パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

子どもたちの感謝の作文

2023年03月14日 09時08分02秒 | 子どもたちのこと

3月のこの時期になると、毎年我々のボランティアグループに回覧が回ってくる
月曜日と木曜日に小学生の登校の集合場所、あるいは小学校の校門に
おじいさんやおばあさんが並んで「おはようございます」と声がけをする
「あいさつ推進運動」に対する子供たちの感謝の作文が綴じられて回ってくるのだ

自分は健康維持のために校門まで一緒に歩いているが、この時間は結構楽しい
無邪気な会話とか尻取りとか、「それ前聞いた」と怒られたりとか、、
つまりは心の健康にとても良い時間を過ごすことができるのだ

1年生から6年生の中から何人かの作文をまとめて綴じてあるのだが
毎年感動を覚えるのが、書かれている文字の綺麗さの進歩がすごいということだ

一年生は大きな字で勢い込んで書かれている
でもその分迫力がある
それが4年から6年になると列も真っ直ぐで、自分よりもきれいな文字が並ぶ

そこで作文を読んでみると「書かされている」と感じるものが毎年幾つか並ぶ
子供たちの本音というよりは、先生や大人たちはこう書いてほしいといった内容を
子どもたちが忖度して書いているかのようだ

気になるのは近所の子らの作文があるのか?という点で
パラパラとめくってそれらを見つけた
まずは最近やっと8歳になったばかりの2年生の女の子の文章
型どおりの感謝に続いて「手をつないで歩いてくれてありがとう」とあった
この子は一年の時、入学時はウキウキして登校していたのが
GW後は登校が嫌になる傾向が見られて、家から出ようとしないで涙を流している
そこでお母さんから「おじさんに手をつないでもらって行きなさい」と言われて
その後ずっと手をつないで行くことになった

今は大きくなったので手をつないでくれることが減って、そこで成長を感じたりする
その他にも彼女もハーマイオニーのようにしっかりした態度で
一年上のまだまだ子供っぽい男の子をやり込めている(女の子の成長は速い)

近所の子のもう一つの作文は「いつも忘れ物ない?と聞いてくれてありがとう」とある
おかげで忘れ物がなくなった、、と続かないのが彼らしく正直なところで
忘れ物をする可能性が少なくなったと続いている(今も忘れ物は多い)

このように具体的な話がでてくると、書かされているというよりは
何かを感じているのだと想像できるので、それがこちらも嬉しい

今年度の小学校は20日が卒業式、24日は終了式
今の子たちと一緒に歩くのはあと少しだけ、、、




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バカにされた気分を覚えた

2023年03月13日 13時56分08秒 | 徒然なるままに

確かひと月前くらいの頃、あまり投稿することのないFBページに
奇妙なコメントが現れた

投稿は前澤友作の名前で、100万円だったか10万円だったかが
抽選でもらえるメンバーに選ばれたとあった
それは指定されたサイトを開いて、良いねを押したりフォローすれば
抽選にエントリーできて、運が良ければ何をしなくてもお金がもらえる
というのだ

最初に感じたのが本当のことなのか?という点
ただ、前澤友作氏は以前にも似たようなことをしていた記憶があったので
まだ続けているのかもしれない、、と思った

次に浮かんだ感情は、ラッキーとは思えなかったことだ
むしろ、ちょっとばかり気分が悪いと言った方が良いかもしれない

確かに大したことをしなくてもお金がもらえるのは
経済的には喜ばしいことかもしれない
でも、それは自分という人間が「お金さえチラつかせば飛びついてくる」
と判断されたような気がして、バカにするな!と気分が悪くなった

それは、チャンスを見逃すやせ我慢かもしれないが
そのやせ我慢をしたくなった
この人はこんな方法を何かのプロモーションとして使っているのだが
余計なお世話だが、心が寂しい人とさえ思えてきた

ということで、この誘いにはエントリーしなかった
悪銭身につかず、、と言われることもあるが
毎日家計簿をつけて使い過ぎないようにとか、お得の商品を探すような
地道な活動のほうが充実感があるような気がしたからだ



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委託料は、結果が出て初めて決まるはずなのだが、、、

2023年03月12日 09時50分16秒 | 養鶏所騒動

余り知る人のいない地元の話題で
常々変だな!と思っていること

国家資格の必要な不動産鑑定は、それを行う人次第で結果が異なる
対象に対する(便利・不便の)感じ方とか、経験の量だとか
あるいはクライアンの意図を読む能力とかによって違ってくる

地方自治体などの依頼する不動産鑑定の委託料は
かつては表になって決まっていたようだ
不動産鑑定が結果としてこれこれの金額が算出された場合は〇〇万円
それ以上の価格が算出されるなら、より高額の〇〇万円が
委託料といった形だ

最近では、この表を使わなくて依頼主、受注者が相談の上
不動産鑑定の委託料を決めることが多くなっているらしい
(これは弁護士費用もそうなりつつあるようだ)

ところが、この表を使ってはいけない、、ということではないので
前例の大好きな役所は依然としてこの表を使うところも少なくないようだ

問題は、委託料は不動産鑑定の結果として金額が出た時点で表を見て
初めて金額がわかるということで、依頼する段階ではどのくらいの金額で
発注していいかわからない、、(と素人は想像する)

我が市の問題となっている養鶏場の不動産鑑定は、随意契約である業者に依頼した
金額が高額なものは競争入札にするのが決まりだが、行政は不動産鑑定の委託料は
参考となる表があって誰が行っても同じ金額で依頼することになり
競争入札に適さないので経験豊富な企業におまかせした、、と行政は答えている

では一体いいくらで委託したのか?
表による委託料は結果が出ないとわからないのに、、
このあたりはどのような契約書を交わしたのだろう

この随意契約は、急遽開かれた臨時議会で問題の場所の購入し関し
5億円ほどの債務負担行為が議決された時点で、不思議なくらい素早くなされた
(臨時議会のその日のうちに行われた)

その時点でやっていない不動産鑑定だが、やっていないからと言って
あなた任せの金額で契約することはありえない
すると業者は「債務負担行為」の金額を目安に委託料を算出した可能性がある

業者は議決された債務負担行為の金額が、不動産鑑定の結果としての価格
と想像したとしても、それはありそうなことだ
(つまり真面目に不動産鑑定を行い、より低い価格の結果の低い委託料になるよりは
 ここまでの料金が想定されているならば、想定された価格の結果を出す方が得だ)


というように、なんだか変なことがなされたような気もする
これは随意契約の委託金額と、契約を交わした日の時系列等を確かめたほうが良いのかもしれない
ただ、この部分は余り違和感を感じていない人もいるので
自分の思い込みがどこか間違っているかもしれない
でも、なんだか変だな、、と思えてならない

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嘘をついているかどうかは、本人しかわからない

2023年03月10日 09時23分17秒 | あれこれ考えること

久しぶりに真面目な話

年始め、帝銀事件絡みの本を読んだ
そこで知ったのは帝銀事件は旧刑事訴訟法の最後の例だったということで
自白が何よりも重視されたそうだ
警察は自白を強く求め、一旦自白してしまえばそこから理屈を考える
そんな進め方を可能にしていたようだ

最近の考えようによっては非常に怖いニュースは
総務省の放送法に関するレポートから発生した騒ぎで
レポートは立憲民主の小西議員が総務省の誰かから手にしたもので
そこには放送法の解釈や運用について政府の怪しい動きが書かれている

放送法は政治的な公平性を保つように書かれている
ある番組が政府批判に時間を費やしていたとしても
次の回に今度は政府よりの発言が多ければ全体として公平とみなしても良いだろう
とするのが従来の考え方だったが、レポートによると一つの番組だけでも
その時に偏っていたならば、公平でないとみなすのもありとしたい意向が
政府の中にはあったように感じとられる内容だ
(例としてサンデーモーニングが挙げられた)

これは捏造だと頭ごなしに否定したのが高市早苗氏
ところが総務省はあっという間にこれは公文書だと認めた
そこで高市氏は「内容が事実と違う」
「自分はこんな事は言っていないし、電話もかけていない」と断言する

