音が違うという事実を
認めて話を進めたほうが生産的になっているので、既成事実として使われる

でも好みは時代背景で、そして聞き手の育った時代とか環境によって変わってくる
フルトヴェングラーを知らないで、その後のカラヤンがスーパースターだったころ
感受性のピークを迎えた人は、カラヤンが判断の基準になる

時の経過は恐ろしいもので今ではカラヤンでさえオールドスターになりつつある
そして少しばかり残酷な批評もちょくちょく見かける

それにしても、フルトヴェングラー、、
ほんと何が違うのだろう
不思議で仕方ない
彼の演奏が唯一無比とまでは言わないが、他の演奏と比べて体に残る何かの総量は違う
どこが、なにが違うのだろう

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする