例えば「りんご」
そこからイメージされるものを挙げてみる
サンふじ、津軽、秋映え、王林、紅玉、(アップルパイ)、アップルワイン、フランクフルト
長野、青森、ニュートン、万有引力の法則、ウィリアムテル、トロイア戦争
ビートルズ、アップル(Mac、iPhoneの)、エチレンガス
あるテーマで人が話し合うとしても、個人個人のそのテーマに対する情報量はかなり違う
上記の「りんご」でも、トロイア戦争とかエチレンガスとかになると、よくわからない人も
少なくないと思もわれる
人は何となく問題なく会話しているように思えても、
頭に浮かべる共通点が意外に少ないのではないか、、と思えることがある
この前提となるもの(情報量)の差が、個々の判断の違いになることは充分想像できる
今世間を騒がしている日本学術会議任命拒否問題でも
このことについて日本学術会議の目的とか日本学術会議法とか任命の手続き、答申の実績を知っている人と
菅さんの10億使っているから、諮問機関だから公務員だから、、、等の
ちょいとばかり雑な説明でわかった気になる人とは、判断は随分違ってくると思う
問題は、よく知らないひとも(間違っていても)大きな声を上げることができる時代になっていること
むしろ、詳しい情報は理解するのが面倒なので、わかりやすい論法につい寄り添ってしまう傾向が
現代は加速しているような気さえする
知の絶対量による分断、知の支配による分断、、
こうしたものは間違いなく存在する、、と感じる昨今