しかし、ここで問題なのは高市氏が言ってることが本当なのかどうなのかは
誰もわからないということだ
知っているのは高市氏だが、彼女が嘘を言わないとは限らない
裁判では証言に立つ人は嘘を言わないと宣誓するが
知人の弁護士からの話によると経営者の部類の人は平気で嘘をつくらしい
民事裁判では原告・被告も嘘を言ったら罰せられるということではないらしい
つまり人は守るものがあると平気で嘘をつく生き物ということだ

誰もわからないことを事実と違うと言っても、それは個人の主張にしか過ぎない
ところが、この主張が最近のこの国ではまかり通る傾向がある
「首相が嘘を言うはずがないじゃないですか」
と言ったのは悲劇的な死を迎えたあの人だった
首相だから嘘を言わないなどは随分強引な理屈だが
これを見ると、今の世の中は自白のみが重要視されたあの時代と同じか
と思ってしまう

だが、このレポートが本当のことともわからないのも事実だ
公文書というものの定義は、みんなが共有した知識を得るものとされているから(?)
あの文書は総務省の何人かの人は読んでいて、共通認識としている

官僚さんの何人かが読み終えて知識となる公文書を
誰かが意図的にある方向に持っていこうとするということは
これもまた不自然なことだし、仮にそれがあったとしたら
それは組織として健全な運営がなされているとは思えない

と、田舎のおっさんがあれこれ心配したり、あやふやな知識であれこれ想像
したりするのは真に生産的ではないかもしれないが
それでも、昨今のいろんなことが気になる

ここで怖いと思うのはYoutubeでは高市大臣を応援し
小西議員を罵倒する動画が異様に多いことだ
表現の自由がある社会だからそうなる可能性があるというものの
この動きは何やらプロパガンダに通じる何かを感じてしまうが





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大事なことは、そっとしか言わない

2023年03月09日 16時51分53秒 | 音楽

レコードプレーヤーがやってきてレコードばかり聴いている
やはり音楽に集中できる感じがする
レコードは針を落とす位置の確保で途中から聴くのがCDより難しいが
今日聴いたのは、K488第2楽章とK364の第2楽章
モーツァルト好きならピンとくる曲で
あまりモーツァルトを知らない人でもきっと魅了されてしまう曲だと思う

モーツァルトは聞き流しても心地よいが
一度耳を澄ますと思いもよらぬ発見がある
例えば、馴染みのモーツアルトのフレーズとか旋律を追っかけて
次がどうなるかを予想してみると、きっと外れてしまうと思う
つまり簡単な繰り返しは無くて、絶えずどこかが変わっている
それが生き生きとした効果を挙げているのかもしれない

でも、K488とK364はそれほど集中しなくても引き込まれる
それでも、この音楽の肝心なところは「そっとしか言わない」から
のんびりしてると聴き逃してしまう
両曲も美しいメロディなので、もっと何度も使えばいいのに!
と凡人は思うが、モーツァルトは使い古さない
大事なことは、そっとしか言わないし、一度しか言わない
感じる人が感じるだけ
そんなふうに突っ放されているような気さえする

これらの曲は何度も聴いているので新鮮さはなくなっているが
今日は、不意に涙がでそうになってしまった
モーツァルトは本当にいいな

紹介した曲はこちら↓↓

Hélène Grimaud – Mozart: Piano Concerto No. 23: II. Adagio

Mozart: Sinfonia Concertante in E Flat Major, K. 364 - 2. Andante

 

 

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3枚で1500円

2023年03月08日 09時19分33秒 | 音楽

めっきり車で外出することが少なくなったが
昨日は豊橋のオーディオショップまでレコードプレーヤーの支払いに出かけた

ところで、以前のプレーヤーとの比較を記憶のあるうちに残しておくと
一番の違いはオーケストラが大音響で鳴る時で
前のノッティンガムのプレーヤーはティンパニなどは
地の底から鳴るような音だったが、今度のはそこまでの迫力は無いが
そのうち慣れてしまうから不満とまでは行かないだろう

