正確な情報が伝わらない時代なのかもしれない
相反する情報は受け手が自分の好みのみを収集しがちだ
今はインターネットという文明の利器があるが、その傾向に拍車をかける
政治は数だ!と開き直って現実論を公言し、巷に流れる情報も
自分の都合の良い方を意図的に多くしようとする戦術が
取られることがないとは言えない
日本学術会議のメンバーは6年勤めるとルールで学士院になり、終身250万円の年金をもらえる、、
というデマは、発言をしたフジテレビの平井氏が謝罪して訂正したにもかかわらず
やはり、いつまでもそれを信じている人が相当数いる
デマはデマを信じるというより、信じたいと思うことで成り立っているのではないか
今朝のTV番組で甘利氏が「学術会議員の中には中国の千人計画に参加している学者がいる」
とした自身のブログを紹介したが、出演者に「それは本当か?」と聞かれると
確かめてはいない、、とのことだった
しかし、巷では甘利氏のこの手の発言が既に一部の人達に一気に拡散して学術会議批判の根拠となっている
確かな情報でないにもかかわらず発信力のある人がこのようなことを広める(意図的に?)
甘利氏は同席した対立する方の追求を受けて
「学術会議にはいないかもしれないが、ならば学術会議は千人計画に参加しないように
宣言したり提言すべきでなないか」と話をそらした
情報は、ぼーっと受け取るだけでは危険になってしまう時代になったようだ
日本学術会議はここ何年も答申をしていない、、との批判がある人から投げかけられ
存在意義を問われることになったが、そもそも答申は諮問という依頼があって行われること
だいいち政府からの諮問がない、、、というのが今度は当事者の言い分
そもそも日本学術会議は何をしているのか、、素人にはわからない
との批判も割合多いようだが(自分も知らないが)
昨日のTV番組(報道特集)では、国立公文書館の設立を提言したり
現在進行中のものでは疫学的に最高度の施設を作るような提案をして
それは建設中だとのこと
(現実的に役立つ提言をしてるじゃないか)
つまりは、情報を丁寧に調べたり情報チャンネルを増やしていけば
巷に広がっている情報が絶対的に正しいとは言えないことがわかってくる
ただ問題は、それが面倒くさいということ
それができないから人は自分が信用できそうな人の話を聞く
そしてそれでパッとわかった気になる
学問とか科学というのは、何かを安易に信じないというのが基本的な姿勢と思われるが
どうも科学を信じている割には、この前提の「疑う」行為自体がおろそかにされている気がする
(疑う癖ができていれば意識的に相反する意見の収集も行う)
「疑うという作業」はある種の知識人には常識的なものかもしれないが、一般人にはそこまでの認識はない
今朝の中日新聞には、知識人のこうした方が良いとする発言は、ある人々にとっては圧力とか強制につながり
それを煙たいと感じるひとの反知性主義的な運動に繋がっているかもしれないとしていた
(そうかもしれない)
人は一人で何もかも理解できるわけではない
どうしても誰か別の人に情報の提供や判断を依存することになる
この大事な誰か別の人を信じる、、という行為が、当たり外れのないようにするには
一体どうしたら良いのだろう
人は選挙において正しい選択をしうるものだろうか、、と不安になる
多数の意見は大枠に置いて正しいとする前提が、最近は少し疑わしく思えるので