豊橋のオーディオショップには2階に中古レコードを販売しているコーナーがある
JPOPとか昭和歌謡が多いが中にはクラシックのレコードもある
そこで3枚選んで1500円を支払った

一枚目がミケランジェリの演奏するシューマンの「謝肉祭」
これはCDで持っているので両者の比較ができるし
CDを聴いていたときもいい演奏だな、、と思っていた


二枚目がミケランジェリとジュリーニの組み合わせでベートーヴェンの「皇帝」
ミケランジェリは好きなピアニストで、音自体が魅力的だ
ドビッシーの前奏曲などは曲が終わる瞬間の静寂すらも曲の一部のような印象だ
「皇帝」はそんなに好きな曲ではないが、ピアニストがミケランジェリなので
500円なら良いか!といったところ
(「皇帝」はなぜかフルトヴェングラー指揮とフィッシャーの組み合わせのはのは好きだ)

3枚めがオイゲン・キケロの一枚
キケロはクラシック音楽をジャズ演奏する音楽家で、メンデルスゾーンの「春の歌」とか
バッハの「マタイ受難曲」の一部をトリオで演奏したものを持っている
これも500円なら良いか、、と買い求めた

家に帰ると早速シューマンの「謝肉祭」を聴いてみた
いいなあ、、
第一印象はシンプルなこの一言に尽きる
CDで聴いていたときよりもニュアンスの込め方がより聴き取りやすくなった感じ

ということで、3枚1500円のお買い物は大正解!だったと思う
最近のレコードブームはいいことだが、そのために中古レコード価格が上がるのは嬉しくない
この価格帯で色んな曲、いろんな演奏の選択肢が多くあれば良いのだが、、、

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庭の木の花が咲き始めた

2023年03月07日 09時06分29秒 | 徒然なるままに

庭のウグイスカグラが、ようやくチラホラと咲き始めた
いつもより少し遅い感じだ

今年は暖房の節約生活をしていて、それでも寒いとは感じなかったので
厳冬の認識はなかったが、花々にとっては寒かったのだろうか
(以前撮影したウグイスカグラの撮影データはもっと早い日時だった)

花の名前は覚えられない(覚える気が無いのかも)
女性が車の名前を覚えられなくて「赤い車」「大きな車」と表現するのと同じで
赤い花、小さな花くらいしか人に伝えられない
だが流石に家の庭のものくらいは覚えた
この時期に咲くのが

トサミズキ
道沿いに枝が伸びるので、同居人が気にして時々枝を切ったりする

同居人が好きなのが

木瓜の花
開ききっているより、このくらいが好き!
と何度も繰り返す
(自分はこの花には愛着はないにのだが)

少しにぎやかに咲いていたのが


馬酔木
この花は節分の時の魔除け?にも使った

最近は日の出が早くなり、日の入りも遅くなっている
また、カーテン越しに差し込む光も以前より北からになっている
そして何よりも光の色が明るい
その光の色に誘われて温かいつもりでいると思いの外冷たい
ということがあるので体調に注意が必要だ

実は自分は花よりも葉っぱが好きだ
4月の後半、ほとんど毎年同じ頃、木々は一気に新緑の葉を纏う
この葉っぱの赤ちゃんのような湿気を含んだ瑞々しい葉と
その色がとても好きだ
そしてそれらの葉っぱに覆われてできる木漏れ日が
とても心を落ち着かせてくれる

「這えば立て、立てば歩め」の親心ではないが
早く新緑にならないかな!とつい思ってしまう

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レコードプレーヤーがやっと届いた

2023年03月06日 17時43分14秒 | オーディオ

待ちわびたレコードプレーヤーがやっと届いた

ラックスマンのPD151 MARKⅡだ

前に使っていたのがノッティンガムのハイパースペース
ものすごく重量のある製品で、回転を始めるには手で回さなければならない
音は「いろんな音を拾うな」といった感じで、少し硬めな感じだった
ものすごく気に入ってたということはなく
途中でターンテーブルシートを購入して少し音を柔らかくした

今年になってプレーヤーのカートリッジが4本の線のうち一本が切れてしまって
何ともならなくなった
トラブルの部分を修理して使い続ける気持ちは全く起きなかった

このように少し飽きた感じがしたのはノッティンガムはカートリッジの交換がとてもやり辛く
また購入したてのときの好みの音とは違うという印象が頭に残っていたからだ

このノッティンガムは岡崎のオーディショップから中古品を購入した
(たまたま下取りで入ったらしい)
その時は存在感のあるデザインに圧倒されて音も良いに違いないと
思い込んでいたし店の人の説明を無条件に聞き入れてしまっていた

思いの外あっさりと別れを決めたノッティンガム
優先順位は早く納品ができるもので程々の性能のもの
アナログプレーヤーは他にも有名なメーカーがあるが
毎年こまめに年賀状を送ってくるラックスマンの製品を購入することに決めた

2時に我が屋に来て、下取りしてくれるノッティンガムをパーツごとにばらして
3時頃にはラックスマンの製品をセットアップして聴けるようになった

試しに聴いたのがバッハの「音楽の捧げもの」の中のトリオ・ソナタ
ヴァイオリンとフルートとチェロが精緻に絡み合う心が落ち着く音楽だ
久しぶりにレコードを聴くと音が生々しい
チェロが音量を上げる時の息遣いとか熱みたいなものを感じられた

店の人もいるところで、同じアルバムのCDの同じところをかけてみた
これはほとんどの人が行う実験のようなものだ


印象は意外にも悪くないかもしれない、、だった

でも耳を澄ますと、熱っぽさとか、楽器のナマの音じゃないとか
ほわっとした感じがないとか、音が細い感じとか気になり始めた

以前、知人と行ったレコードとCDの同音源の聴き比べ(アビーロード)
知人は最初は大きな違いを感じられなかったが
レコードの音を30分ほど聴き続けたあとでCDを聴くと「あれっ!」と声を挙げた
何か物足りなくて、スカスカの音に聞こえて仕方なかったようだ
確かに音の情報量が全然違う様に思える

とは言うもののCDの音とレコードの音の違いなどは、実はほんの些細な事かもしれない
でも自分に残された時間を楽しむにはレコードの音が必要だった
と、自分に言い訳して、同居人には価格も知らせないで、ちょっと贅沢をしてみた

やっと音楽を楽しめる
田舎は生演奏に接するのが難しいので、レコードはとても大事なアイテムだ

 

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降られなくて良かった

2023年03月05日 14時25分00秒 | 徒然なるままに

周り番の地区のお役目、今年度の最後の行事が終わった

昨晩は床に入ってからも天気が心配になって
雨対策のテントも念の為に用意しておこうかな
諸々の準備したものは一回で運べるかな
忘れ物は無いかな
普段は寝付きの良い自分でも、なんの苦労もなく眠ることはできなかった

近頃は徐々に日の出が早くなっているが、今朝は気持ち薄暗い感じ
起きて直ぐしたことはカーテンを開けることで
窓から覗いた空は薄い雲で覆われていた
これなら予報通り10時までは保ちそうだなと
晴れ男の根拠のない確信を持てたので、テントの準備はやめた

現地集合は8時20分だったが、とりあえず8時に現地に着いた
現場すぐ近くの方が、車が着くのを見て手伝いの声をかけてくれた
荷物を車から運び出しているうちに、ひとり、ふたりと集まってきた
担当者は毎年変わるが、例年繰り返しているので段取りはみんな頭に入っている
段取りは思ったよりもスムーズに進んだ
そのおかげで開始までの時間が十分すぎるほどになった

行事(祭り)は始まってしまったら後は一気呵成に進んでいく
この行事は三角くじがあるので、いつものお祭りより人は集まりやすいと聞いていた
くじの担当は、集まってくれた地区の人達
今年は特別に拝殿の解体などがあり、それについての会議を行ったので
メンバーの顔も見たことがある人が並ぶ

こう言うとき、男は(自分は)地域の人を知らないなあ!と実感する
同居人は、どこどこのあの人は、こうだよ!と説明してくれる
彼女はボケが始まる年齢どころか、全く反対で
なんでそんなことまで覚えているのか?と驚きを覚えるくらいだ

持ってきたものを帰りにも持って帰る
そんな当たり前のことできていなかった(落ち込みそうになる)
片付けをみんなで行ったために、持って帰るべきものを違う箱に入れてしまったらしい

でも、今日は降られなくてよかったね!
とみんなが口にする
本当に、その通りだ

これであとは事務的な手続きが少しあるだけ
いろいろあった令和4年度の地域のお役もあと少し

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わかりやすさの罠

2023年03月04日 08時09分40秒 | あれこれ考えること

先日の名古屋モーツァルト協会の人との話の中で
クラシック音楽を楽しむのは老人ばかり!との話がでた
確かにコンサート会場には自分と同じくらいの年齢の人が多く
若い人の姿は少ない
なぜなんだろう?と少し考えてみた
それは、わかりやすいかどうかという点にあるのではないか
と仮定できるような気がする

最近の若者の流行りといえばインスタグラムとかを始めとするSNS
SNSでなくても、ここのブログでも写真を多く使った投稿が圧倒的に多い
視覚に訴える要素がないと多くの人にウケないと想像できる
人の情報は視覚からが圧倒的に多く、見たものは何よりも優先される

クラシック音楽に欠けているのは視覚的要素だ
目に入るのは演奏者の姿だけで、多くの場合、長い時間辛抱を要求される
歌があって歌詞を聞き取れる場合とか、ディスプレイに歌詞が映る場合は
それを見てイメージすることができるが、楽器の演奏のみの純音楽
という分野は音だけで成り立っているので抽象的に思えてしまう

何事も慣れが肝心で、こうした音楽も慣れればそれなりに楽しめると思うが
問題は慣れるほど聴こうと思えないというところだろう
長くて、イマイチ生活感と関係のない世界で、時に感傷的なメロディもあるが
大半は抽象的な世界に終止する世界を楽しむのは難しい
つまりわかりにくいとか親しみにくい存在なのだろう

話は飛ぶが、水墨画は文字通り墨の黒だけで描かれた絵だが
墨にもいろんな色があって、黒くても青空を連想させるような色もある
(見る人の想像力を刺激しているのだと思う)
それは卓越した技術とか墨の選択の妙のおかげだが
人が絵を楽しむには、そんな高度な技術を用いなくても
最初から色のついたものを用いれば、見る人に想像力が無くても楽しむことはできる

つまりは、わかりやすい情報は人に伝わりやすいということで
深く伝わるかどうかは疑問の余地があっても
わかりやすいことは何よりも優先されることが今の風潮なのではないか

本読みは映画化されたものより、自分が読んだ本の世界の方が良いと
答える人が少なくないが、自分のイメージした世界のリアリティは
与えられたものよりも切実なのだろう
楽しむだけなら本読みよりも楽ちんなのは映画を見ることで
活字がページにいっぱい詰まった面倒くさい読書などしなくて済む

本を読むことと、クラシック音楽に親しむことは案外似ているかもしれない
どちらも楽しむにはそれなりの苦労が必要だということ
両者とも作品に向かうには集中力と想像力が必要だ
慣れればその瞬間こそが面白いと感じられるのだが
慣れないとただ面倒くさいで終わってしまうのではないか

そこで現代批判となるのだが、現代の風潮の一つである
わかりやすいということは何よりも優先されることなのか?
をあえて考えるべきでないかと思う

昔の若者は、「良い格好しい」が多く、読みもしない哲学書とか
朝日ジャーナルを見せびらかす様に持参したらしいが
今の若者はどうなんだろう

若者は疾風怒濤をいつの時代も経験するのだろうか
身の回りには若者がいないのでイマイチかわからないが
わかりやすさの罠に引っかからないで欲しいと思ったりする

相変わらず、まとまりのない変な話!






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